福田昭のセミコン業界最前線
デロリアンやハチロクなど、ジャパンモビリティショーで20世紀の名車に会う
2025年11月6日 09:31
日本最大の自動車展示会「東京モーターショー」が「ジャパンモビリティショー」に名称を変更するとともに対象を自動車からモビリティ全般に拡大したのは、2023年のことだ。コロナ禍によって東京モーターショーは2019年の開催が最後となり、休止期間を経てジャパンモビリティショーとなって2023年に再開された。
今年(2025年)はジャパンモビリティショーとしては2回目の開催となる。開催期間は同年10月30日(木曜日)~11月9日(日曜日)、会場は東京ビッグサイト(東京都江東区有明)である。「ジャパンモビリティショー 2025(Japan Mobility Show 2025)」こと「JMS2025」に関するレポートはこちらに詳しいので、参照されたい。
ここでは昭和30年代生まれの筆者がJMS2025の会場で出会った、20世紀を代表するクルマの実車展示をご報告する。先述のJMS2025レポートでは、あまり紹介されていない。本記事は昭和30年代~40年代生まれの世代に特化した懐古趣味全開のレポートとなる。本コラムの「番外編」ということで、どうかご容赦されたい。
初めに告白しておくと、20世紀を代表するクルマのほとんどは「合同企画展示「タイムスリップガレージ」」に実車展示されていた。同企画展示の会場は東展示棟1階の東7ホール。そのほか一部の車両は、自動車メーカーの自社ブースに展示されていた。もちろん、JMS2025に展示されていたのは「20世紀を代表するクルマ」の一部に過ぎない。それでも伝説の車両には、強く感じるものがあった。
トヨタ初の自動車「トヨダG1型トラック」(1935年)
それでは年代順に「20世紀を代表するクルマの実物展示」を報告していこう。初めは1935年(昭和10年)に開発された、「トヨダG1型トラック」である。トヨタ自動車(当時は豊田自動織機製作所)が開発した、初めての自動車だ。トヨタは当初、乗用車の開発を進めていたものの、商工省と陸軍省の要請によってトラックと乗り合いバスの開発を先行させたという経緯がある。
展示ブースの説明板には、「1930年(昭和5年)にトヨタは小型エンジンの研究を始め、1933年型のシボレー製エンジンを模したA型エンジンを試作した」とある。この乗用車向けA型エンジンをG1型トラックに流用するのだが、筆者は説明を読んだときに「小型エンジンがトラックに使えるのだろうか」という疑問を抱いてしまった。
そこで少し調べると、トヨタの公式Webサイト「トヨタ自動車75年史」に詳しい説明があったので抜粋したい。試作したA型エンジンの型式は4サイクルの水冷直列6気筒、頭上弁(OHV)方式で、気筒容積は3,389ccとあった。現代に言い換えると「L6の3.4Lエンジン」となる。十分に大きなエンジンで、「小型エンジン」(当時はたぶん小型だったのだろう)と表現することは、昭和30年代生まれの筆者には難しい。
1935年および1936年のトラックと2024年のトラックを粗く比較
トヨタが初めて試作したトラック「G1型」は1935年11月に発売されるとすぐに、リアアクスルハウジング(後輪車軸管)の折損が多発してしまった。そこで折損対策を施すなどの改良を加えた「GA型」を1936年に発表する(シャシー重量がGA型で大幅に増加しているのは、折損対策のためとみられる)。
これらのおよそ90年前に開発されたトラックと、現代のトラックはどのくらい違っているのだろうか。無理を承知で、粗いながらも比較を試みた。比較の対象には、いすゞ自動車が2024年7月末に発売した小型トラック「エルフミオ(ELFmio)」を選んだ。普通免許、それもAT限定の普通免許で運転が許されるトラックとして、いすゞ自動車が新たに開発した貨物自動車だ。
両車両を比較すると、驚くほど変わらない部分と、基本技術の進化がうかがえる部分とに分かれた。まずエンジンは、G1/GA型がガソリンエンジン、エルフミオがディーゼルエンジンと大きく違う。と言っても1930年代の燃料事情から、G1/GA型がガソリン車なのは避けられない。しかも詳細は不明だが、当時のガソリン燃料は現代のガソリン燃料とはかなり違うようだ。
