山田祥平のRe:config.sys

これから起こるPCのトランスフォーメーション

 今、PCを作っている会社が、10年後、20年後にもPCを作っているとはかぎらない。IBM-PCを世に出し、今のPCシーンの先駆けとなったIBMも、今はPCを作っていない。これからPCはどうなっていくのだろう。

やってくるはずの第四の波

 分社し、設立3周年を迎えた日本HPがプレス向けの事業説明会を開催、プリンティング事業、3Dプリンティング事業、PC事業について、それぞれの責任者が今年(2018年)の抱負を説明した。

 説明会後の懇親会で挨拶にたった同社代表取締役社長執行役員の岡隆史氏は「とにかく事業領域が大幅に変わりつつある。HPという会社は20年後、30年後、PCを作って売る会社ではなくなっているかもしれない」という。

 確かにそうかもしれないと思った。AIが今の人間の仕事の一部を奪い取ってしまうというのはよく聞く議論だが、かつて、馬車夫の仕事を車が奪ったのと同じだ。当時、多くの馬車夫が失業した代わりに、自動車産業は莫大な雇用を生んだ。それと同じことだ。

 ところが、そのPCに代わるものが今見えなくなっている。農業革命、産業革命、そして、情報革命と、これまで人々が経験してきた3つの革命に続く4つめの革命が今ひとつ見えない。

 アルビン・トフラーが「第三の波」で情報革命を定義した1980年を今の時代の源流とすれば、それからすでに40年が経過している。もっともトフラーによる第一の革命は農業革命ではなく人類が初めて農耕を開始した新石器革命だ。第一から第二の革命までは1万年以上かかっているのに、第二の革命から第三の革命まではたった200年しかかかっていない。5分の1の短縮だ。この調子でいくと、トフラーの「第三の波」から約40年後の今、第四の革命が勃発してもまったくおかしくない。

 PCが役割を奪われるとしたら、その役割をなにかが代替する必要がある。いや、代替する道具が必要なのかどうかから本当は議論しなければなるまい。スマートフォンやタブレットがPCの代替になるかどうかなんて、本当は枝葉末節の話であり、もっと大きな流れのなかで第四の革命を考える必要がありそうだ。

究極のモバイルとは持たないこと

 たとえば究極のモバイルというのは機器を持たないことではないかとも思う。今は誰もがポケットやバッグのなかにスマートフォンを忍ばせている。それが続くのかどうかということだ。

 個人的に長い出張のときには“24型モバイルディスプレイ”(※編注 一般的な24型液晶です。「24型液晶ディスプレイをモバイルしてはいけない」参照)をスーツケースに忍ばせてでかけたりするのだが、これも、宿泊先の部屋にPCの映像を出力できる大型TVやディスプレイがあることが保証されていればそんなことはしない。

 その前に、未来永劫、24型ディスプレイが出先での作業のために本当に必要なのかどうかも疑わしい。大きなディスプレイがほしいのは出先での作業を少しでもラクで効率のいいものにしたいからだ。片側のディスプレイで調べ物をしながら、もう1つのディスプレイで書き物をしたりといった作業は大きなディスプレイの併用で飛躍的に快適なものになる。ちょっとしたDTP作業をすることもあるが、10数型サイズの画面しかもたないノートPCでは拷問だ。

 けれども、その環境を自前で調達する必要がないなら、わざわざ苦労して持ち運ぶ必要はない。革命とはそういうことなのだ。

 それどころか、書き物をするのに調べ物が必要というのも現時点での当たり前にすぎない。書くことが打つことに代わり、打つことが喋ることとなり、喋ることが想うことになったとして、事実関係の裏取り、言い回しの妙、表現のスタイルはAIがになったりする。それが正確で自分にとっての理にかなったものであるとすれば調べ物など必要ない。そして、それが記録される先は、目の前のPCのストレージではないというのは今だってそうだ。

近い将来と遠い将来

 近い将来、クルマの運転は、本当にかぎられた人だけの娯楽を含むかぎられた用途のためだけのものになるだろう。人がクルマを運転するなんて、そんな危ないことはとんでもないという時代がやってくる。万が一の緊急時に自動運転が解除されてマニュアル操作が可能になるのではなく、万が一のときこそ自動運転に切り替わり安全が確保される。

 人が運転しないから、道路には今の数倍の量のクルマが溢れても渋滞1つ起こらない。まさに公共交通機関の1つとしてクルマが機能するようになる。それと同じようなことが、今、PCで行なっている作業の範疇にも起こるのではないか。やっていることがクリエイティブで人間にしかできないなどと思っていても、それは自己満足にすぎなくなる。

 その一方で、たとえば、今なお、墨をすって筆で文字をしたためる書道は崇高な芸術だ。でも名家がしたためた書より人をなごませる書をAIが出力できるようになるかもしれない。どうしても墨と筆が必要だというならそれをAIが制御するだけだ。そこでなぜ人がわざわざ書をしたためるのかを考えなければならなくなる。

 ほんの20年前、米国に出張してホテルの部屋に案内されると、持参したノートPCをすぐに電話回線に接続、場合によってはドライバーでローゼットをこじ開けて、ミノ虫クリップで電話線を並列に接続してモデムにつないだ。

 そして、近隣のアクセスポイントにダイヤルさせ、つなぎっぱなしで数泊の滞在を過ごした。なんちゃって常時接続だ。当時の米国では、多くのホテルで電話利用については1回数十セントという料金体系だったので、いちいちつなぎ直すたびに課金が起こったのだが、つなぎっぱなしなら何十時間そのままでも1回分の料金で済む。そういう時代だった。

 そのうちホテルの部屋には有線LANが敷設され、それはそのうちWi-Fiになった。多くのユーザーがぶらさがるようになりWi-Fiの速度は落ちる一方だが、なんだかんだでモバイルネットワークがそれなりに満足できる速度を提供できるようになった。現地でSIMを調達するのとローミングの価格を比べたときに、大きな違いがない国も少なくなった。小さな変化だが大きな変化だ。

 こうしてたった四半世紀くらいの間にも、ぼくらを取り巻くデジタル環境は大きな変化を遂げている。四六時中スマートフォンを持つのが現代人として当たり前というのがいつまでも続くわけがないというのもありえない話ではない。

 2100年頃にはこういう話も昔話になっているだろう。やけにおもしろい四半世紀を見てきただけに、その時代をこの目で見ることができなさそうなのがくやしい。そういう歳になった。