大河原克行の「パソコン業界、東奔西走」

日本マイクロソフト社長から会長に就任する樋口氏の7年の軌跡を振り返る

 7月1日で日本マイクロソフト株式会社の代表執行役社長に平野拓也氏が就任した。それに伴い前社長の樋口泰行氏は、代表執行役会長に就任する。

 樋口氏は、2007年3月、ダイエーの代表取締役社長から転身し、日本マイクロソフトに入社。2008年4月には代表執行役社長兼米Microsoftコーポレートバイスプレジデントに就任。それ以来、7年3カ月に渡って、日本マイクロソフトの舵取りをしてきた。

 その間、日本マイクロソフトは成長路線へと転換。直近4年間では、社内表彰制度のTOP SUB AWARDを3回受賞。世界のMicrosoft子会社の中で、最も優秀な成績を収めた現地法人となった。

 日本マイクロソフト社長としての7年3カ月の在任期間を含めて、日本マイクロソフト入社からの樋口氏の取り組みを、当時の写真やコメントとともに振り返ってみる。

2007年3月にマイクロソフト(現・日本マイクロソフト)入社時の会見で、当時のダレン・ヒューストン社長とがっちり握手。ダイエー社長からの転身ではあったが、元々はAppleやボストンコンサルティンググループでの経験のほか、日本ヒューレット・パッカード社長を務めるなど、IT業界での経験が長い。日本マイクロソフト入りは、IT業界への復帰であった。ダイエー社長退任後、異業界とも言えるダイエー入社の理由を尋ねたところ、「打席に立っていたら変化球が来て、それを打ってしまった」との比喩を思い出す。だが、ダイエー再生に取り組んだ経験は、その後の経営にも活かされていると言えよう。会見では、ヒューストン氏が、「私の後任ということを含めて考えている」と社長含みの入社であることを明かしていた
2007年7月にはヒューストン氏が打ち出した3カ年計画の「PLAN-J」の最終年度の方針を発表。PLAN-J の基本方針の1つであるデジタルワークスタイルを樋口氏が、もう1つのデジタルライフスタイルをヒューストン氏が担当することになった。樋口氏は、「日本はデジタルワークスタイルに関して、他国と比較して3~5年遅れている。企業における個人の生産性向上が、企業全体の経営の向上に繋がる。People Readyビジネスを訴求していくことが必要」と語った。そして、入社以来、精力的に顧客やパートナーを訪問した結果、樋口氏が感じたのが、「マイクロソフトの顔が見えない」という実情。「まるで血が通っていないロボットみたいだとも言われた。まずはこれを払拭したい」とし、「顔が見えるマイクロソフト」を目指した
この頃、日本マイクロソフトは地方への拠点展開を積極的に展開していた。樋口氏も、支店の開設に合わせて、現地を訪問し、地元関係者との関係強化にも力を注いでいた。その時の樋口氏のお決まりのフレーズが、「ダイエーの時には、店舗の閉鎖で訪れ、ご迷惑をおかけしましたが、今回は出店でやってまいりました」というもの。笑いとともに、会場からはいつも大きな拍手が湧いた。写真は、石川県金沢市への北陸支店開設時のもの。確かに、樋口氏のダイエー社長時代に、ダイエー金沢店を閉鎖していた
2008年2月に行なわれた樋口氏の社長就任発表会見。「社長就任の要請を正式に受けたのは2週間ほど前」と樋口氏は語ったが、この社長就任はヒューストン氏が言及していたように規定路線。樋口氏も「社長就任までの期間は決まっていなかった。ソフトウェアの会社は初めてのこと。私の準備が完了するのを待ってもらっていたのは事実」と冗談混じりに話した。この会見では、「これまで遅れていたIT Proに対する施策を新たに追加していきたいと考えている」と、IT Proに対する支援強化を表明する一方、「売れていた時代を経験した人が社内に多く、競合と戦いながら、顧客の心を握ってビジネスをする経験がない。ここは努力すべき点。顧客やパートナーに顔を見せ、社内で議論するより、顧客とのやりとりに時間を使いたい」と語った
2008年7月、樋口社長体制となって初めての経営方針が発表された。同社会計年度で2009~2011年度までの3カ年を、「地に足のついた革新による確実な成長軌道の実現」とする一方、マイクロソフト社員のビジネス行動規範を設定。また、マイクロソフトの目指すべき企業像として、「お客様に顔が見え、親しまれ、かつ尊敬される企業」、「日本社会に根ざし、環境問題を含む諸問題において、良き企業市民として、貢献できる企業」などの5つの項目を制定。この日を境にして、樋口社長の口から、目指す方向性として、「顔が見えるマイクロソフト」、「日本に根ざしたマイクロソフト」といった言葉が数年に渡って使われることになる
