笠原一輝のユビキタス情報局

『シン・エヴァンゲリオン劇場版』には「Premiere Pro」が使われた。映画制作を支えたAdobeによる新機能

Premiere Proで編集されている『シン・エヴァンゲリオン劇場版』(提供:カラー)

 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』シリーズの完結編となる『シン・エヴァンゲリオン劇場版』が3月8日に公開された。私事ではあるが筆者も公開初日の朝に映画館に駆け付けて鑑賞した。

 4月19日時点の発表では、公開初日から42日間で77億円、観客動員数500万人を突破するなど、数あるシリーズ作品の中でもこれまでの最高記録となり、文字通り大ヒット上映中だ。

 そうした『エヴァンゲリオン』の最新作の編集にはAdobeの動画編集ソフト「Premiere Pro」が使われていることがAdobeから明らかにされている

Premiere Proはすでにプロユースでも人気だが、超大作映画での採用も狙っていく

『シン・エヴァンゲリオン劇場版』のポスター(©カラー)

 本誌の読者にとってPremiere Proという動画編集ソフトは、一種のデファクトスタンダードのようなイメージがあると思う。

 Premiere Proは動画編集ソフトとしては、確かにハイエンドユーザー向けであり、Adobeの関係者は、コンシューマだけでなく、TV番組の編集のようなプロユースでも使われていると説明する。

 例えば、TV番組のディレクターが手持ちカメラで撮ってきたような尺が短い動画の編集を行なうには、Premiere Proの生産性の高さが評価されているのだという。

 では今回の『シン・エヴァンゲリオン劇場版』のような超大作でかつ膨大な素材の編集に関してはどうかと言えば、通常さらにハイエンドな編集ソフトが必要になる。

 今回の『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の編集を担当した辻田恵美氏は、「『新劇場版』シリーズでも『:Q』の時まではAvid Media Composerを使っていた。また、学生時代にも授業で取り上げられていたのはAvid Media Composerだったし、AppleのFinal Cut Proなども多かった」と説明する。

 Avid Media Composerはプロ用の動画編集ソフトで、実際日本の映画作成シーンではよく利用されているという。今回初めてPremiere Proでの本格的な編集に取り組んだ辻田氏によれば、両者の違いは「似ているようで違う。例えばプロジェクトの名前を変えると別名保存しないといけないなど、細かな使い勝手は違っていたり、編集当初は膨大な量のファイルを扱うには工夫が必要だった」とのことだが、大きな意味ではどちらも編集ソフトであり、「慣れ」という人間側の課題を除けば特にPremiere Proに乗り換えられない理由はなかったと説明する。

 しかし、やはり人間はどうしても慣れ親しんだツールを使いたがるものだ。そこがAdobeにとってPremiere Proを使ってもらう上でのハードルになってしまっている。

映画での編集にPremiere Proの採用を促すためにサポートチームを用意

ヴァン・ベディエント氏(Adobe Sr. Strategic Development Manager, Professional Video)

 Adobeは、映画制作の本場であるハリウッドの映画スタジオをサポートするために、専任の「カスタマーエンゲージメントプロジェクト」というチームを持っており、映画産業でのPremiere Proの利用シェアを上げていく取り組みが行なわれている。

 Adobe Sr. Strategic Development Manager, Professional Videoのヴァン・ベディエント氏は、「Adobeにとってこのプロジェクトをやる意味は、ハリウッドの映画スタジオをサポートするだけでなく、製品をより良くするという意味がある。というのも、ハリウッドの映画スタジオの編集者は常に新しい機能を必要としており、そのニーズを取り込むことは、一般のユーザーにも意味があることだからだ」とその意味を説明する。

トッド・リーダー氏(Adobe Film Engineering Team, Lead)

 Adobe Film Engineering Team, Leadのトッド・リーダー氏は、「昨今のPremiere Proは超大作の長尺映画の編集も既にできるようになっており、多くの方に使っていただいている。そして実際に使用したユーザーからの声を吸い上げ、Premiere Proの機能をさらに向上するためにAdobe Hollywood Officeが設立された。Hollywood Officeではユーザーの要望に即座に対応するため、リリース前の機能などを実装したプレリリースビルドでお客様に試していただき、その後製品版に実装するという手順になっている」と述べ、こうした取り組みが製品版のPremiere Proの開発に良い影響を与えているとした。