排気量はG1/GA型が3.4Lと大きく、ボア径(84.1mm)とストローク長(101.6mm)の数値から、ロングストロークタイプであることが分かっている。直列6気筒の3.4L、ロングストロークエンジンタイプという表現から、トルクと出力の両方を稼ごうという意図がうかがえる。それでも最大出力は65PS、最大トルクは19.4kgf・mと現代のガソリン大排気量エンジンから見るとかなり非力に見える。ちなみに3.0Lの自然吸気エンジンでも、2010年代にガソリンエンジンの最大出力は250PSを超え、最大トルクは30kgf・mを超えていた。
エルフミオは貨物自動車に一般的なディーゼルエンジンを搭載している。排気量は1.9Lと、軽規格車両を除くと貨物自動車としては最も小さいクラスに属する。それでも最大出力は120PSとG1/GA型の2倍近い。そして最大トルクは32.6kgf・mとこれもG1/GA型の1.5倍強ある。90年の年月を差し引くと、大幅な進化は当然とも言える。
興味深いのは回転数と出力およびトルクの関係だ。最大出力を得られる回転数が3,000rpm、最大トルクを得られる回転数が2,000rpmと、90年の差があっても常用回転数はほぼ変わらない。もっとも、回転数変化と出力・トルクの関係を示す曲線グラフがG1/GA型では見つからなかったので詳細は不明だが。
日本初の電気自動車「たま電気自動車」(1947年)
1945年(昭和20年)の敗戦直後から、日本は石油不足、すなわち自動車用燃料不足に悩まされた。その対策として1947年(昭和22年)に誕生したのが、日本初の電気自動車「たま電気自動車」である。余力のある水力発電を活用する自動車、というアイデアが基となった
日産自動車座間事業所内にある「日産ヘリテージコレクション」の公式Webサイトによると、「たま電気自動車」の基本仕様は以下の通りとなる。全長3,035mm×全幅1,230mm×全高1,618mm、ホイールベース2,000mm、車両重量1,100kg、直流直巻モーター(定格出力3.3kW(4.5PS))、航続距離(1充電走行距離)65km、最高速度は時速35km、バッテリ(蓄電池)は鉛電池(40V、162Ah)、などである。
また日立産機システムのオンライン情報誌「VoltAge21」によると、「たま電気自動車」のモーター(定格36V、120A)とバッテリは立川飛行機と日立製作所が共同開発した。
「オート三輪」の代名詞「ミゼット」(1957年)
1950年代前半の朝鮮戦争特需による好景気とその反動による景気後退期に、それまでの中小メーカーによる小型オート三輪(三輪貨物自動車)は販売不振に陥った。ダイハツ工業は軽自動車規格を生かした安価な軽オート三輪「ミゼット」を従業員数9名以下の零細業者向けに開発し、1957年に発売した。大手メーカーによるオート三輪は当時初めてのことで、サービス体制に関する安心感と低価格の相乗効果などによって大ヒットした。
ただし四輪の軽トラックが市場に投入されたことで、オート三輪は苦しい戦いを強いられる。そのような中で唯一、1972年までの長きにわたって「ミゼット」は生産され続けた。1960年代に個人商店や零細企業などで最も良く使われた貨物自動車とも言える。
筆者の調べによると、展示車両とみられるMP5型のミゼットはエンジンが排気量305ccの空冷単気筒2ストローク(オートバイのエンジンとほぼ同じ)、変速機は3速マニュアルである。車体寸法は全長2,970mm×全幅1,295mm×全高1,455mmと小さく、車両重量は415kgと軽い。
「羊の皮を被った狼」がレースで外国高性能車を追い詰める(1964年)
1960年代は経済成長が本格化するとともに、モータリゼーション(クルマの社会への普及)が急速に進んだ。同時に自動車競技(レース)への関心が高まる。1962年9月には日本で初めての本格的なレース場(全面舗装コースと観客席を備えるレース場)として「鈴鹿サーキット」が完成した。3年後の1965年7月には「船橋サーキット」(赤字のため1967年7月に閉鎖)、さらに1年後の1966年1月には「富士スピードウェイ」が開業する。
