■大河原克行の「パソコン業界、東奔西走」■
東京理科大学神楽坂校舎1号館 |
東京理科大学近代科学資料館は、情報処理学会の情報処理技術遺産認定を受けたのを記念して近代科学資料館特別企画展「パソコンの歴史展」を、7月3日まで開催している。
同企画展の特別講演として、3月27日、東京理科大学神楽坂校舎1号館17階記念講堂において、「パソコンの元祖TK-80 実演とシンポジウム」を開き、TK-80事業に携わった元NECの渡辺和也氏、後藤富雄氏のほか、アスキーメディアワークス「復活!TK-80」の著者である榊正憲氏が参加。アスキー総合研究所の遠藤諭所長がコーディネータを務めた。
イベントの告知 | 「パソコンの元祖TK-80・実演とシンポジウム」オープニング |
NEC「TK-80」 |
NECのTK-80は、'76年8月に発売されたマイコントレーニングキットで、パソコンの元祖といわれる製品。TKの名称もトレーニングキットからきている。CPUには、NECがIntelのセカンドソースで開発したμPD8080Aを搭載。クロック周波数は2.048MHzで動作。ROMは0.75KB、RAMは0.5KB。8桁の7セグメントLED表示素子でアドレスとデータを16進数で表示。キーは0~9およびA~Fの16個の16進数キーと、プログラミングやデバッグなどに使いやすい9つのファンクションキーで構成された。7セグメントLEDで表示するため、8とB、0とDの区別がつかないことから、BとDだけは小文字のbとdで表示されていた。
渡辺和也氏 | 後藤富雄氏 | コーディネータを務めたアスキー総合研究所の遠藤諭所長 |
榊正憲氏 | 元NECの菊地和男氏 | 元NECの半田幹夫氏 |
「CPUやメモリのほか、キーやLED、プリント基板なども社内の関連部門に頼んで開発したものであり、ほぼすべてがNEC製によるもの。電子デバイス屋がいろいろと寄せ集めて作った典型的な製品」(後藤氏)という、いまのPCでは考えられないような内製化率によって完成されたものだ。
価格は88,500円。会場で映し出された当時のパソコン誌に掲載されていたTK-80の広告の価格表示が89,500円となっていたものを渡辺氏と後藤氏が「違うんじゃないか」と指摘。会場の参加者からは、「送料が1,000円入って、89,500円だった」という資料が提示されるなど、シンポジウムは、登壇者と参加者が一体となった形で運営された。
冒頭、渡辺和也氏が、TK-80の発売の経緯を説明。「当時は、パソコンも、ケータイも、そしてインターネットもない時代。コンピュータといえば、大型コンピュータのことを指し、銀行オンラインシステム、当時の国鉄の座席予約システムしかなかった。当時の年間のコンピュータ需要は1万台程度といわれていた。そのなかでNECは、マイコンチップの生産を開始したが、あっという間に日本の1年分のコンピュータ需要を超えてしまう生産量ができてしまう。とにかく、『チップを売る方法を考えろ!』と言われて頭を悩ませ、考えた末に登場したのがTK-80。プロジェクト責任者とかいわれるが、プロジェクトもなにもあった状態ではない。チップを売ることだけを考え、マーケットクリエーションをするのが任務であった」とした。
集められたのは20代の社員を中心とした若手の半導体技術者たちだ。後藤氏は、技術部門のリーダーを務めたが、「ほんのちょっと早く配属されただけでリーダーになったようなもの。みんな若い同年代ばかりであり、しかも社内では見向きもされない存在だった」と振り返る。
この部門は、マイクロコンピュータ販売部とされ、チップの拡販に向けての試行錯誤が始まった。
目をつけたのが、マイコンの教材としての「キット」の創出であった。
「マイコンをどう使ったらいいのか、ということを知っている人がいない時代。そこで、全国にマイコン教室を作ったが、生徒を集めても内容がなかなか理解してもらえない。当時は、現物を使うことができず、テキストと黒板を使って講義をしていたのが原因。ところが、ある日、実際に機器を活用したら30分で理解してもらえた。そこで教材を作らなくてはならないと思い、そのためには入出力機能を持ったワンボードマイコンがいいだろうと考えた」とする。
一方、後藤氏によると、1976年8月のTK-80の発売前となる同年5月に、横須賀のNEC中央研究所向けに10セットの教育用試作機を開発し、これを5セット納めたという。
「新入社員向けの教育用のツールとして納めたもの。ここからわずか数カ月後には、製品として発売したのだから、当時は勢いがあった」などとした。
横須賀のNEC中央研究所に納められた試作機 | マイクロコンピュータ販売部の発足当時の写真も公開 |
「I/0」誌の昭和52年('77年)4月号の裏表紙。 | 89,500円のうち、1,000円は郵送料であることが判明した |
