福田昭のセミコン業界最前線

「松下」はかつてDRAM開発で世界の先頭集団を走っていた。「松下半導体」の60年を振り返る

国際学会ISSCC 1991(1991年2月開催)で発表された64Mbit DRAMの一覧と概要。各社の発表論文から筆者がまとめたもの
  • 「松下(パナソニック)はかつて、DRAM開発で世界の先頭集団を走っていたことがある」。
  • 「松下はかつて、売上高ランキングで世界の8位、日本で4位の半導体メーカーだったことがある」。

 意外かもしれないが、いずれも事実だ。日本の半導体メーカーがDRAMの研究開発で世界をリードしていたのは、1980年代後半から1990年代の前半までとされる。研究開発をリードしていたのは、NEC(日本電気)、日立製作所、東芝、三菱電機、富士通の5社だとされていた。

 しかし1991年2月の国際学会ISSCCで、シングルダイでは過去最大の記憶容量となる64MbitのDRAMを開発したと発表したのは、東芝、三菱電機、富士通、そして松下電器産業だった。なおNECは、翌1992年2月の国際学会ISSCCで、64MbitのDRAMシリコンダイを発表している。

 また市場調査会社データクエスト(Dataquest)が発表している半導体ベンダー売上高ランキングによると、1981年と1986年に松下は世界で第8位につけている。1989年は世界で第9位、1991年は世界で第10位である。

 さらに1981年のランキングでは、日本企業が3位~5位(NEC、日立、東芝の順)と8位(松下)を占めていた。松下は日本で4番目に大きな半導体メーカーであり、三菱電機と富士通よりも上位につけていた。1980年代~1990年代前半に「松下の半導体」は、世界の先頭集団を走っていたと言えよう。

市場調査会社データクエスト(Dataquest)が発表した半導体ベンダー売上高ランキング(1971年、1981年、1986年、1989年、1992年、1996年)

60年を超える松下の半導体事業

 その「松下の半導体」が終えんを迎えようとしている。すでに知られているように、昨年(2019年)の11月28日に、パナソニック株式会社は同社の半導体事業を台湾の半導体メーカーに売却すると公式に発表した(パナソニック、台湾企業に半導体事業を譲渡参照)。売却は今年(2020年)の6月1日までに完了する予定である。

 「松下の半導体」は、1957年5月に事業を開始した。そして2020年6月には、60年を超える歴史ある事業から撤退する。そこで本コラムでは、「松下の半導体」が歩んだおよそ60年の道のりを振り返ることにする。

1952年に誕生したフィリップスとの合弁会社がはじまり

 「松下の半導体」のはじまりは、1950年にまでさかのぼる。約70年も前のことであり、戦後まもない時期のことだ。第二次世界大戦で大きく傷ついた日本の製造業は1950年の朝鮮戦争による特需と世界的な景気回復によって急速に活気を取り戻す。そのようななか、松下電器産業の創業者である松下幸之助社長(当時)は1951年1月~4月に海外の状況を知るため、米国を視察した(参考資料 : 「松下幸之助の生涯 89.アメリカ視察の旅に出発 1951年(昭和26年)」)。

 1950年の日本は戦後の復興期であり、非常に貧しかった。たとえば東京では午後7時から1時間の計画停電が実施されていた。一方で当時の米国はとても豊かで繁栄を謳歌しており、松下幸之助氏は日本とのあまりの格差を痛感させられた。格差は技術にもおよんでおり、海外の先進技術を日本に導入することが、日本を米国のように繁栄させるには不可欠だとの考えにいたった。

 そこで具体的な技術提携パートナーを見つけるため、松下幸之助社長は同じ1951年の10月~12月に米国と欧州を訪問した。そして世界的な大手民生エレクトロニクス企業であるオランダのフィリップスを技術提携先に選んだ。

 技術提携の交渉は順調とはいかなかった。交渉の過程からは、フィリップスが松下電器産業を見下していたことがうかがえる。フィリップスが出してきた当初の条件は、資本金6億6,000万円の合弁会社の設立、フィリップスの資本比率は30%、契約料(イニシャルペイメント)は55万ドルというもの。そして合弁会社の売り上げの7%をロイヤルティ(技術指導料)としてフィリップスが受け取り、この技術指導料をフィリップスの出資金に充てるという条件をつけた。

