大河原克行の「パソコン業界、東奔西走」

ビル・ゲイツとの密会、サードパーティ戦略。いま振り返る「PC-8001」成功物語

PC-8001

 NECのPC-8001が、1979年に誕生してから、今年はちょうど40年を迎える。NECパーソナルコンピュータは、それを記念した新製品を、本日発表する予定だ。まだ個人でコンピュータを所有することが夢と思われていた時代に登場した「パーソナルコンピュータ」のPC-8001。この製品が、日本のパソコンの歴史を開いたといっても過言ではない。

 果たして、PC-8001は、どのようにして生まれたのだろうか。このほど、「NECパソコンの父」と呼ばれる渡邊和也氏と、PC-8001の開発をリードした後藤富雄氏の2人にインタビューをする機会を得た。40年という歳月を経たいま、2人に当時の様子を振り返ってもらった。

渡邊和也氏(左)と後藤富雄氏(右)

PC-8001名前の由来

 NECのPC-8001は、同社初のパーソナルコンピュータとして、1979年に誕生した。

 1979年5月8日に、名称は未定としながら、リリースで発表。同年5月16日から開催された第3回マイクロコンピュータショウに初展示して話題を集め、同年9月には、大きな注目のなかで販売が開始された。

 PC-8001の名称は、パーソナルコンピュータの頭文字である「PC」とともに、前身となったトレーニングキットのTK-80(※TK-80は、搭載していたIntel 8080相当のCPUであるμPD-8080ADから名称をつけた)の「80」の流れを汲み、さらに、「翌年に控えた1980年代を迎えることを意識したものだった」(渡邊氏)という。

 NECでは、パソコン本体をPC-8001と呼び、あわせて発売した周辺機器にもPC-8001と共通の型番を付けた。拡張ユニットが8011、拡張ボックスが8012、ドットインパクトプリンタが8021、FDDユニットが8031といった具合だ。これらをファミリーとしてPC-8000シリーズと呼ぶことになる。型番を4桁にしたのは、これらのファミリー商品にも同様の型番を展開する意図があったからだ。

 ちなみに、PC-8001の開発コードネームは「PCX-1」だ。

 「Xというのは、クエッションマークという意味だった」(渡邊氏)という。

「NECパソコンの父」と呼ばれる渡邊和也氏

日本最初ではなかったが、圧倒的な売れ行き

 だが、PC-8001は、日本で最初に登場したPCではない。

 1977年8月には、精工舎が国産パソコン第1号となるSEIKO 5700を発売し、同年9月には、ソードがM200を発売。さらに、1978年5月には、日立製作所がベーシックマスター・レベル1を発売、同年12月にはシャープがMZ-80Kを発売している。

 また、海外からはAppleIIや、CommodoreのPET-2001、Tandy Radio ShackのTRS-80といった御三家と呼ばれたPCがすでに日本に輸入されていた。PC-8001の発売以降も、IBM、三菱電機、富士通、松下電器(現パナソニック)などが市場に参入。群雄割拠の時代がまたたくまに訪れたのだ。

 渡邊氏は、「PC市場への参入が遅れたのは、それまでのトレーニングキットでなく、コンピュータというかたちで商品化するのに際して、少しでも多くのユーザーの声を取り入れようと努力しようとしたことが背景にあった」と語る。

 また、後藤氏は、「PC-8001は、役に立つものを作ることを前提に開発した。そのため、FDDユニットやディスプレイも同時並行で開発した。そしてカラー化にも取り組んだ。それらの開発に時間がかかったのが理由」とする。

PC-8001の開発をリードした後藤富雄氏

 だが、「他社が先行してもまったく焦りはなかった。TK-80で培ったサードパーティーの存在や、全国に広がる販売網があった。これは、大きなメーカーであっても、一朝一夕では作り上げられるものではない」と渡邊氏は語る。