日本の大手自動車メーカーの大半がレース活動を手掛けるものの、当初は外国の高性能レースカーに勝つことは難しかった。ところが1964年の日本グランプリ(鈴鹿サーキット)でプリンス自動車の「スカイラインGT」が、優勝候補であるポルシェに対抗する走りを見せたのだ。
この「スカイラインGT(スカイライン 2000GT)」は、本来は4気筒エンジンを積んでいたセダンのスカイラインに、上級セダンの「グロリア」が搭載していた6気筒エンジンを載せてレース用の改造を施した車両である。スカイラインがポルシェを追い詰めたことは日本のレースファンを驚かせ、熱狂させた。このとき日本の自動車技術は「速さ」で世界に並びつつあった。
1960年代を代表する米国のスポーツ車「マスタング」(1967年)
モータリゼーションの圧倒的な先進国である米国でフォード・モーターが1964年に発売したスポーツ車「マスタング」は全米で大人気となり、フォード・モーターにとっては「T型フォード」以来のベストセラー商品となった。
「マスタング」は厳密にはスポーツ車ではなく、スポーティな乗用車(スポーツ車のスタイルを取り入れた乗用車)である。エンジンやシャシーなどは小型セダンの「ファルコン」をベースとしており、基本的には乗用車と変わらない。そこにスポーツ車に見えるボディをかぶせたことにより、若者を中心に大人気となった。
また標準仕様車の価格を低く抑えたことで購入予算の少ない若者の需要に応えるとともに、多彩なオプション(エンジン、ブレーキ、インテリア、タイヤなど)によって予算に応じたカスタマイズを可能にしたことで、幅広い顧客層を取り込んだ
トヨタ博物館の公式Webサイトによると、「マスタング」の基本仕様は以下の通り。車両寸法は全長4,610mm×全幅1,732mm×全高1375mm、ホイールベースは2,743mm。車両重量は1,288kg。エンジンは排気量4,736ccの水冷V型8気筒OHV方式、最高出力(回転数4,800rpm)は157kW(210HP)である。なおトヨタ博物館の説明には1964年式とあり、同博物館に掲載された車両の外観はJMS2025と異なるので、JMS2025の展示車両とは数値が異なるかもしれない。あらかじめご了承されたい。
世界で初めて米国の厳しい排ガス規制をクリア「シビック CVCC」(1973年)
1970年代の自動車業界は「排気ガス規制」という逆風にさらされた。先進国の大都市を埋め尽くす大量の自動車が排出する汚れたガスが大気を汚染しているとされたからだ。「光化学スモッグ」という単語が日本で知られるようになったのは、1970年に東京の学校グラウンドで体育の授業中に眼への刺激や喉の痛みなどの症状を多数の生徒が訴えた事例に始まるとされる。その後の調査によって1960年代後半から農作物への被害が発生していたことも確認された。
光化学スモッグの被害が特にひどかったのは、米国カリフォルニア州の大都市ロサンゼルスだった。1940年代には被害が多発していたという。光化学スモッグに代表される大気汚染の主要な原因が自動車の排気ガスであることが判明し、排気ガスの浄化が急務となった。
そして1970年末、米国連邦議会で採択された強力な大気汚染防止法「マスキー法」が発効する。マスキー法は従来の大気汚染防止法を改正した法律で、1975年以降に製造する自動車が排出する汚染物質の濃度を1970年モデルおよび1971年モデルの10分の1にするという厳しいものだ。
「マスキー法」の規制を1972年に世界で初めてクリアしたのは、本田技研工業が開発したCVCCエンジンだった。CVCCエンジンの開発経緯とシビックへの搭載については同社の公式Webに詳しい。1972年に同社が発売した小型乗用車「シビック(CIVIC)」は、当初はCVCCエンジンを搭載していなかった。1973年12月に国内で1.5Lの4ドアモデルを発売したときに、従来エンジン搭載タイプとCVCCエンジン搭載モデルを用意した(本田技研工業のニュースリリース)。