 売り上げの7%という技術指導料は、当時としては破格の高さだった。当然ながら提携の候補となった企業はフィリップス以外にもあり、米国のエレクトロニクス企業が条件として出してきた技術指導料は3%だったという。松下幸之助社長は、松下電器産業は合弁会社の経営を指導するので「経営指導料」を合弁会社の売り上げから受け取るという対案を突きつけるとともに、技術指導料の値下げをフィリップスに要求した。

 そして1952年10月16日に両社は合弁会社「松下電子工業」設立の契約にいたる。フィリップスが受け取る技術指導料は売り上げの4.5%、松下電器産業が受け取る経営指導料は売り上げの3.0%で合意した。その差は1.5%である。その後もこの指導料の格差を埋める努力を松下は続け、3.0%対2.0%(差分は1.0%に縮んだ)を経て1967年には両方とも2.5%で格差はついにゼロになった(参考資料 : 「松下幸之助の生涯 92. フィリップス社と技術提携 1952年(昭和27年)」)。

松下電器産業とフィリップスの合弁会社「松下電子工業」の設立経緯

 松下電子工業株式会社の正式な発足は1952年12月である。本社所在地は大阪府高槻市。当初の事業は照明管(電球と蛍光灯)と真空管の製造であった。これらは松下電器産業の管球事業を移管するというかたちではじめられた。

 松下電子工業では、通常の日本企業とはかなり異なる国際的な企業文化が形成されていたようだ。フィリップスから出張した技術顧問が松下電子に常駐しており、通訳を介さずに英語を公用語として情報交換や交渉などを実施していたという(参考資料 : 河崎達夫、「フィリップスとの合弁でスタートした松下半導体」、『半導体シニア協会ニューズレター Encore』、vol.38、2005年1月号)。

バイポーラIC事業が順調に立ち上がるも、MOS LSI事業は苦戦

 松下電子工業が半導体を手掛けるのは創立から5年後の1957年のことだ。前年の1956年には事業部である「半導体部」が発足し、1957年5月にはフィリップスの技術を導入することでゲルマニウムダイオード、同年11月にはゲルマニウムトランジスタの製造を開始した。松下電子工業の発足翌年の1953年には同社の技術者がフィリップスに半導体製造技術習得のために出張しており、発足当初から半導体事業を手掛ける計画であったことがうかがえる。1959年にははじめてのシリコン製品である、シリコンパワーダイオードの製造もはじめた。

 集積回路(IC)の開発がはじまるのは1967年である。この年4月に「IC開発部」が発足した。フィリップスのバイポーラIC技術を習得するため、松下電子から7名の技術者が1967年5月にオランダのフィリップスに出張した。出張期間は3カ月~6カ月におよんだ。そして翌年の1968年には、バイポーラICの生産を開始した。このバイポーラIC事業は順調に伸び、1970年代から1980年代に松下電器産業のTV受像機やビデオテープレコーダ(VTR)などを支えることになる。

 一方、MOS IC(MOS LSI)の開発は1969年にはじまった。松下電子は研究所に「IC研究部」を設け、フィリップスの技術を導入することなく、独自に研究開発をはじめた。1970年にはIC研究部の技術者が事業部に移籍し、MOS LSIの製造を立ち上げる。最初の用途は電卓向けLSIであった。松下電器産業はバイポーラICの主要顧客であったものの、MOS LSIに対する需要はほぼ皆無であり、MOS半導体の事業は厳しい状況にさらされる(参考資料 : 河崎達夫、「松下のMOSLSI事業の起業からマイコンの事業化へ」、『半導体シニア協会ニューズレター Encore』、vol.39、2005年4月号)。

 ただし主力であるディスクリート(トランジスタとダイオード)製品とバイポーラIC製品は非常に好調で、半導体事業の売上高は1965年の42億円から、1970年には155億円と5年で3.7倍に急増した。

松下半導体の軌跡(その2)(1960年~1970年)。おもな参考資料 : 『光とエレクトロニクスで未来を拓く : 松下電子工業の歩み 1952-1993』、松下電子工業発行、1994年