 結果として、PC-8001は、後発ではあったものの、渡邊氏の言葉通り、発売後には、圧倒的ともいえる売れ行きをみせた。

 業界団体である日本電子工業振興協会(現在の電子情報技術産業協会)が発表した1980年度のPC出荷実績は、年間でもわずか11万台。だが、PC-8001は、1983年までに累計出荷で25万台を販売。この数字からも、圧倒的なシェアを誇ったことがわかるだろう。実際、PC-8001は、これだけ多くのメーカーがPCを投入するなか、約40%のシェアを獲得。その後のNECのPC事業発展の土台を作った。

デファクトスタンダード採用こそがPC-8001成功の理由

 なぜ、PC-8001は成功したのだろうか。

 先に触れたように、TK-80の成功をベースにしたサードパーティーの存在と全国に広がる販売網の強みが、他社との競合において、大きな力を発揮したのは確かだ。だが、その一方で、渡邊氏は、「デファクトスタンダード(事実上の標準)と、ユーザーフレンドリーにこだわったことが成功の要因」と自己分析する。そして、「これらの取り組みの多くは、非常識といえるものばかりだった」と続ける。

 たとえば、デファクトスタンダードの発想は、いまでこそ常識であるが、40年前にその重要性に気がついていた人はひと握りに過ぎなかった。

 むしろ、いまや常識となっているCPUや基本ソフト(OS)といったことでさえ、他社の技術を使うという発想が異例だった。他社の技術を使うことは、その企業に技術力がないことを示すものであり、技術者自身も格好悪い、恥ずかしいという意識を持っていた。

 だが、PC-8001の開発においては、NECは、最初からデファクトスタンダードを最優先に考え、そこにこだわった。他社の技術を活用する「恥ずかしさ」は、最初から持ち合わせていなかった。

 そのデファクトスタンダードのこだわりの1つが、Microsoftが開発したBASICを採用したことであった。

 当時、NEC社内でも、PC-8001向けに独自のBASICが開発されていた。NECの技術者である土岐泰三氏が開発した通称「土岐BASIC」と呼ばれるものであり、いまでも渡邊氏は、「高い性能を誇る優れたBASICであった」と評価する。

 しかし、渡邊氏は、結果としてMicrosoftのBASICを選択した。それは、デァクトスタンダードに最も近い基本ソフトであると判断したこと、さらに、PC-8001の高い評価を決定づける要因となった、ある仕組みに対応するためだったといえる。

 じつは、PC-8001に携わったメンバーは、いまでも年1回、『80会』と称して、数十人が集まっている。渡邊氏は、「その会合に、毎年出るたびに、その時のことを土岐さんに謝っている」と笑う。だが、自社開発のBASICを採用しなかったという異例の判断が、その後に成功につながっている。

ダーティーコンピュータのPC-8001

 その仕組みとはなにか。それを説明する際、渡邊氏は、「PC-8001は、ダーティーコンピュータと呼ばれていた」という話を必ず切り出す。

 なんとも悪役的な響きだ。だが、むしろ、渡邊氏自らが、この名前を好んで使っていた節がある。

 このどきっとするような名前の裏には、当時、シャープのPCであるMZ-80Kが「クリーンコンピュータ」と呼ばれていたことへの対比がある。

 シャープのMZ-80Kは、PC-8001よりも先行し、1978年12月に発売されていた。このPCを「クリーンコンピュータ」とシャープが銘打った理由は、電源を入れるたびに基本ソフトを外部からローディングし、内部のメモリRAMに記憶するという仕組みを採用していた点にある。RAMであるから、電源を切るたびに記憶内容は消されてしまうことになる。これは、当時のコンピュータとしては一般的な仕組みでもあった。基本ソフトをローディングするまでは、まっさらの状態であり、これを称して、「クリーンコンピュータ」と呼んでいたのだ。

 一方で、PC-8001は、基本ソフトをあらかじめROMに書き込んでおく仕組みを採用した。ROMであるため、電源を切っても記憶内容は保持される。そのため、電源を入れれば、ローディング作業が不要で、すぐに動作するというメリットが生まれるのだ。