米国マスキー法対応については、1974年11月に米国仕様のシビック(1975年モデル)が米環境保護局(EPA)のテストを受け、マスキー法の適合認定を受けた。なお1972年12月にCVCCエンジンは世界で初めてEPAのマスキー法適合認定を受けていたものの、当時はCVCCエンジンを搭載するホンダ車両がなく、車両としての認定はまだだった(日産自動車の小型乗用車「サニー」にCVCCエンジンを搭載してテストを受けていた)。
全高を上げて居住性を高めた小型乗用車「シティ」(1981年)
ここからは1980年代以降の名車となる。背景説明は簡略していくのでどうかご了承されたい。初めは本田技研工業が1981年に発売した小型乗用車「シティ」である。「トールボーイ」と呼ばれる背の高い独特の外観をしており、低背が主流だった乗用車のデザインに大きな影響を与えた。車体の全高を上げたことは、後席の居住性を大きく高めた。
大ヒット映画によって世界的な知名度を得た「デロリアン」(1982年)
次は英国デロリアン・モーター・カンパニーが1981年に発売したスポーツ車「デロリアン(DMC-12)」である。商業的に大失敗して同社が1982年に倒産したことから、1980年代前半における知名度は低かった。
「デロリアン」が世界的に知られる存在となったのは、1985年に公開され、大ヒットしたSF映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー(原題: Back to the Future)」に「タイムマシン」として使われたからだ。ガルウイングドアやステンレス製ボディ(塗装なし)、独特の低背デザインなど外観があまりにも奇抜かつ未来的なことから、デロリアンを知らなかった観客の大半は市販車両ではなく、SF映画撮影用に特別に作られた車両だと当初は考えていたようだ。
JMS2025に展示されていたのは、トヨタ博物館が収蔵している車両である。同博物館の公式Webサイトに簡単な説明があり、展示車両と違ってガルウイングドアを開いた写真もあるので、ご興味のある向きはご参照されたい。トヨタ博物館のサイトにない情報を追加しておくと、リア置きエンジン、リア駆動のRR車である。
「ハチロク」の愛称で熱狂的な顧客を獲得した自然吸気のFRスポーツ(1983年)
1980年代に入ると、ガソリンエンジンの乗用車には2つの要素技術が普及していった。1つがフロントにエンジンと駆動輪の両方を配置することで室内空間を拡大したFF(Front engine Front drive)方式である。
1970年代の主流はエンジンをフロント、駆動輪をリアに配置したFR(Front engine Rear drive)方式であり、エンジンと後輪(駆動輪)をプロペラシャフト(回転式の動力伝達機構)でつなげている。プロペラシャフトはかなり太く、通常は後席の床中央に膨らみが生じる。エンジンは前後方向に配置(縦置き)するのが普通で、フロント部分が長くなるとともに、変速機構が前席側にはみ出すことがある。
一方、FFはプロペラシャフトがないので後席の床が平らであり、エンジンを左右方向に配置(横置き)するので変速機が前席にはみ出すこともない。この利点から1970年代でも、ボディ寸法の特に小さな乗用車(排気量1.3L以下)でFFを採用する車両が少なくなかった。1980年代は居住性の高さとFF技術の進化により、FFが排気量で1.5Lから1.8L、さらには2.0Lと中型クラスまで普及していった。
もう1つの要素技術が過給器(ターボチャージャー)である。排気側の回転翼(タービン)と吸気側の回転翼(コンプレッサー)を1本の軸でつなげた機構で、排気ガスによってタービンを高速で回転させ、吸気側のコンプレッサーが回転して空気を圧縮する。大量の空気(酸素)をエンジンの燃焼室に供給するので、排気量当たりの出力とトルクを大幅に高められる。
「ターボ」と呼ばれた過給器システムは、スポーツ車と高級車で出力とトルクを高めるために1980年代に採用が進んだ。ターボ化に特に熱心だったのは日産自動車で、1979年の乗用車「セドリック/グロリア」シリーズに日本で初めてターボモデルを用意した。排気量は2Lで、当時は5ナンバーのハイエンド乗用車となる。同社は1980年に1.8Lの「ブルーバード」、1981年に2.0Lの「スカイライン」にターボモデルを投入した。