TVの選局用マイコンでMOS LSI事業が開花

 MOS LSI事業が立ち上がるのは、マイクロコンピュータ(マイコン)とメモリ(DRAM)の開発以降である。松下電子は1975年に富士通、パナファコムと共同でnMOS技術による16bitマイクロコンピュータを開発した。同年に松下電子は4KbitのDRAMを開発している。

 松下電子は16bitマイコンの開発完了を受けて1976年7月には、4bitマイコンの開発プロジェクトをスタートさせる。ところが米国のTV受像機部門であるモトローラ(Motorola)のTV受像機事業(「クエーザー(Quaser)」ブランドでTVを販売。1974年に松下電器が買収したもの)でトラブルが発生し、急遽、TVの選局用4bitマイコンを開発することになる(参考資料 : 新宅純二郎、「競争と技術転換 : 日米カラーテレビ産業の比較分析を通じて」、『学習院大学経済経営研究所年報』、1992年、および河崎達夫、「松下のMOSLSI事業の起業からマイコンの事業化へ」、『半導体シニア協会ニューズレター Encore』、vol.39、2005年4月号)。

 1976年12月にはエンジニアリングサンプルが完成し、1977年にはクエーザーがマイコン選局機能搭載のTV受像機を発売する。このTV受像機がきっかけとなって米国のTV大手ゼニスエレクトロニクス(Zenith Electronics)が松下電子のTV選局用マイコンを1978年に発注する。ここから、松下電子のマイコン事業が本格的に拡大していく。

松下半導体の軌跡(その3)(1971年~1977年)。おもな参考資料 : 『光とエレクトロニクスで未来を拓く : 松下電子工業の歩み 1952-1993』、松下電子工業発行、1994年)

世界ではじめて64Mbit DRAMを試作

 すでに述べたように、DRAMの開発と量産は1975年の4Kbit DRAMからはじまった。1978年後半には、次の世代である64Kbit DRAMを量産するようになる。1984年にはさらに次の世代である256Kbit DRAMを開発した。1986年には1Mbit、1990年には4Mbitと順調に記憶容量を拡大していく。

松下半導体の軌跡(その4)(1978年~1984年)。おもな参考資料 : 『光とエレクトロニクスで未来を拓く : 松下電子工業の歩み 1952-1993』、松下電子工業発行、1994年
松下半導体の軌跡(その5)(1984年~1990年)。おもな参考資料 : 『光とエレクトロニクスで未来を拓く : 松下電子工業の歩み 1952-1993』、松下電子工業発行、1994年

 そして1991年。世界に先駆けて当時としては最大記憶容量の64Mbit DRAMシリコンダイを試作し、国際学会ISSCCで発表する。ただし試作したのは松下電子ではなく、松下電器産業の研究部門である。松下電器産業は1985年に半導体基礎研究所を設立し、独自に半導体の研究開発をはじめていた。

松下半導体の軌跡(その6)(1991年~1993年)。おもな参考資料 : 『光とエレクトロニクスで未来を拓く : 松下電子工業の歩み 1952-1993』、松下電子工業発行、1994年

 1993年5月。松下電器産業は松下電子工業におけるフィリップスとの合弁を解消した。当時の出資比率は松下電器が65%、フィリップスエレクトロニクスとフィリップス白熱電球が合計35%だった。フィリップスグループの持ち分35%を1,850億円で松下電器が購入する基本合意契約が1993年4月に成立したことで、約40年の合弁事業は解消され、代わりに特許のクロスライセンス契約が結ばれた(参考資料 : パナソニック社史 1993年(平成5年))。

 こうして松下電子工業は、松下電器産業の100%子会社となった。フィリップスとの合弁事業に心血を注いだ松下幸之助相談役が1989年4月に他界してから、4年後のことだ。あとから振り返ると、ここから半導体事業における松下電子工業と松下電器産業の関係が変わりはじめたことが見て取れる。粗く表現してしまうと、松下電子工業の独自色が薄れるとともに、松下電器産業が半導体事業を取り込もうとするのだ。詳しくは機会を改めて述べたい。