大河原克行の「パソコン業界、東奔西走」

「NECパソコン生みの親」の渡邊和也氏が逝去。TK-80やPC-8001でPC市場の形成に貢献

渡邊和也氏

 「NECパソコン生みの親」と呼ばれる渡邊和也氏が、2021年10月17日に逝去した。享年90歳。NECのマイコンキット「TK-80」や、NEC初のPC「PC-8001」の開発を指揮。NECのPC事業の礎を作っただけでなく、日本のPC産業の生みの親としての役割も担った。

 2019年8月5日に、NECパーソナルコンピュータが行なったPC事業誕生40周年の記者会見では、自ら登壇し、当時のエピソードを披露。これまでの経験をもとに、「時代の一歩先を進むことが重要だ」とコメントした。TK-80やPC-8001の開発に取り組んだ経験をもとに、「非常識を続けていくと、それが常識になる」というのが、渡邊氏がよく口にしていた言葉だった。

PC事業誕生40周年の記者会見では「時代の一歩先を進むことが重要だ」とコメントした

IT業界の発展にも貢献

 渡邊氏は1931年、長野県生まれ。1954年に山梨大学工学部電気工学科卒業後、機器製造会社で通信、制御、計測機械などの開発に従事したのちに、1965年にNECに入社。1976年に、マイクロコンピュータ販売部の部長として、マイコンキット「TK-80」の開発、販売を陣頭指揮。1979年には、PC-8001の開発チームを牽引。その後、NECがPC市場で大きな成長を遂げる地盤を作り上げた。

 NECでは、パーソナルコンピュータ事業部長や支配人を歴任。NECホームエレクトロニクス専務取締役を経て、1990年には日本に上陸したノベルの日本法人社長に就任。1998年にはパーソナルコンピュータエンターテインメント協会の専務理事に就任したほか、数々の業界団体で要職を歴任。IT業界の発展にも大きく貢献した。

 取材の際には、1つ1つ物事を順序だてて、丁寧に説明をしてくれたことを思い出す。エンジニア出身らしく、静かな雰囲気のなかにも、芯の強さが伝わってきた。

 だが、お茶目なところもあった。

 最後の単独取材は、2019年7月だった。当時88歳とは思えないしっかりとした口調で約2時間の取材に対応していただいた。その際の記事はここに掲載している。

 40年前に、PC-8001用に開発されたソフトウェアパッケージや雑誌、資料などを持参し、開発をリードした後藤富雄氏とともに、いつものように、丁寧に詳細に質問に答えてくれた。取材が終わり、資料などをしまうナップサックには、「Xbox」のロゴ。「渡辺さん、PCエンジンというゲーム専用機も作っていましたよね」というと、「そうだけど、これ使いやすいから」と笑ってみせ、ひょいと背負って会議室を後にした。

 気さくな雰囲気を持つ渡邊さんのファンは、古くからのメディア関係者のなかにも多い。

PC-8001を前にポーズを取る渡邊氏
PC-8001

マイコンチップを売るために誕生したTK-80

 TK-80は、マイコンチップを売るための手段として生まれた。

 NECは、1971年に登場したIntel i4004の後を追うように、1972年には4bitチップを開発。1973年には8bitチップを開発し、技術では世界レベルの水準を持っていた。そして、生産体制の強化にも積極的な投資を行ない、「あっという間に、日本全体のチップ需要を超えてしまうほどの量を生産できる体制が完成してしまった」(渡邊氏)という。

 問題は販売だった。販売体制がそれに追いつかず、事業全体としては苦戦することになったのだ。マイコンチップの応用提案をしても、それを採用する企業が少なかったのが、その理由だ。

 そうした中、半導体販売のテコ入れに向けた適役として白羽の矢が立ったのが渡邊氏だった。当時の渡邊氏は、工場の自動化を促進するための自動化推進部長が肩書。自らマイコンを社内の用途のために使っているというのが、上層部が目をつけた理由だった。エンジニアであり、販売の経験がない渡邊氏を、新たなマイクロコンピュータ販売部の部長に据えるのは、先に述べた「適役として白羽の矢が立った」という表現は適切ではないかもしれない。しかし、結果として、それは適役という表現が当てはまる結果を生むことになる。