 「RAMがまっさらになるMZ-80Kがクリーンコンピュータならば、ROMに基本ソフトが書き込まれたPC-8001は、ダーティーコンピュータだ」。渡邊氏は、そう言って、自らダーティーコンピュータを名乗ってみせた。

 だが、すぐに使える環境は多くのユーザーに喜ばれた。PC-8001以降、これがパソコンの主流となっていったのは当然でもあった。

 「世の中の人たちは、ダーティーコンピュータの方を選んでいる。どうやら、ダーティーコンピュータは、クリーンコンピュータに勝ちそうだ」。

 当時の渡邊氏の予測は見事に的中した。

 じつは、ダーティーコンピュータの仕組みも、当時としては、非常識なものであった。基本ソフトには、必ずバグがあり、ROMに基本ソフトを書きこんでしまうと、その修正がきかないという欠点があったからだ。クリーンコンピュータで採用したローディング方式であれば、それを回避できる。基本ソフトはしばしば修正するのはそれまでの常識であり、修正ができないPC-8001の仕組みはまさに非常識であったのだ。

 渡邊氏は、「だからこそ、こなれていて、バグが少ない、MicrosoftのBASICを採用することが大切だった」と語る。

 工場出荷時点で、基本ソフトをマスクROMに書き込むには、時間とコストがかかる。また、バグが見つかるたびにマスクROMを修正していてはビジネスにはならない。バグが少ないことが第一の条件となっていたのだ。

 MicrosoftのBASICは、すでにTRS-80やPET-2001にも採用され、かなりこなれた基本ソフトになっており、バグの修正もかなり進んでいると判断できた。渡邊氏がデファクトスタンダードにこだわり、独自のBASICではなく、MicrosoftのBASICを採用したのは、そうした理由が背景にあった。

 そして、渡邊氏にはこんな考えがあったことも明かす。

 「PC-8001は、デバイス部門から生まれたPCであり、もし変更が必要となれば、無理をしてでも、短時間でROMの変更ができるという立場上の自信があった。デバイス部門でなければ、こんな無鉄砲なことはできなかったかもしれない」。

 ユーザーフレンドリーとデファクトスタンダードとの両立を目指した上での非常識な判断が実現したものだったのだ。

ビル・ゲイツとの対談でデファクトスタンダードの重要性に気づく

 NECがMicrosoftのBASICに辿り着くうえでは、当時、アスキーの副社長を務めていた西和彦氏との出会いが見逃せない。アスキーは、1978年から、MicrosoftのBASICの国内販売代理店契約を締結。日本のPCメーカーに売り込みをかけようとしていたところだった。

 「最初に西さんと出会ったのは、米シリコンバレーのCompuTakerという会社。私は、TK-80の発売を前に、チップにどんな応用ができるのかを探っているときだった。お互いに、なんでこんなところに日本人がいるのかという思いだった」と渡邊氏は振り返る。そのときには名刺交換をしただけで別れたというが、帰国後、西氏から連絡があり、MicrosoftのBASICの採用を勧められたという。

 「西さんの話を聞くと、Microsoftのいいことばかりを言う(笑)。しかし、それを見る機会がない。それならば、実際に見てみようと思い、Microsoftを訪れることにした」。

 だが、当時のMicrosoftは、まだ12人程度のベンチャー企業。日本を代表する名門企業のNECが、Microsoftを訪ねるために海外出張をするといった申請が通るはずはなかった。

渡邊氏

 そこで、渡邊氏は、一計を案じた。

 1978年11月に、米ロサンゼルスで開催された「WCCF(ウェストコーストコンピュータフェア)」の視察を理由に、Microsoftへの訪問を画策したのだ。渡邊氏は、わずか1日だけWCCFを視察。翌日には、渡邊氏の足は、Microsoftに向かっていた。