2009年10月22日に発売となったWindows 7。多くの来店客と握手しながら発売を祝った深夜0時の秋葉原でのカウントダウン販売に続き、早朝からは量販店を精力的に訪問した樋口氏は、快晴の空を見上げながら、「今日は晴れ晴れとした天気で、気分も希望に満ちて晴れやか」とコメント。「予約だけで、Windows Vista発売後3カ月分に相当する数量に達した。厳しい経済状況の中で、起爆剤になるものと期待している」と語った。だが、発売イベントなどが終了した後の関係者だけのパーティでの挨拶は、「Windows 7は行けると思っていたが、正直なところ、ここまで行けるとは思っていなかった」と本音をちらり。すぐに「不適切な発言がありました」として会場を沸かせる一幕もあった。自ら社長として臨んだ最初の大型OSの発売は、緊張の連続だっただろう
2010年6月、日本マイクロソフトと横浜市、横浜市教育委員会は、世界で幅広く活躍する人材の育成や、ICTの活用による先進的な教育環境づくりに、連携して取り組むことで合意した。横浜市長の林文子氏は、ダイエー時代に会長兼CEOとして、樋口氏とともに、ダイエー再建に取り組んだ仲でもある。樋口氏は、「前職でご一緒させていただいた林市長と一緒に働くことができることを、喜んでいる」とコメント。林市長も、「かつて仕事を一緒にした経験が、今回の協業に繋がった」と話した。また、2013年7月には、「ICTの活用による女性の多様な働き方支援」や「オープンデータの推進による市内経済の活性化」で新たな連携を発表。この時は、Surfaceを使ったデジタルデバイスで、締結の覚書に署名を行なった。左は樋口氏の署名を見守る林市長
2010年7月に行なわれた経営方針説明会では、日本法人が設立25周年を迎えるのにあたり、本社オフィスを品川へ移転するとともに、日本マイクロソフトへと社名を変更することを発表。また、2011年度の方針として、クラウドビジネスへの投資を加速することを宣言。「日本法人の社員の90%がクラウドに関与することになる。現在、350社のクラウド認定パートナーは、年度内に1,000社にまで拡大する」と述べた。前年度実績で2桁成長を達成。樋口社長体制となって初めて社内表彰制度のTOP SUB AWARDを受賞したのもこの時だ。「予算必達を社内にしつこいほどに号令をかけていたのは、社員が自信を持つことに加えて、米国本社の影響を受けずに、日本に根ざした日本独自の施策を展開するための環境づくり」と樋口氏。「やりたいことがあるならば、やってからモノを言ってくれ」と、米本社から言われないための手の打ち方だった。社名変更、本社移転もこうした高い実績がなければ成し得なかったとも言える
2011年2月1日から日本マイクロソフトへと社名変更。これが、樋口氏が持っていた最初の名刺。25周年のロゴが入っている。実は、樋口氏は、2カ月ほど前から、日本マイクロソフトの名刺を配っていたとのこと。フライングして名刺を配っていたのは樋口氏だけだった。社名変更は、マイクロソフト入社時点から考えていたことを明かしながら、「日本に根づいている企業であることを名実ともに示し、日本の顧客やパートナーに対して、正しいことをやる会社を目指す」とした
日本マイクロソフト創業以来初となる「社章」を作ったのも樋口氏のアイデアが発端だった。2011年10月25日から社員に配布し、新たなロゴに変更された今も社員は、社章を着用している。これは米本社にもなく、日本だけで製作したオリジナルのもので、来日したマイクロソフトのVIPたちもこれを着用して、会見に臨んでいた。特にお気に入りだったのが、ケビン・ターナーCOO。米本社サイトの役員紹介に使用している写真では唯一、この社章を着用している。実は、樋口氏は、ここでもフライング。2011年2月の社名変更、新オフィス移転の会見では密かに着用していた。この時はまだ試作品で社内には1つしかない状況だったと言う。社章を作った理由を樋口氏は、「信頼され尊敬される企業として、部門を超えた、1つのエンティティとしての一体感を醸成していきたいと考え、その証として製作した。社員には自覚と誇りを持って社章を着用して欲しい」と語っていた