 実は、渡邊氏も、当初は半導体の販売に苦戦した。産業分野への利用提案に一本化していたからだ。だが、あるとき一般ユーザー向けのトレーニングマシンとして、売り出すことを思いついた。これがトレーニングキットを語源とする「TK-80」の登場につながっている。

 「マイコンをどう使ったらいいのか、ということを知っている人がいない時代。全国にマイコン教室を作ってみたものの、現物がないため、テキストと黒板では生徒がなかなか理解できない。だが、実際に機器を活用したら、30分で理解してもらえた。そこで教材を作らなくてはならないと思い、そのために、入出力機能を持ったワンボードマイコンの開発をスタートした」と、渡邊氏は当時を振り返る。

 開発メンバーとして集まったのは、20代の社員を中心とした若手の半導体技術者だ。横須賀市のNTT中央研究所向けに教育用試作機を開発したのが1976年5月。同年8月には、これを製品として売り出した。そのスヒード感は、まさに社内ベンチャーだからこそのものだった。

秋葉原をPCに街に変えたBit-INN

 渡邊氏が仕掛けたもののひとつに、Bit-INNがある。TK-80に触れることができる場であり、マイコンに興味を持った人のほか、技術者や研究者などの専門家たちも押し掛けた販売拠点だ。

 第1号店は、東京・秋葉原のラジオ会館7階に開設した。ここは、ソフトバンクグループの孫正義会長も、学生時代に通っていた場所だ。NECの半導体商社である日本電子販売に、「3坪でもいいからTK-80を展示するスペースが欲しい」という渡邊氏などの提案に対して、当時、社長を務めていた日本電子販売の野口重次氏が、TK-80の可能性に着目。NECからの資金的な支援はないものの、30坪のスペースを秋葉原の一等地に用意した。

 Bit-INNには、想定を上回る多くの人が連日足を運び、それがTK-80の売れ行きを加速させた。NECがPC-8001を発売し、さらに事業を拡大すると、競合他社もラジオ会館のなかに軒を連ねるようにショールームを相次ぎ出店。それが震源となり、のちに秋葉原全体がPCの街に変貌していった。

オープン戦略が日本のPC産業発展の礎に

 渡邊氏が、NECパソコンの生みの親としてだけでなく、日本のPC産業の生みの親と称される理由がある。それは、日本のコンピュータ市場にオープン化という概念を持ち込み、TK-80やPC-8001の事業拡大において、サードパーティーとの協業を前提としたビジネスを推進したことだ。

 渡邊氏は、TK-80の開発にあたり、動作する応用ソフトウェアは、NECだけで供給するのには限界があると判断し、サードパーティーやユーザーの協力が必要であると考えていた。そこで、TK-80に関する技術的情報を公開。Bit-INNなどを通じて、技術情報を提供したほか、マイコン雑誌にも積極的に情報を公開。配線図や使用部品などの諸元についても、サードパーティーに提供した。

TK-80を手に持つ渡邊氏
TK-80

 当時、こうした技術情報は、製品開発の根幹をなす重要な社内情報と位置付けられ、これらを公開すれば、他社が真似し、先行したメリットが薄れ、事業への影響が避けられないと考えられていた。そのため、当初は社内からの反対もあったという。だが、渡邊氏は、そうした社内の懸念とは裏腹に、オープン化を強力に推進。この戦略がTK-80の普及を回転させた。

 TK-80で動作するソフトウェアや周辺機器が増加。これが、TK-80の販売を増やし、さらに、サードパーティーの事業拡大や、参入企業の増加につながったからだ。この手法は、PC-8001でも採用され、さらに大きな輪を作った。PC-8001用に開発されたソフトウェアや周辺機器の多さが、PC本体の購入を促進することにつながり、さらにサードパーティーのビジネスチャンスが広がるという好循環につながったからだ。

