大河原克行の「パソコン業界、東奔西走」

FM TOWNSやFMVの立ち上げを牽引、富士通元社長の関澤義氏が逝去

富士通でかつて社長を務めた関澤義氏

 富士通株式会社の社長、会長を務めた関澤義氏が、2021年1月20日、誤嚥性肺炎のため逝去した。享年89歳。

 関澤氏は1931年11月6日、東京都渋谷区出身。1954年3月に東京大学工学部電気工学科卒後、同年4月に富士通信機製造(現富士通)に入社し、技術部無線課に配属。1966年から富士通研究所の通信部門において、衛星や光ファイバーなどを担当。1967年には富士通研究所衛星通信研究部第二研究室長代理、1979年に富士通第二電子交換機事業部長を経て、1982年に交換事業本部長に就任。1984年には取締役に就任した。

 1986年に常務取締役兼東支社長、1988年に専務取締役兼営業推進本部長、1989年には情報処理部門担当を兼務。1989年に発売したFM TOWNSの陣頭指揮を執った。

 1990年6月に代表取締役社長に就き、1998年6月に取締役会長に就任。2003年の相談役を経て、2007年に顧問に就任。2008年6月に顧問を退任した。

1990年3月23日の社長就任会見での関澤氏

 また、通信機械工業会会長や日本経営者団体連盟副会長、科学技術国際交流センター会長、発明協会副会長などを務めた。1997年には、藍綬褒章を受章している。

 日本酒好きで知られ、贈られた日本酒には、日本酒でお礼を返すというエピソードもあるほどの日本酒通。蕎麦を好み、社長時代には、本社があった東京・丸の内に好みの蕎麦屋があり、ランチタイムには列に並んで食べていた。

 目を細くして笑う表情が印象的であり、センスのいいジョークを交える。インタビューでも柔らかい口調でしゃべっていたことを思い出す。「好奇心が強いのが長所。相手を立てすぎるのが短所」と自身で語っていた。

「柔の関澤」の本当の意味は?

社長就任会見での関澤氏(右)と山本氏(左)

 1990年3月の社長就任会見では、前任の山本卓眞氏が、3人の社長候補者のなかから関澤氏を選んだことを明かしながら、「研究所では伝送、無線の研究に携わり、その後、交換機の営業に携わり、いまは、コンピュータの営業部門のトップに立っている。これ以上望めないほど、場数を踏んでいる」と選任の理由を述べ、「新社長に注文することはない。関澤流で思いっきりやってほしい」とエールを送った。

 そのとき、関澤氏は、「山本社長よりも、若干、柔らかいほうに行きたい」と言っていたことを思い出す。

 山本氏は、戦時中の特攻隊の一員であり、骨太の経営者としても知られたが、その性格と対比してのコメントだった。

 後日、単独インタビューしたさいに、「山本さんの剛直な人柄は、とても真似できない。その一方で、最近は柔らかいことが世のなかで受けはじめている。その流れに乗って、剛の山本さんに対して、柔の関澤で行く」と、冗談交じりに話していた。

 だが、社長在任中は、「柔らかい」という言葉とは裏腹に、ハードな改革に取り組んだ。

 もっとも大きな改革は、「ノンハード指向」を打ち出し、それまでは「サービスは無償」という業界の常識に一石を投じたことだ。富士通は、1992年に総合サービス体系「PROPOSE」を発表し、サービスの事業化に取り組んだ。

 当時のインタビューでは、「富士通は、儲かっていないからこんなことをやるんだという声もあるが」と笑いながら、「オープン時代のなかで、ノンハード事業の推進は、富士通の収益を拡大するための絶対条件である。富士通自らがパワーシフトしていかなくてはならない」と語り、業界全体を巻き込んだ「古き慣習」の変革に挑んでいった。

 いまや富士通は、国内最大のITサービス売上高を誇る企業となっており、ソリューションサービスが屋台骨だ。このときの取り組みが、いまの富士通の姿になっている。

 振り返ってみれば、「柔の関澤」という言葉のなかには、「剛(ハード)」から、「柔(ソフト=ノンハード)」という、富士通のビジネスモデルの転換を示唆する意味が込められていたのかもしれない。

 関澤氏は、ノンハードビジネスを牽引する「PROPOSE」とともに、1990年に発表したメインフレームシステムコンセプトである「MISSION/DC」、1991年に発表したメインフレームからパソコンまでを連携させるシステムコンセプト「MESSAGE90s」を「3点セット」と位置づけ、富士通の事業構造を大きく転換させて見せた。