 このとき、Microsoftの本社があったのは、いまのワシントン州シアトル(レドモンド)ではなく、ニューメキシコ州アルバカーキー。渡邊氏は、西氏からの紹介状を携えて、単身で空港に降り立った。空港を出ると、田舎の空港には場違いともいえる赤いポルシェが1台。そのドアが開いて、若き日のビル・ゲイツ氏が、渡邊氏に「ハイ!」と声をかけてきたのだ。

 「こんな田舎の空港に日本人が降りるはずがない。だから、面識がなくても、すぐにわかったと、ビルは言ってくれた」と渡邊氏。スピード好きで知られるゲイツ氏の運転で、砂漠のなかを赤いポルシェは疾走していったという。

 このとき、渡邊氏は、ゲイツ氏と、共同創業者であるポール・アレン氏とともに、照明が暗い店で、大きなサイズのステーキを昼食に食べ、その後、オフィスがあった小さな建物の2階で、約2時間にわたって話をしたという。そこで、ゲイツ氏が語ったのが「デファクトスタンダード」の重要性であった。

 デファクトスタンダードの重要性に気がついていた渡邊氏とゲイツ氏はすぐに意気投合し、NECは同じ方向性と考え方を持ったMicrosoftのBASICを採用することに決めたのだ。

 そして、渡邊氏がMicrosoft BASICの採用を決めた理由は、同時に「ユーザーフレンドリー」な基本ソフトであったことが見逃せない。

 「技術的に高度であることよりも、ユーザーフレンドリーである使い勝手の良さを選んだ。その点では、すでに米国において多くのPCに使われ、ユーザーの意見が多く反映されたMicrosoftのBASICは、その実績からも、世界で最もユーザーフレンドリーなものだと判断できた」とする。

 これを渡邊氏は、「手垢のついたソフトウェア」と表現した。土岐BASICが「新品のソフトウェア」であり、ユーザーの使い勝手についての評価が皆無であったのとは状況が大きく異なっていたのだ。

 一方で後藤氏は、「Microsoftは、どんな機能が欲しいのかということを私たちに何度も聞いた。ユーザーの声を聞いて進化をさせてきたのがMicrosoftのBASICの特徴であった。そのときに、Microsoftはさまざまな機能を用意してくれたが、マスクROMに書き込める容量が限られていたため、すべてを取り入れることはできなかった。だが、出力フォーマットを決めることができるなど、オフコンで実現していたような機能までをBASICで書くことができた」と指摘。ユーザーフレンドリーと、それを支える多くの機能と先進性があったことが、MicrosoftのBASICの最大の特徴であると述べた。

非常識を常識に

 しかし、採用を決めた渡邊氏だが、日本に帰ってから、社内の上層部を説得するという大きな難関が待ち受けていた。

 先にも触れたように、独自性を持った自社開発の技術を採用することが常識だった時代に、他社のソフトウェアを、重要な部分に採用することへの反発は当然のことだった。しかも、その相手が、吹けば飛ぶような12人の米国のベンチャー企業である。名門企業であるNECが取引する相手としては相応しくないというが上層部の意見であった。

 とくに、反対をしたのが、大型コンピュータを担当していた部門の出身者であった。渡邊氏たちがやろうとしていることが、これまでの大型コンピュータの常識では考えられなかったからだ。

 だが、渡邊氏たちは、逆に、大型コンピュータの過去の経験やスキルが、PCには通用しないことを知っていた。

 大型コンピュータ事業の経験者たちは、過去の経験やスキルに頼りにし、ましてや「コンビュータを遊びに使うなど、不謹慎極まりない」という発想を持っていたほどだ。真正面から話をしても、意見が食い違い、不毛な議論が繰り返されるだけである。渡邊氏は、理解を得るためにさまざまなアイデアを考えた。

 「これからの時代は、優れた技術だけでは勝つことができない。デファクトスタンダードが主流になる。それを理解してもらうために、社内では、人と人のコミュニケーションを行なうための言語を例にあげた。当時、言語学としては、エスペラント語がもっとも優れた言語とされ、それが世界共通の言語としては最適だと言われていた。だが、実際には言語学的には不十分とも言われる英語が世界共通の言語として利用されている。優れたものを採用しても、それが少数派にしかなれないのであれば価値がない。コンピュータの言語もそれと同じであるということを訴えた」。