余談だが、いまや一般的になっている開発コードネームだが、TK-80には開発コードネームが存在しなかったという。
「当時は『キット』と呼んでいた」と渡辺氏は語る。
当時、マイクロコンピュータ販売部の一員で、会場に駆けつけた半田幹夫氏がこれを補足。「開発コードネームがついたのはPC-8001以降。最初は、そのまま伝票に製品の名前を書いていたが、PC-8001がヒットして、部品屋たちが我々を追っかけるようになり、山形に出張するだけで、『半田は山形でなにかやっている』という情報が広がるほど注目された。伝票に正式名称を書くと、そういう製品がでるという噂が広まるため、開発コードネームを使うようになった」などとした。
TK-80は、キットという位置づけからもわかるように完成品ではない。自作して、さらに完成したものを自分で機械語でプログラムを書いて動作させるというものだ。
「単にキットを提供するだけでなく、技術情報や関連資料を提供することが必要。これらの情報を積極的に開示した。大手企業が情報を開示するということはそれまでにはなかったこと。当時の常識では考えられないことだった。だが、これが多くの人にTK-80を使ってもらうことにつながった」(渡辺氏)。
また、後藤氏は、「DECが、ミニコンのPDP8を投入したときに、情報をすべて出すというオープンな手法を初めて活用した。私は会社でPDP8を使用しており、マニュアルを熟読した。ここにすべてが書いてあり、それでコンピュータを学ぶことができた」と、TK-80のオープン指向に、PDP8の存在があることを示した。
この手法は、同社初のパソコンとなったPC-8001にも受け継がれ、「社内ではサードパーティにソフトの未来に託していいのかという議論もあったが、コンピュータの応用分野は幅広く、1社が供給するには限界があると訴えた。ある競合メーカーは、自社で応用ソフトを揃えるとしていたが、それはすぐに行き詰まると見ていた。実際、15本ほどソフトを作ったが、それで途切れた。それに対して、PC-8001のソフトはどんどん広がっていった。ここに差があった」(渡辺氏)と、オープン指向戦略が、その後のPC市場のシェアの差につながったことを示してみせた。
だが、その一方で、TK-80を購入したすべての人がその魅力を満喫できたわけではなかったという指摘もあった。
榊正憲氏は、「BASICやFORTRANで慣れた人たちが、機械語で16進キーから行なうということで、そこでつまづきドロップアウトした人もいた。ブームは意外と短かった」としたほか、遠藤氏は、「TK-80は、7万台が売れたというが、週刊誌で競馬の予想に使える、作曲ができるという言葉を聞き、買ってはみたが知識がなく、とても使えないと失敗した人も1~2万人いたのではないか」などとした。
一方、TK-80の広がりにおいて、見逃せないのがBit-INNの存在だ。
「東京・秋葉原にサービスルームのBit-INNを開設し、TK-80に触れることができる場を作り、マイコンに興味を持った人のほか、技術者や研究者などの専門家も含めて、多くの人が押し掛けた。天文学への応用や病院での医療管理に使えないかなどといった、我々が思いつかないような提案がいっぱいあった」(渡辺氏)。
NECのチップは、マイコン搭載ミシンや自動編み機、キャッシュレジスターなどにも搭載されており、Bit-INNでの経験が、その後の販売の広がりにもつながったという。
秋葉原のBit-INNは、当時の日本電子販売(現PCテクノロジー)が委託運営していた拠点。ラジオ会館のなかにあり、当初はマイコンやパソコンの販売も行なっていたが、秋葉原でパソコン専門店が林立しはじめたのをきっかけにショールーム機能を強化。2001年8月に閉鎖した。
「開設当初は、競合他社からは奇異の目で見られた。NECは、おもちゃを作って落ちぶれたものだとさえいわれた。だが、TK-80の成功をみて、1年経たないうちに各社が同じような店舗を出し始めた。この時初めて、会社の力では防ぎきれない、大衆の波というものを感じた」(渡辺氏)。
会場に参加していた元NECでBit-INNなどの販売店を担当していた菊地和男氏は、「Bit-INNでは、NECの看板を出してもらうが、NECからはお金は出さないというのが条件。そこまで社内から認可が降りなかった。そこで、看板を出してくれた店には、ICの卸値の仕切り率を引き下げることで対応した」といまだから話せる裏話を披露。さらに、「TK-80を扱っていただく販売店は教育ができる人を配置することを条件とした。さらにマイコンクラブを全国に作り、全国を行脚して、TK-80の拡販を行なった」などという、黎明期ならではの話も披露した。
会場からの質問に答える渡辺氏と後藤氏 |