 MESSAGE90sの会見で関澤氏は、「これまではメインフレームと専用端末をつないで利用する時代であったが、これからはメインフレームとパソコンをつないで利用する時代がやってくる。見方を変えれば、メインフレームやオフコンを、パソコンやワークステーションのサーバーとして利用する時代が訪れる」とし、マイクロソフト、ロータス、ジャストシステム、アスキーといった当時の主要パソコンソフトメーカーの社長が会見に参加。各社社長がMESSAGE90sのコンセプトに賛同するコメントを述べた。

 社長就任時に、「これからの富士通は、マーケティング力、システム企画力を強化しなくてはならない。それは、ホスト中心、システム中心の富士通が、パーソナルなマーケットにも受け入れられるための仕掛けとなる。富士通は、メインフレーム中心のコンピュータビジネスから脱却し、ダウンサイジングやパーソナル化といった新たなマーケットニーズの広がりに対応していく必要性がある」とコメントしていたが、MESSAGE90sは、社長として、その姿勢を実行に移して見せた。

 1993年には赤字を計上したが、それでもビジネスモデル改革の手綱は緩めなかった。

 その一方で、「90年代に富士通を伸ばしていくためには、目につきはじめた大企業病を潰していかなくてはならない。組織や社員をもっと活性化していくことが必要だ」として、人事制度の見直しにも取り組み、1993年には、国内大手では、他社に先駆けて、いち早く成果主義制度を導入した。

FM TOWNSは「自分で設定し、挑戦している事業」

1989年に発売したFM TOWNS

1989年に富士通が発売したマルチメディアパソコン「FM TOWNS」は、関澤氏が、専務取締役時代から取り組んでいたものだ。

 1989年2月28日、東京・丸の内の本社20階で行なわれたFM TOWNSの記者会見には、当時の山本社長、関澤専務が出席し、約200人の報道関係者が集まり大々的に行なわれた。記者席の周りには担当部長以下、約50人の社員が陣取り、それだけでも同社の力の入れ具合が伝わってきた。

 関澤氏は、「富士通が唯一、差をつけられているのがパーソナル分野。この市場に向けて、ホビーからビジネスまで幅広く利用できるマルチパーパスハイパーメディアパソコンとして、FM TOWNSを発売する」と宣言した。

 FM TOWNSは、日本ではじめてCD-ROMドライブを搭載した新たなコンセプトのパソコンだったが、当初は対応ソフトウェアが27種類に限定されていたこともあって、初年度目標の10万台には到達しなかった。だが、関澤氏は社長になってからも、FM TOWNSを富士通の新たな挑戦の柱に位置づけ続けた。

関澤氏(右)と山本氏(左)

 90年3月の社長就任会見のさいには、立ち上がりが鈍かったFM TOWNSについて、「宿題」という表現で記者から、質問が飛んだが、それに対して、関澤氏は、「FM TOWNSは、社長としての宿題とは思っていない。自分で設定して、挑戦をしている事業である。新しい世界の商品はそう簡単に定着するものではない。じっくり育てていく」とし、社長就任後も、重点商品の1つとして取り組んでいく姿勢を強調していた。

先進的なネットワーカーとしての側面も

 関澤氏は、インターネットが普及する前から、先進的な「ネットワーカー」と言える存在だった。パソコン通信も早い時期から率先して利用しており、インターネットの波にも一番に乗った。

 取材のついでに、おすすめサイトを聞いてみたら、海外の天気サイトの存在を教えてくれたことがあった。90年代半ばのまだインターネットが広く普及していない時代のことであり、すでにインターネットを普通に使いはじめていることに驚いた。

 1992年6月に、意外な製品の発表会見に関澤氏が参加したことがあった。「OASYS 30-LX405」という製品だ。

 ワープロ専用機のOASYSに、2400bpsのモデムと、ニフティ(当時はニフティサーブ)が利用できる専用通信ソフトを搭載した製品であり、社員総出で盛り上げたFM TOWNSのときとは異なり、会見規模も小さく、社長自らが登場するほどの製品ではないとも言える内容だった。

 ただ、いま振り返ってみると、この製品には関澤氏の強い思い入れがあり、あえて出席したのかもしれない。

 関澤氏によると、この製品のコンセプトは、「初心者でもマニュアルを読まずに、簡単にパソコン通信が行なえる専用機」であり、クラムシェル型の筐体についても「次のステップでは、持ち歩きに便利なポケットタイプのものも出していきたい」と語る一方で、「『パソコン通信専用のワープロ専用機』という言い方はおかしい」、「パソコンを使わないのにパソコン通信というのもおかしい」と、自虐的なコメントを連発。さらに、担当者の説明が終わるたびに、「蛇足ですが……」と、社長が補足コメントをするというユニークな会見となった。