 このたとえ話は、社内に多くの理解を生んだ。これをきっかけに、社内に広がっていた「常識」という壁を突破。その結果、MicrosoftのBASICが採用され、これをベースとした「N-BASIC」がPC-8001に搭載されたのだ。

 そして、PC-8001の成功を見た競合他社は、その後、MicrosoftのBASICを続々と採用。まさに、MicrosoftのBASICはデファクトスタンダードの道を歩むことになったのだ。

 「非常識を続けていくと、それが常識になる」と渡邊氏は笑う。そして、「時代が大きく変わるときには、過去の経験はまったく役に立たないことを、このとき嫌というほど経験した」とする。また、「新たなことに対して、まだ、みんなが気づかないうちに自由に暴れ回ったからこそ、NECがリードできた」とも語る。これらの経験は、いまの時代にも通用するものだといえる。

過去の経験を活かしたPC-8001

 PC-8001がデファクトスタンダードにこだわった理由には、半導体を販売するデバイス部門での経験が生きている。TK-80もPC-8001も、デバイス部門から生まれた商品だ。

 かつてNECは、Intel 8080を徹底的に解析して、CPUを開発していた。当時は、知的財産権についてもおおらかで、NECもIntel互換CPUを開発していたのである。

 そのとき、NECの技術者は、独自のピン配列を採用したCPUを開発した。IntelのCPUに比べて、ピンの配列は効率的であり、使いやすいものになっていた。性能面でも高い評価を得ていたCPUだ。しかし、NECはこのとき42ピンという独自のハードウェア設計を採用した。Intelの40ピンに比べて、2ピン多いのである。だが、結果として、これが裏目に出た。NECのCPUのために独自の基板設計が必要になるため、性能が優れていても、それをわざわざ採用するメーカーがないのだ。性能が高くても、独自性が強いと失敗することを、NECのデバイス部門は、すでに経験をしていた。

 この経験が、PC事業にデファクトスタンダードの考え方を持ち込むきっかけを作ったともいえる。

 もう1つ、PC-8001が取り組んだ非常識が、オープンである。これは、TK-80の経験が活きている。

 TK-80では、マイコン用の応用ソフトウェアは、NECが供給するには限界があると判断し、サードパーティーやユーザーの協力が必要であると考えていた。そこで、TK-80に関する技術的情報を公開していくことが重要であるとし、マイコンの販売拠点として設置したBit-INNなどを通じて、技術情報を提供。配線図や使用部品などの諸元についても提供した。

 ちなみに、Bit-INNは、TK-80の発売時に、戦略的拠点としてオープンしたものだ。それに関する記事はここに掲載している(関連記事:パソコン発祥の地がアキバから消えた)。

 だが、こうした技術情報を公開することは、社内でも問題視された。技術情報はメーカーにとって根幹の部分であり、情報が流出すれば、他社に真似される温床にもなりかねないと判断されたからだ。

 しかし、オープン化した結果は想定したような問題は起こらず、TK-80の普及を後押しした。TK-80で動作するソフトウェアが増加。これが、TK-80の販売を増やした。さらに、マイコンチップそのものの販売増加にもつながったという。

後藤氏

 後藤氏は次のように振り返る。

 「半導体の販売手法は、メモリとプロセッサを使ってもらうための情報はいくらでも出すというものであった。そうしなければ、私たちが、メモリやプロセッサを使っているすべての現場の面倒を見なくてはならなくなる。TK-80でオープンの手法を取り入れたのは、この経験がある。デバイス部門でなければできなかった発想ともいえる」。