続いてターボモデルは小排気量の乗用車にも搭載され始める。本田技研工業は1981年に発売した「シティ」(前述)にターボモデル「シティターボ」を追加し、1982年に発売した。排気量がわずか1.2L、FF方式のコンパクトカーにターボチャージャーを載せてきた。1983年になるとマツダが排気量1.5LのFF方式小型乗用車「ファミリア」でターボモデルを発売した。同年、ダイハツ工業は排気量が1.0LのFF方式小型乗用車「シャレード」にガソリンターボモデルとディーゼルターボモデルをラインナップした。
「FF化」と「ターボ化」という乗用車技術の流れに強くあらがったのが、1983年にトヨタ自動車が発売した「カローラ レビン/スプリンター トレノ」である。排気量1.6Lの自然吸気直列4気筒DOHCエンジン(4A-G)とFR方式レイアウトを採用したスポーツタイプの小型乗用車は、スポーツライディングを好む顧客から「ハチロク」(車両型式のAE86に由来)と呼ばれ、熱狂的な支持を得た。
【お詫びと訂正】初出時にハチロクに関する記載に誤りがありました。お詫びして訂正させていただきます。
なおFR方式の「カローラ レビン/スプリンター トレノ」はこのモデルが最後となったことも、後年の人気に拍車をかけた。FR方式はマニュアルでのスポーツ走行に適している。特に、意図的にタイヤを滑らせてクルマの向きを変える「ドリフト走行」は、FR車でなければ、かなり難しい(FR車でも簡単ではないが)。
さらに、ターボモデル(当時)はアクセルを踏んだときの加速感覚に独特のクセがあり、一部の顧客からは嫌われていた。自然吸気DOHCモデルのスムースかつ反応の良い加速感覚は、「カローラ レビン/スプリンター トレノ」の付加価値をさらに高めた。
超絶曲芸走行のTVコマーシャルが衝撃を与えた「街の遊撃手」(1985年)
FF方式の小型乗用車で、そのスタイルとキャッチフレーズが自動車ユーザーにインパクトを与えたのが、いすゞ自動車が1985年に発売した1.5Lの小型乗用車「FFジェミニ」である。それまで「ジェミニ」はFR方式を採用していた。FF方式に駆動方式を変更したジェミニの初代モデルである。
キャッチフレーズ「街の遊撃手」をエンドタイトル(厳密にはエンドタイトル「ISUZU GEMINI」の直前)に配置した、フランスの首都パリを舞台に2台~十数台のFFジェミニが曲芸師のように走行するTVコマーシャルは一世を風びした。この映像はスタントマンが操縦するFFジェミニを実際に走らせて撮影したもので、運転手がほぼ見えなくなっているといった映像の加工はしているものの、コンピュータグラフィックスや模型による特殊撮影といった技術はまったく使っていない。
F1レース競技車両(1988年)とWRC競技車両(1996年)
以降は撮影画像と簡単な説明にとどめておこう。1989年(昭和64年および平成元年)に昭和が終わり、平成が始まった。1988年のF1(フォーミュラワン)競技車両「McLaren Honda MP4/4」、1991年の高級乗用車「セルシオ」、1991年のロータリーエンジンスポーツ車「RX-7(FD3S)」、1996年のWRC(世界ラリー選手権)競技車両「ランサー エボリューションIII」と「インプレッサ555」、1998年のハイブリッド車「プリウス」の展示車両をご報告する。
1935年から1998年までの出品車両は、トヨタに始まり、トヨタに終わっている(紹介車両は4点)。ホンダブランドは「シビックCVCC」、「シティ」と2点ある。日産自動車はどうか。同社に統合された立川飛行機の「たま電気自動車」とプリンス自動車の「スカイライン 2000GT」は展示されていたものの、日産ブランドの出品はなかったようだ。いささか残念だった。




















































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