2011年7月、日本マイクロソフトとKDDI、富士通は、Windows Phone 7.5を搭載した「Windows Phone IS12T」を発表した。開発コードネーム「Mango」と呼ばれたWindows Phone 7.5は、Windows MobileからWindows Phoneへとリブランディングした最初のOSであり、その後のWindows 8へと続く、タイル型のインターフェイスが注目を集めた。「この一歩を成功させないと次がない」と樋口社長は不退転の覚悟を示したが、結果は、この1機種で終了。その後ずっとWindows Phoneの投入は見送られている。Windows Phone 7.5搭載スマートフォンは、日本が最初に発売された国となったが、その後最新版が出なかったことから、樋口氏が仕事で利用するスマートフォンは、今年春までの4年近くの間、これを使い続けることになった。ユーザーとして、Windows Phoneの次期モデル登場を最も望んでいたのは樋口氏自身かもしれない
Xbox関連のイベントにも精力的に参加していた樋口氏。写真は、2011年12月に、「Xbox 360 Kinect」の専用ゲーム「Kinect:ディズニーランド・アドベンチャーズ」を発売したのにあわせて行なわれた、千葉県舞浜のディズニーストア東京ディズニーリゾート店でのイベントの様子。25組の購入者に直接商品を手渡した。「すばらしい出来映えのソフトウェアが年末商戦に間に合った。これからどんどん売っていきたい」とコメントしたが、Xboxのビジネスは、日本における拡大戦略が、常に課題であったのは確かだ
2012年10月26日にWindows 8が発売となった。前日となる25日午後6時から、東京・秋葉原のベルサール秋葉原で「Windows 8前夜祭」を開催。さらに深夜0時のカウントダウン発売、午前8時45分からの量販店での発売セレモニー、午前11時30分からのWindows 8発売記念記者発表会などに相次いで参加した樋口氏。「13社から250機種以上のWindows 8を搭載したデバイスが発売されることになる。17年前にWindows 95を発売して以来の画期的なOSがWindows 8」と語り、深夜の秋葉原で樋口氏は、「深夜にも関わらず、これだけ多くの方々に並んでいただき、さらにお買い上げをいただいた。まさに予想以上の盛り上がり。強い手応えを感じた」と自信に満ちたコメント。記者会見では、PCメーカー13社の首脳陣とともに「ウィンドウズ、エイト、エイト、オー」と全員でこぶしを突き上げた。樋口氏は、競合他社を意識しながら、「Windows 8は“後出しジャンケン”にもほどがあると言われるが、それならばそのメリットを最大限に活かしたい。相手がチョキを出せば、こちらはきっちりグーを出す」というフレーズを多用していた
2013年3月に発売となったSurface RT。マイクロソフトブランド初のWindowsデバイスの登場の狙いについて樋口氏は、「Surface RTの投入は、Windowsのタブレット市場全体を盛り上げるのが目的。Windows陣営の中で他社のシェアを奪うのではなく、非Windows陣営のシェアを奪うのが目的である」と位置付けた。この時、Surface RTはわずか4モデルの展開であること、1,000店舗に限定した販売であることなどを強調し、国内PCメーカーのWindows搭載PCの事業への影響は限定的であることを訴えてみせた
2013年6月に発売したSurface Pro。Surface RTが、「PCのようなタブレット」としたのに対して、Surface Proは、「タブレットのようなPC」がキャッチフレーズ。いよいよSurfaceの本命が登場したと言える。発売日となった6月7日は、ビックカメラ赤坂見附店のオープン日。樋口氏は同店オープンのお祝いに駆け付けるとともに、ポケットマネーでSurface Proを購入。クレジットカードを渡して、明細を受けとり、商品を受けとるというシーンが売り場で見られた。「Surface Proの予約状況は、RTに比べて予約期間が半分であったのに関わらず、予約数は2倍以上」とし、樋口氏自らも、しばらくビックカメラで購入したSurface Proを使っていた