 このオープン戦略は、その後のPC-8800シリーズやPC-9800シリーズでも踏襲された。

 当時のPCは、メーカーごとに動かせるソフトウェアが異なっていた。そのため、NECのPC向けのソフトウェアが増えるから、ハードウェアが売れる。ハードウェアが売れるから、さらにソフトウェアが増えるという好循環を繰り返し、NECのPC事業を揺るぎないものにしていったのだ。

 ある日、NEC社内の別部門の社員が、エレクトロニクス専門誌にTK-80のカラー写真が掲載された広告を持って渡邊氏のもとに駆け込んできた。

 「TK-80の写真が掲載されているこの広告は、あなたたちが出したものなのか」と渡邊氏に聞き始めた。広告を出した覚えがない渡邊氏は、それを否定すると、今度は、「ほかの会社が、TK-80の宣伝をするはずはない」と言い出した。

 よく見ると、その広告は、TK-80向けの電源装置の広告であった。そこにTK-80が大きく写っていたのだ。

 渡邊氏が出した広告でないことがわかると、駆け込んできた人は、次にはこんなことを言い始めた。

 「TK-80の写真を無断で掲載してもいいのか。先方にクレームをつけた方がいいのではないか」。

 もちろん、渡邊氏はクレームをつけなかった。

 「お礼こそ言え、クレームなんてありえない」。

 じつは、これが、TK-80のサードパーティー製品の第1号であった。開発したのはアイ・シーという会社だ。同社社長の藤沢博光氏が日立出身であったという点も、いまから考えればユニークな関係だ。

 それまでにはなかったサードパーティーのいきなりの出現に、それが及ぼす影響や役割を、渡邊氏のチーム以外は、まったく理解できていなかった。だが、渡邊氏は、その重要性をしっかりと理解していた。

 その後、TK-80に対応した製品が続々とサードパーティーから発売された。

 それにより、NECは、TK-80を発売しただけにも関わらず、電源装置やカセットインターフェイスなどの周辺機器、「TK-80で遊ぶ本」や「マイコン応用プログラム集」といった応用ソフトウェアまで揃い、TK-80が活用される分野が一気に広がっていった。

1977年に発売されTK-80用の「マイコン応用プログラム集」。最初のサードパーティーソフトウェアだ。カセットテープで提供されている

 じつは、新聞広告に関しては、別のエピソードがある。PC-8001の発売後、競合メーカーの1社が、新聞広告上で、ソフトウェアは自分たちで作り、自分たちで供給すると宣言したのだという。

 このときにも、渡邊氏のもとに駆け込んできた人がいた。

 「こんなことを言っているが、自社でソフトウェアを開発せずに、サードパーティーにソフトウェアを開発してもらっているPC-8001は大丈夫なのか」。

 当時、ソフトウェア開発会社のことは「ソフトハウス」と呼んでいた。メーカーというには規模が小さく、数人が集まって、事業をスタートさせたばかりの企業も多かった。大手企業の論理では、どんな会社かわからない小さな会社に、アプリケーションソフトの開発を任せていては不安だということが背景にあった。

 だが、渡邊氏はこともなげにこう語った。

 「どんなにがんばっても10本作れればいいでしょう。そのうちに限界がきますよ」。

 実際、それは現実のものになった。自社開発を宣言した競合他社がアプリケーションソフトの品揃えに苦労しているのを尻目に、PC-8001用のソフトウェアは、瞬く間に数百本に増えていった。

 このように、PC-8001の事業は、TK-80で成功したサードパ―ティー戦略が、成長を支えたともいえる。

成功したサードパーティー戦略

 じつは、TK-80のサードパーティー戦略は、見方を変えれば、PC-8001の製品化を後押しするトリガーになったということもできる。

 TK-80によって、サードパーティーが誕生し、NECマイコンショップ会というマイコンだけを販売する販売ルートが同時に確立され、それが、「情報化ニーズ」という当時の社会現象を顕在化させようとしていた。

 「すでに新しい産業構造が出現し、成長をはじめている。この牽引を支えてきた主役はNECである。つまり、TK-80の上位機種を出さないのは『社会悪』であり、大メーカーには許されないことである」。