 それだけ、この製品に対する思い入れが強かったのだろう。
じつは、この製品、関澤氏が大企業病の克服を目指す活動として取り組んでいた「エキサイティング富士通’92(EF92)」と呼ぶ社内活動のなかから、社員のアイデアによって生まれた製品であり、ニフティのフォーラムで議論を重ねてコンセプトが固まっていったものだった。

 「この製品の良さは、わかる人にはわかる。だが、わからない人にはいくら説明してもわからない」としながら、「ネットワークが浸透していくと、パーソナルとビジネスの垣根を超えた新しい世界が広がっていく」と、約30年前に、いまの時代の到来を予測していたと言える。

 ネットワーカーだからこそ、理解をしていた製品であり、予測した未来であったと言えよう。

パソコンを富士通の事業の柱にするFMVへの挑戦

1993年に発売したFMV

 その一方で、1993年には、DOS/VパソコンのFMVシリーズを発表。それまでの独自仕様から、国内標準のIBM/AT互換機市場に参入。1994年には、コンシューマユーザーを対象にしたFMV-DESKPOWERを投入。関澤社長体制のなかで、富士通のパソコン事業が本格化していくことになる。

 とくに、FMV-DESKPOWERの発売は、富士通が個人向けビジネスに本腰を入れるという、大きな一歩を踏み出す宣言でもあった。

 92年6月に、パソコン事業を一気通貫で行なうパーソナルビジネス本部を設置。FMV-DESKPOWER を発表した94年10月には、同本部を、個人向け販売を担当する専門組織へと改変。500人規模の体制で、個人向け市場を対象としたビジネスに取り組むことになったのだ。

 1981年に発売したFM8をはじめとする8ビットパソコンや、マルチメディアパソコンを謳ったFM TOWNSも、個人ユーザーをターゲットとしたが、富士通にとっては、あくまでも傍流の事業にとどまっていた。

 だが、このときには、「パソコンビジネスを富士通の大きな柱にする」(当時の大槻幹雄副社長)という大号令のものに事業を推進。関澤社長体制における大きな挑戦の1つとなったのだ。

 メインレフーム、オフコンも、国内後発の立場からトップシェアを奪取した経験がある富士通は、このとき、後発であるパソコンでもトップシェアを獲得する方針を宣言した。

 だが一方で、FM TOWNSは、社長在任中の1997年に発売した製品が最後となり、社長就任時の抱負として語ったように、事業として「育てる」ことはできなかった。

 1998年に社長の座を秋草直之氏に譲り、自ら会長に就任したが、このときの社長交代会見で、パソコン事業について秋草氏は、「トップシェアを目指す関澤社長の方針は継続する。そう遠くない時期にトップシェアを獲得する」と明言。

 DOS/Vの存在感が高まるなかで、その先頭を走った富士通には、「前を走るNECの靴底が見えていた段階」(当時の富士通関係者)だった。その後、富士通は、年間トップの座は奪えなかったが、四半期集計などでトップシェアを獲得。コンシューマ市場でも存在感を示した。

社長退任理由は「先々を見通す力が落ちた」

 社長交代会見で関澤氏は、退任理由として、「世のなかの激しい変化に対して、先々を見通す力が落ちてきた。これだけは若い頃には戻らない」をする一方、「富士通は、まだまだ市場環境の急激な変化に追いついていない。もっとすばやく意思決定ができる経営体質にしなくてはならない。会社全体の意思決定のスピードをもっとあげなくてはグローバル企業として生き残れない」と危機感を募らせていた。

 具体的な事例として、「取締役会は、人数が多すぎて、突っ込んだ議論ができない。業界のスピードに対応できる意思決定ができていない」と指摘。

 この会見で語った取締役会の刷新は、2002年に実行され、執行役制およびビジネスグループ制を導入。32人いた取締役は社内5人、社外2人の7人体制となり、関澤氏は、会長職で取締役会の議長に就き、グローバルで戦う企業への本格的な転換を進めた。

 こうしてみると、同社10代目社長として、90年代の富士通を担った関澤氏は、21世紀のいまの富士通へとつながる変革を相次いで行なった経営者だったことがわかる。そして、富士通のパソコン事業拡大の土台を作った経営者でもあった。

 なお、葬儀はすでに近親者のみで執り行なっており、後日お別れの会を開催する予定だという。日程については、新型コロナウイルスの感染拡大の状況や、緊急事態宣言の状況などを考慮しながら検討しているという。

 ご冥福をお祈りする。