 そうした取り組みの結果として、「ヘイル、シーザー!(原題:Hail, Caesar!)」、「デッドプール(原題:Deadpool)」、「ゴーン・ガール(原題:Gone Girl)」などのハリウッド映画がPremiere Proで作成されたことで知られ、米国では既にPremiere Proの使用が珍しいことではなくなってきているという。

 こういったサポートの延長線上に、Adobeが今回の『シン・エヴァンゲリオン劇場版』を製作した株式会社カラー(以下カラー)をサポートしたという動きがある。

動画や静止画、モーションキャプチャベースのCGなど、様々な形式を読み込む必要があった『シン・エヴァンゲリオン劇場版』

Premiere Proで『シン・エヴァンゲリオン劇場版』を編集しているところ、モーションキャプチャベースのCGを読み込んで編集している(提供:カラー)

 実は庵野秀明総監督の映画でPremiere Proが使われたのは今回が初めてではない。同総監督の会社であり今回の『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の製作を行なったカラーの作品ではないが、東宝制作で庵野氏が総監督を務めた映画『シン・ゴジラ』でもPremiere Proが使われていたという。

 『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の編集を担当した辻田氏によれば、「庵野総監督が『シン・ゴジラ』でPremiere Proを利用して、その時に軽快に編集できたという経験が、今回Premiere Proを採用した理由になっている」とのこと。

 そして、もう1つの理由として辻田氏が挙げたのは、Premiere Proのコンテンツの読み込みが速いことだったという。辻田氏は「Avidでは動画を何か取り込む時に、一度Avidの独自形式に変換しないといけないというところに課題を感じていた。今回は実に多彩な形式で取り込む必要があり、変換に時間が取られないPremiere Proは便利だと感じた」と説明する。

 今回の『シン・エヴァンゲリオン劇場版』では実に多種多彩な映像がもたらされたそうだ。例えば、アニメーション映画の制作手法としては珍しいモーションキャプチャのデータを取り込んで、それを編集に使っているという。

 そうした簡易CGのデータや、TIFF、さらにはそれこそ庵野総監督がiPhoneで取った動画(.mov)や静止画(.jpg)といった多様なデータがあり、それこそフレームレートなども素材ごとに異なっていたとのこと。

 それをすべてを編集ツールに取り込んで編集する必要があったため、1つ1つ変換していると能率が落ちるという事情もあったと辻田氏は説明した。

 それに対して、Premiere Proは独自形式に変換せず、そのまま読み込むことができる点で評価されたわけだ。

多数のデータを取り込んでいるうちに重くなっていったが、その問題を「プロダクション機能」が解決した

素材がまとめられたプロジェクトのウインドウ(提供:カラー)

 だが、Premiere Proでそれらのデータを取り込んで使っているうちに、辻田氏はある大きなストレスを感じることになったという。

 「当初は普通にプロジェクトとして動画を読み込んでいたが、読み込む動画や静止画などが増えていけばいくほど、プロジェクトの立ち上げに何分を要する状況になってしまった」(辻田氏)という事態が発生。そこで辻田氏はAdobeに連絡を取り、これを軽くすることができないかと相談したそうだ。

山岸温子氏(Adobe Premiere Pro Japan Product Representative)

 そこに登場したのが前出のカスタマーエンゲージメントプロジェクトのチームで、米国側の担当者と日本にいる辻田氏の間をつないだのは米国のAdobeでPremiere Pro開発部に在籍する山岸温子氏(Adobe Premiere Pro Japan Product Representative)だ。そうしたサポートの中には、前出のリーダー氏と2人でカラーを訪問して、5時間という実に長いミーティングを行なうなどといったことも含まれていたという。

 そうした中でAdobe側が提案したのがPremiere Proの「プロダクション機能」という開発中の新機能だった。

 Premiere Proでは、プロジェクトと呼ばれる単位で動画の編集を行なう。プロダクション機能では、そのプロジェクトをグループ化して、より容易に管理可能にする機能だ。