 マイコンという情報化ツールを中心に、新たな産業構造が生まれるなかで、サードパーティーや販売店からこうした声が高まってきたのだ。

 「このとき、『社会悪』という言葉を使われたのには本当に驚いた」と、渡邊氏は笑いながら当時を振り返る。

 だが、それによって、渡邊氏は初めて「社会責任」ということに気がついたという。

 「社内事情に振り回されている場合じゃない。強い意志を持ち、社会の要請に応える形で、PC事業を開始することにした」と、その言葉が、自らのビジネスを次のステップに踏み出すきっかけになったことを示す。

 TK-80は、もともとNECの半導体の拡販のためのツールとして商品化されたものだ。しかし、それが新たな仕組みを作り、PC時代の到来とともに、一気に成長しようとしていた。そして、その取り組みの結果、PC-8001によって、いまのPC産業の基本構造が作り上げられたといってもいいだろう。

 だが、渡邊氏は、「この仕組みは私たちが作ったものではない。市場が作ったものだ」と謙遜する。

デバイス部門もPCに胸躍らせた

 じつは、今回の渡邊氏および後藤氏の取材の場には、「PC-8001の発売時には、入社3年目のペイペイ」(本人談)という、NECパーソナルコンピュータの元社長である高塚栄氏も同席してもらっていた。

 この取材のなかで、高塚氏からは、これまでに出ていなかった興味深いエピソードを聞くことができた。

 それは、高塚氏が半導体の販売を担当していた時のことだった。

 当時、東京・西新宿にA&Aジャパンという会社があった。TRS-80を世に送り出したTandy Radio Shackの日本における部材調達の役割を担っていた会社だ。

 ある日、NECのデバイス部門に、A&Aジャパンから、マスクROMの発注があった。

 「マスクROMを3パターンで3,000個欲しい」

 その時代にマスクROMが多く使われていたのは、広がり始めたATMだった。それでもATM最大手企業からの受注個数ですら300個に留まっていた。その10倍の規模の発注数である。

 高塚氏は、「一体、こんなに多くのマスクROMを、どこに使うつもりなのか」と疑問に思った。しかも、A&Aジャパンが言うには、「これはまだ味見の段階。良ければさらに発注したい」とまで言うのだ。

 高塚氏が、調べていくうちにわかったのが、どうも、米国で発売され、大きな話題を集めているPCに、このマスクROMを使うらしいということがわかったのだ。「味見」という表現は、耐熱試験や湿度試験などのテスト用のものであり、そのために3,000台分のロットを発注してきたのだ。

 「これは大変なことが起こっている」。

 高塚氏は直感的に感じたという。

 その後、高塚氏は、NEC社内で調達したTRS-80の実物を見る機会があったという。そこには、まだ他社製のマスクROMが使われていたが、ここにNECのロゴが入ったマスクROMが使用されることになるのかと思うと、若い高塚氏は、期待に胸が膨らんだという。

 こうしたデバイスビジネスにおいても、PCの潮流を感じることができる立場にNECはいた。

 NECのデバイス部門が、PCの大きな波が訪れていることを肌で感じた出来事でもあり、こうした経験も、PC-8001の開発を急ぐことになった遠因の1つになったともいえそうだ。

常識にとらわれないビジネスを

後藤氏

 最後に、渡邊氏と後藤氏に、いまのIT業界にエールをもらった。

 渡邊氏は、「PC市場が飽和状態にあるなかで、画期的なことをやろうとしても難しいかもしれない。だが、常識に捉われずにがんばってほしい」と語る。

 また、後藤氏は、「世の中が大きな転換期にあるときこそ、テクノロジーが貢献する場が増える。当時、個人のためのコンピュータを目指したのがPC-8001である。AIなどの新たな技術を使って、新たなパーソナルデバイスの創出に期待している」とした。

 PC-8001の登場から40年。歴史を作った先駆者たちは、次の歴史を生むIT業界の後輩たちにエールを送り続けている。