Surface RTは、2013年6月からの1カ月間の限定で、最下位モデルの32GB版の価格を49,800円から39,800円に引き下げるなど、価格改定に踏み切った。「Surface RTは、予想を上回る販売実績となっているが、エントリーユーザーに、さらにお手軽に使ってもらいたいと考えて価格を見直した」とし、この時、円安を背景に値上げしたAppleのiPadを引き合いに出しながら、「我々はチャレンジャー。チャレンジャーにはチャレンジャーなりの戦略がある。相手が値上げをするならば、こちらは値下げをする。『目には目を』ではなく、『目には歯を』の戦略だ」と語った。値下げを発表した会見では、「価格の話が中心になったのはダイエーの時以来」とコメントして笑いを誘った
2013年7月に発表した同社2014年度の事業方針では、「デバイス&サービスカンパニーへの変革を目指す」ことを宣言し、「これまでのソフトウェアカンパニーから、デバイスとサービスにも事業領域を拡大。ここに社運をかける」と述べた。また、5人体制でクラウド事業推進室を設置。さらに、クラウドのサービス品質の向上に向けて、米本社に日本人技術者を常駐させることで、日本品質を追求することを示した。一方、日本マイクロソフトの社長として就任5年を経過。「最初の3年間は、強い企業、日本市場でのあるべき姿、健全な企業を目指した土台作りの期間であり、続く2年間は真に日本で信頼される企業になるための本格始動の期間だった」と振り返り、「日本の社会に、さらに根づいた企業を目指す」と語った
2014年4月9日にサポートが終了したWindows XP。2012年12月末時点における日本国内における法人ユーザーのWindows XPの利用率は45.5%。欧米諸国では20%台後半から30%台という比率であったのに比べても極めて高い構成比だったが、2013年12月時点では17.1%へと減少。2014年6月には6%台にまで一気に下がった。サポート終了の1年前となる2013年4月には、樋口氏自らが会見に参加し、「従来のOSでは、新たな脅威に対応できないなどといったことから、新たなOS環境への移行をお願いしたい」と、パートナー企業とともに新たな環境への移行を訴求。「Windows XPは言わば耐震構造が十分でない建造物のようなもので、対策にも限界がある」と例えた。2014年4月は、Windows XPのサポート終了、Office 2003のサポート終了、そして消費増税前の駆け込み需要という3つが重なり、「PC業界にとっては、盆と正月が一緒に訪れたような状況。業界は大騒ぎになる」と予想したが、その言葉通り、PCの年間出荷台数は過去最大のものとなり、日本マイクロソフトの売上高も過去最高となった
2014年2月、米本社のCEOにサティア・ナデラ氏が就任した。ナデラ氏は、2014年10月1日に、CEOとして初来日し、日本のパートナーや顧客、社員と交流する場を持った。樋口氏は、「CEOに就任直後から、矢継ぎ早に新たな戦略を打ち出している。Mobile First, Cloud Firstというメッセージを通じて、モバイルとクラウドを第一優先とし、大胆にシフトしていく姿勢を打ち出した」とし、「現実に即した形で、短期間にこれだけの意思決定をしている。通常ならば、2~3カ月かかる案件も、2日間で終わらせている。現実的で合理的である。さらに、現実を踏まえて、戦うところは戦うが、手を組むところは組むといったことにも取り組んでいる」と、新CEOの手腕を評価した。また、「これまでのMicrosoftは、景観のいいレストランだから、人が来るという発想。しかし、これで売れる時代は終わった。『使ってもらってなんぼ』という意識が社内に徹底され始めた」とも語った。この頃から、樋口氏が公の場に出る際のファッションが、ナデラCEOを意識しているのでは、という声もチラホラと出始めた
Surface Pro 2に続き、「これさえあれば、何もいらない」をマーケティングメッセージに踏襲しながらも、「ラップトップ(クラムシェル)型のノートPCを置き換えることができるタブレットを、初めて投入できた」と位置付けたのがSurface Pro 3だ。そして、「これは、ヤバイ」と会見で発言。若者言葉を使って、製品の完成度を表現してみせた。Surfaceは日本が最も成功している市場だと言える。会見ではWindowsタブレットの国内シェアが30%を超えたことを示し、ここにSurfaceが貢献していることを強調。「これまでのSurfaceの世界的な動きを見ると、日本での反響が大きく、実績も高い。Surfaceにとって、日本が重要な市場であるとの認識がある」と語った
