大河原克行の「秋葉原百景」

パソコン発祥の地がアキバから消えた


 電気街からPC街へと変貌した秋葉原は、さらに新しい時代を迎えようとしています。全5回の予定で、秋葉原の“今”をレポートします。毎週月曜日に掲載予定。(編集部)



◆TK-80とともに始まったラジ館7階 Bit-INN

ラジオ会館7FのBit-INN (8月撮影)
 「せめて3坪でも良かったんだ。なんで、あの場所に残せなかったんだ」  PCテクノロジーの野口重次相談役は、こう言って悔しがった。  今年89歳になる野口相談役は、今年春以降、めっきり足腰が弱くなった。それでも、毎朝、杖をつきながらの出社を続けている。しかも、まだ、股割りができるほどの体の柔軟性を維持しているという。

 実は、野口相談役は、パソコン発祥の地といわれるBit-INN東京の「生みの親」と呼ばれる人物だ。

 Bit-INNは、秋葉原駅前にあるラジオ会館7階に設置されていたNECの戦略的拠点で、今年8月までは、その場所にあった。

 NECの要請を受けて、委託運営を行なっていたのがPCテクノロジーであり、Bit-INN開設のきっかけを作ったのが、野口相談役である。

 NECの説明では、ラジオ会館からの撤退ではなく、秋葉原中央通り沿いのBit-INN Aiにこれを統合したもので、Bit-INNが、秋葉原から無くなったわけではないことを強調する。

 もちろん、無くなったわけではないのはわかる。だが、野口相談役がこだわるのは「あの場所(=ラジオ会館7階)」という点なのである。

 野口相談役は、89歳とは思えないしっかりとした口振りで、当時の話を、ゆっくりと話しはじめた。

 「TK-80が登場した時、NECの大内さんや、渡辺君がやってきて、秋葉原にTK-80の販売拠点を作りたいのだが、なんとかしてほしい、といってきた。TK-80を見て、これは面白い、よしやろう、と即決したのがはじまりだった」

 「大内さん」とは、のちにNEC会長となった大内淳義氏(故人)、「渡辺君」とは、その後、NEC支配人、ノベル社長などを経て、現在、社団法人コンピュータエンターテインメントソフトウェア協会専務理事に就任している渡辺和也氏のことだ。

 そして、TK-80とはパソコンの前身となるボード型のマイコンキットであり、当時の価格は88,500円。もともと、NECの半導体部門が、半導体を販売する手段の1つとして製品化したものだったが、NEC社内でも「こんなもの、売れるわけはない」といわれた存在だった。

◆四面楚歌の中始まったBit-INNだったが……

 社内の厳しい評価があったせいか、大内氏、渡辺氏もやや弱気になっていた側面は否めないだろう。それは、こんなエピソードからも明らかだ。

 「2人でやってきて、3坪でいいからスペースを提供して欲しいっていうんだよ。いくらなんでも、3坪じゃNECの看板が泣くだろう。それなら、20坪でも30坪でも使ってやってみろ、といったら、目を白黒させていたよ」

 確かに、まだ実績がない製品に20~30坪のスペースを用意するといわれたら、びっくりするのは当然だ。しかも、秋葉原駅前の一等地である。

 その言葉の裏側には、こんな出来事があった。

 「初めてTK-80を見たときに、ピンとくるものがあった。あんな思いになったのは、先にも後にもTK-80だけだった」

 当時、野口相談役は63歳。その年齢でありながら、マイコンに可能性を感じたのには驚きだ。

 「まわりの店の連中からは、あんなものに入れ込んでいると店を潰すことになるぞ、なんて陰口を叩かれたが、自分の信念と、いまに、まわりの店の連中を見返してやるんだという気持ちが、自分を駆り立てた」と振り返る。

 そんななか、Bit-INN東京は、ラジオ会館7階に約40坪のスペースを確保して、'76年にスタートした。

◆最盛期には3,000人もの来館者、担当社員は休日返上で対応

 驚くなかれ、オープン後は多くの人々が、Bit-INNに殺到した。

 土日になると、弁当を持参した若者が朝からBit-INNに訪れ、一日かけて、TK-80に少しでも触ろうと必死になって順番を待っていた。多い日には3,000人もの人々が押し寄せたという。