一方で、渡辺氏は、今回のシンポジウムで初めて、「もう時効だから」として、「いかに上司をだますか、上司に報告しないかといったことばかりを考えていた」と、当時を振り返って言及。「まだ、Microsoftが秘書を含めて12人しかいない時代。そんな小さなベンチャー企業には、会社の認可を正式にとっていたらとてもいけなかった。そこで、サンフランシスコで開催されたウエストコースト・コンピュータフェアの視察の際に、抜け出してシアトルを訪ねた。出張報告書は出さずに済み、交通費の精算もうまくいった。詳細に調べられていたら、問題になっていただろう」などとしたほか、「TK-80の発売直前にストライキがあり、仕事ができない状態となった。そこで、会社とは別の場所を勝手に借りて、内緒でみんながこっそり集まって仕事をしていた」などという逸話を紹介。後藤氏も、「私の社宅の部屋も会社から近かったこともあり、最後の追い込みの2日間は、ストライキがあったのにも関わらず、私の部屋で徹夜で仕上げた」などとした。
ある日、渡辺氏は取材で「数年先に家庭で使えるコンピュータの時代がくる」と答えたが、それを読んだ、東京大学の故・石田晴久教授から「当分、そんな時代がくるとは思えない。素人を騙すのもほどがある」というクレームが、当時の田中忠雄社長の元に入ったという逸話もあったことを紹介し、「これが当時の常識であり、当然の発想だった」としながら、「マイコンはおもちゃであって、コンピュータではない。コンピュータ部門で生まれたものではなく、デバイス部門で生まれたもの。だが、デバイス部門は、技術トレンドがわかるため、5年後には当時のミニコンの機能がチップに入ることが容易に想像できた。デバイス屋の方が革新を信じていた」と語った。
さらに、渡辺氏は、「こうしたベンチャービジネスを社内でやると、周りの協力が得られにくいばかりか、むしろ足を引っ張られることが多い。社内にはすべて内緒にしておくのが得策。むしろ社外の人たちと協力した方がいい。TK-80はヒットしたが、それでもあんなおもちゃを作ってという社内の雰囲気は変わらなかった」(渡辺氏)などとして会場の笑いを誘い、「TK-80のビジネスを通じて4つのことを感じた。1つは新たな革新的な市場を創出するには、関係者の8割が反対しているときにやらなくてはならない。6割の人が賛成してからやっていたのでは遅すぎるということ、2つめには既成概念にとらわれると新たなものが出てこないということ、3つめにはユーザーオリエンテッドでやるということ。上司の顔色ばかりを伺っているヒラメのような人では駄目。そして最後に様々な情報は、発生から10日間以内に入手することが大切。本や論文に載ってしまった段階ではすでに情報としての価値がない。そのためにはインフォーマルコミュニケーションが重要である」と語った。
一方、後藤氏は、「私は子供のころから戦争が嫌いで、喧嘩が嫌い。話し合っていけば解決できるという性格。20歳で入社して配属された玉川事業場のテニスクラブに入部したが、10年、20年経って、同じクラブだった人たちと事業部の枠を越えて教えてもらったり、協力してもらうこともあり、これも財産になった。また、渡辺氏がもっているオープンマインドの性格、共存共栄でいくという性格ともあった。こうした考え方がベースにあり、さらに当時の上司となる大内淳義氏(のちにNEC会長)が、私たちのやんちゃな活動を容認してくれたことも大きかった。当時は、会社のなかでも異端児といわれたが、新たな変わり目にはそういう考え方ややり方が必要だろう」などとした。
その後、参加者が持ち寄ったTK-80などを公開。意見交換を行なったほか、昔話に花を咲かせた。
午後1時に始まったシンポジウムは、約4時間に渡って行なわれ、午後5時過ぎに終了した。
会場には参加者が持ち寄ったTK-80などが展示された | TK-80が箱ごと残っているのは貴重 | TK-80を紹介したカタログ |
TK-80はこのようにパッケージ化されていた | TK-80に同梱されていたもの。マニュアルが半分を占めていたという |
'80年に発売された「TK-85」 | 21世紀版TK-80ともいえるカスタマイズ版も展示。Ethernetを搭載している |
なお、東京理科大学近代科学資料館のパソコンの歴史展では、算木、ソロバン、機械式計算機、電卓からパラメトロン計算機、嶋正利氏らが開発したIntel 4004などの歴史展示や、タイガー計算機の実演指導を行なっている。入場は無料。午前10時から午後4時まで。日曜、祝日、月曜日は休館。
また、4月17日には、情報処理技術遺産認定記念公開講演会として、元CRC総合研究所専務取締役の古原雅郎氏アイ・ピー・エイ代表取締役の前田義寛氏による「ベンデックス15からパーソナルコンピュータの時代へ―新幹線・本四連絡橋・原子力開発を計算して―」が行なわれる。