2014年度は、1年ぶりに「TOP SUB AWARD」(世界ナンバーワン子会社)の座を日本マイクロソフトが奪還。これで4年間のうちに3回という記録を打ち立てた。前年にこの栄冠を逃した日本マイクロソフトは、その直後に、樋口氏が全社員宛にメールを配信。2014年度の新たなキーワードに「雪辱」を追加し、ナンバーワン奪回を社内に徹底した。Windows XPの構成比を、最も高い比率から、最も低い比率にまで引き下げた功績、Surface発売後もOEMパートナーから発売されたデバイスが人気を博し、Windowsタブレットの構成比を世界最大規模に引き上げた点などが評価されたようだ。社員総会で、サティア・ナデラCEO(左)とケビン・ターナーCOO(右)からトロフィーを受け取った樋口氏は、日本マイクロソフト社員が一丸になってこの座を獲得したことにちなみ、「ONE」のそれぞれの頭文字から始まる川柳を、日本マイクロソフトの社員に対して披露。「俺たちは(O)、 ナデラも驚く(N) ええ仕事(E)」という迷作(?)が生まれた。これは英文でも「One great performance surprised(O) Nadella(N) Even(E)」とする、バイリンガル川柳でもあった
日本マイクロソフトでは、「地域活性化協働プログラム」を展開し、全国の12自治体に対してさまざまなプログラムを無償提供している。障碍者やそのサポーターを対象にICTスキル習得を図るセミナー/講座を開催する「障碍者向け支援プログラム」、NPOを対象にICT利活用方法の習得するためのセミナーなどを通じて県内のNPO活動を強化する「NPO基盤強化プログラム」、中小企業などの技術者を対象にクラウドサービスやアプリケーション開発などの高度なICT技術者の育成を行なう「高度人材育成プログラム」などが標準メニューとして用意されたが、2014年度の愛媛県との提携では、「愛媛マルゴト自転車道」を支援することを発表。この提携に合わせて、社員食堂である「One Microsoft Cafe」に、1日限定で、愛媛県の都市伝説となっている「蛇口をひねるとみかんジュースが出てくる」蛇口が設置され、樋口氏も愛媛県のみかんジュースを飲むために、社員食堂を訪れた。樋口氏は、みかんジュースを味わいながら、「これまでの地域活性化協働プログラムは、各自治体が抱える困りごとを解決するものであったが、愛媛県との取り組みは、前向きでポジティブな支援になる」と語った。会見では、愛媛県の中村時広知事ともに、「瀬戸内しまのわ」のポーズをとった
2015年3月、平野拓也氏の社長就任とともに、自らが代表執行役会長に就任することを発表。日本マイクロソフトの会長職はしばらく空席であり、初代社長を務めた古川享氏が、2000年に会長を退いて以来15年ぶりの復活となる。「昨年(2014年)、米MicrosoftのCEOにサティア・ナデラが就任し、変革をさらに急ピッチで進めている中で、日本マイクロソフトもリーダーをリフレッシュし、世代交代を進め、さらに変革を進めていくタイミングにあると感じた」と樋口氏。さらに、「社名を日本マイクロソフトに変えてから、ちょうど5年目。また、日本マイクロソフトが創業してから30年目を迎える節目になる。そうした記念すべき年に新たなリーダーにバトンタッチできるのはいい形だ」とも語った
品川本社にある樋口氏の社長時代の部屋の入口。そして、社長室での勤務の様子。今はこの部屋は平野新社長が使用しており、樋口氏は別の部屋へと移動。話を聞くと、新たな部屋は、「窓が1つもない部屋」とのこと。だが、「つまり、Windowsにはこだわらないということ」とし、マイクロソフトが掲げるAndroidやiOSといったWindowsプラットフォーム以外にも製品やサービスを提供する同社の新たな姿勢にひっかけて、笑いを取る
2015年7月2日に行なわれた会見。代表執行役会長として初めて登壇した。これまでの経験の中でも会長職は初めてのことだ。「お客様との会社対会社の関係強化」、「新たな戦略的パートナーシップの構築」、「ナショナルアジェンダへの貢献」、「人材育成の強化」とともに、「平野新社長による経営・事業展開を全面サポート」を自らの仕事に挙げた。ナショナルアジェンダという点では、2020年の東京オリンピック/パラリンピックを視野に入れた活動も含まれそうだ。また、「人材育成においては、これまで私が3つの会社で務めてきた社長としての知見を伝授したい」とも語った。これまでとは違った形で、樋口氏の知見が活かされることになりそうだ

(大河原 克行)