 NECの担当社員も、土日になるとボランティアでBit-INNで販売を手伝い、また月曜日から金曜日は通常の仕事をするという休み返上の繰り返しだったという。

 「NECの組合から文句がついてね。だけど、本人の意思でやっているのだからと、NECの社員がこれをはねつけた。それほど、必死になってやっていた」

 野口相談役も、連日のように深夜遅くまで、マイコンの販売に没頭していたという。

 「夜、銀座にいってもマイコンの話ばかりしているんだから、女の子は、嫌がっちゃうよね。そのうち、銀座よりも、マイコンの方が面白くなってきちゃって」と笑う。

 話の最中、野口相談役は、「あの頃は、ずいぶん無理しながらやっていたなぁ。それでも、楽しかったなぁ」と何度も繰り返した。63歳とは思えないほどの仕事ぶりだったのは容易に想像できる。

◆Bit-INNをきっかけに変貌してきたアキバ。しかし……

 Bit-INN東京の成功は、他のパソコンメーカーにも刺激を与えることになった。

 その後、ラジオ会館には、日立、東芝、三菱、富士通などが相次いでショールームを開設、ラジ館はパソコンメーカーの一大拠点となった。さらに、これが秋葉原全体へと波及、家電の街からパソコンの街へと変貌を遂げ、いまや、秋葉原電気街の売上の中心はパソコンとなっているのだ。まさに、Bit-INNは「パソコン発祥の地」というに相応しい存在だといえる。

 だが、秋葉原にパソコンショップが増加するに従って、Bit-INNの役割は、販売拠点から、ショールーム機能の強化、サービス/修理窓口へと変化していった。それは、NECというメーカーが直営で行なっていた限界でもあった。秋葉原の一等地にメーカーが、販売店と競合する店舗を出しているというのは、販売店との取引上でもマイナスになるからだ。

 同時に、Bit-INNの魅力を打ち出すことが難しくなってきたことも事実だ。

 野口相談役は、こう話す。

8月下旬、Bit-INN移転前に張り出された張り紙
 「Bit-INNがメーカーのための店舗となってしまったことで、お客が寄りつかなくなってきた。ここに問題があった」

 Bit-INNには最新のNEC製パソコンが一堂に展示されるが、パソコンを主力にする店舗が増加するに従って、その優位性はまったく発揮できなくなってきた。むしろ、NECの機器展示に終始しがちだったBit-INNには人が訪れなくるのは自明の理だった。

 「メーカーのためではない、お客のための店舗を作らなければいけなかったが、それができなかったのが残念だ」

 さらに、ここ数年、ラジオ会館のなかにフィギュアを中心とした模型店、マンガ店などが相次いで進出、ラジオ会館内にBit-INNを置いておく理由が薄れてきたという側面もあるだろう。

 今回、NECがラジオ会館のBit-INNを閉鎖し、中央通り沿いのBit-INN Aiに統合したのも、これらの理由が背景にあるのは間違いない。


◆NECだけでなくパソコン産業全体にとって意味をもった場所

 現在、Bit-INN東京の跡地には、「パーソナルコンピュータ発祥の地」のプレートが飾られている。

 そこには、「日本のパーソナルコンピュータは、NEC Bit-INN東京で誕生し、全国に拡がりました」と書かれている。

 除幕式に訪れた野口相談役は、感慨深げにこれを見守りながら、「プレートじゃなくて、碑を立ててほしいくらいだ」と冗談とも本気ともとれる言葉を漏らした。

 「本音はね、なんで3坪でも残こせないのか、ということなんだ。この場所には、パソコンの歴史が沢山詰まっている。孫君(=孫正義ソフトバンク社長)や西君(=西和彦アスキー特別顧問)といった、パソコン産業を支える人たちが、10代の頃から通っていた場所なんだ。NECだけの場所ではなく、パソコン産業全体に意味をもった場所なんだ。私は、もう第一線を退いているから、なにも言わないが、この意味の重さが、いまのNECの人たちに伝わらなかったのは、本当に残念だと思う」。

 Bit-INN跡地には、大手模型店が入居しているが、ここ数年のBit-INN時代よりも、多くの顧客が訪れているのはなんとも皮肉である。

Bit-INN東京跡地に飾られているプレート Bit-INN退去後のフロア。

□間連記事
【9月27日】秋葉原ラジオ会館に「パーソナルコンピュータ発祥の地」のプレートを設置
http://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/20010927/nec.htm
【8月31日】NEC、ラジ館BIT-INN LOUNGEを閉鎖、BIT-INN Aiへ統合
~秋葉原から8bit時代の記憶が消える日
http://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/20010831/nec.htm

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(2001年11月12日)

[Reported by 大河原 克行]


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