 日本のPC市場において、ソフトウェアメーカーや周辺機器メーカーが成長を遂げる産業構造は、いまから約45年に、渡邊氏がTK-80を市場に送り出した際にとったオープン戦略が発端になっているというわけだ。

上司をだまして、ビル・ゲイツ氏と面会

 渡邊氏が語るエピソードは、ユニークだ。あるときの取材では、「当時は、いかにして上司をだますか、どうやって上司に報告しないか、ということばかりを考えていた」と語っていた。

 そのなかで、最も大がかりに「上司をだました」のが、1978年11月の米Microsoft本社への訪問だ。渡邊氏は、PC-8001の開発において、最初からデファクトスタンダードの採用を最優先に考えていた。そこで検討したのが、Microsoftが開発したBASICの採用だった。

 だが、当時のMicrosoftの社員はわずか12人のスタートアップ企業。日本の名門企業であるNECの部長が、このBASICを直接見るためだけに、米国出張が許されるとは、とても考えられなかった。

 そこで、渡邊氏は、米ロサンゼルスで開催された「WCCF(ウェストコーストコンピュータフェア)」の視察を理由に渡米。会場の視察は1日で終え、当時のMicrosoftの本社があったニューメキシコ州アルバカーキーに飛んだ。この行程は、上司には許諾を得ていなかった。

 空港には赤いポルシェが1台。出迎えに来てくれた若き日のビル・ゲイツ氏が、面識がないのに渡邊氏に迷わず声をかけてきた。「こんな田舎の空港に降りる日本人は1人しかいない」というのがその理由だ。

 「砂漠の中を猛スピードでポルシェが疾走し、着いた先は店内が薄暗いステーキ屋。共同創業者のポール・アレンも合流し、食事をした後に、本社がある小さな建物の2階の部屋で、2時間ほど話をした。英語はそんなに得意ではないが、周りには私しかない。最大の収穫は、そのとき、デファクトスタンダードの重要性について、意気投合したことだった」と振り返る。

 ここでの対話をきっかけに、NECは、MicrosoftのBASICを採用することに決めた。いまに続く、NECとMicrosoftの長い関係は、この時に始まったのだ。

 こうした出来事を語ったあとに、渡邊氏は、「このときは、出張報告書を出さずに済んだ。また、交通費の精算もうまくいった。もし、詳細に調べられていたら、問題になっていただろう」と笑ってみせる。

 また、TK-80の発売直前には、社内でストライキが発生。社員は仕事ができない状態となったものの、会社とは別の場所を勝手に借りて、チームの社員がこっそり集まって仕事をしていたというエピソードも明かす。

 そして、「新たなことを社内で始めると、周りの協力が得られにくいばかりか、むしろ足を引っ張られることが多い。社内にはすべて内緒にしておくのが得策。むしろ社外の人たちと協力した方がいい」とも笑う。こうしたエピソードを飄々と語ってみせるところも、まさに渡邊氏らしいところだ。

ノベルでネットワーク時代の先駆者に

 渡邊氏は、TK-80やPC-8001の印象が強いが、世界最大のネットワークOS会社であったNovellの日本法人の初代社長としても手腕を発揮した。

 1990年7月に行なわれた就任記者会見では、米Novellのレイモンド・ノーダ会長、日本法人に出資したソフトバンクの孫正義氏も出席。渡邊氏は初代社長として「日本のネットワーク時代をリードする会社になる」と宣言してみせた。

 日本語版の開発が遅れるという課題はあったものの、PCのスタンドアロン時代を築いた先駆者が、PCのネットワーク時代の先駆者としての役割も果たすことになるとして、当時は大きな注目を集めた社長就任だった。

 わずか2年前の取材や会見では、とても元気な姿をみていただけに、今回の訃報は驚きであった。ご冥福をお祈りする。

2019年8月の会見に登壇した渡邊氏