 Adobeのリード氏によれば、辻田氏から相談される以前から既にロードマップにはプロダクション機能が存在しており、内部的にはある程度の段階(80%程度)まで完成していた。

 そして辻田氏から相談されたことを受けて、そこから開発を加速させてプライベートビルドという形で辻田氏への提供を行ない、実際に利用してもらったという。

 その中でも辻田氏にとって大きな意味があったのが「クロスプロジェクトリファレンス」(プロジェクト間でのメディアの参照)という機能だった。

 複数のプロジェクト間で動画を参照するときに、動画の実ファイルをそれぞれのプロジェクトにコピーするのではなく、プロダクション内で再利用可能になる。

 従来の方式であれば、動画の実ファイルが何個もコピーされていくことになる。そのため、それぞれ読み込む必要があり、起動に時間がかかってしまってCPUの処理も膨大になり、編集者が動作が重いと感じる要因になっていた。

 特に今回の『シン・エヴァンゲリオン劇場版』のように様々な形式の動画や静止画などを読み込んで編集する場合には、それが顕著になっていたのだ。

 辻田氏によれば、このプロダクション機能が使えるようになってからはPremiere Proの起動も「わずか数十秒」というレベルになり、快適に編集できるようになったため、大幅に作業の能率が上がり、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の編集も快調に進んだそうだ。

プライベートビルドだけだったプロダクション機能は全ユーザーが利用可能に

AppleのiMac Pro(出典:Apple)

 Adobeのリード氏によれば、こうしてプライベートビルドとして提供されていたプロダクション機能だが、その後はいわゆるリリースビルドと呼ばれる製品版のPremiere Proにも提供が開始された。

 これにより、今回の『シン・エヴァンゲリオン劇場版』のような膨大な素材を扱うハイエンドな長尺の映画であっても、十分耐え得るようになっていると説明する。

 Adobeの山岸氏は、Adobeはこうしたサポートを今回の『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の事例だけでなく、例えばTV局などに対しても行なっているとし、様々な要望が寄せられているという。

 特に、日本というか東アジアの顧客から多いのは「テロップ」に関する要求だそうだ。日本のTV番組だとテロップを上手に使っているのだが、欧米のTV番組ではあまりそういうニーズがないため、米国のエンジニアなどに理解してもらうのが意外と大変だということだった。そのあたりは文化の違いを感じてしまう。

 辻田氏によれば、今回のPremiere Proを利用して『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の編集を行なったPCは、完成時には2019年時点で最新のiMac Proが利用されており、それが導入される前は主にMac Proだったとのこと。

 レンダリングにはさぞ時間がかかるのだろうと聞いてみたが、実際にはTIFFで静止画として出力して次の工程に渡すことになるため、レンダリングにはあまり時間はかからなかったそうだ。

 なお、辻田氏が庵野総監督のリクエストに応じてiMac ProないしはMac Pro+Premiere Proで編集している様子は、NHKで放送された「プロフェッショナル 仕事の流儀 庵野秀明スペシャル」という番組の中でも紹介されている。番組の途中において、編集室でPremiere Proを利用して編集する様子が流れるので、そのシーンは番組で確認してみてほしい。

 NHK総合で5月1日 午後11時50分から再放送されるほか、NHK BSで「100分拡大版」が4月29日に放送される。また、NHKのオンデマンドサービスである「NHKオンデマンド」で視聴することも可能だ。

 最後に編集を終えて映画になってからの『シン・エヴァンゲリオン劇場版』を見た辻田氏に、最も印象的だったシーンを聞いてみたが、それはAパートの綾波レイなどが田植えをするシーンだったという。

 その様子は公式サイトの追告 Aという動画から確認することができる。辻田氏によればこのパートはスタッフが田植えをした動画がベースになっているそうで一番印象的だったそうだ。筆者自身、キャラクターの動きがとても自然だったという印象がある。

 もちろん本編にはそれ以外にも素晴らしいシーンがたくさんあるので、全国の劇場に足を運んでご確認いただきたい。

追告 A『シン・エヴァンゲリオン劇場版』