福田昭のセミコン業界最前線
富士通の電子デバイス事業、改革から解体へ(後編)
(2014/10/7 06:00)
富士通が半導体事業を本体から分離して子会社にすることを発表したのは今(2014年10月)からおよそ7年近く前、2008年1月のことである。同年3月に100%子会社「富士通マイクロエレクトロニクス」(その後、2010年4月に社名を現在の「富士通セミコンダクター」に変更)を設立した。
半導体事業を抱える国内の大手エレクトロニクス企業が半導体事業を分離する動きは、日本では2000年代に入ると急速に活発化した。DRAM事業が苦境に陥ったことと、2001年に起こった急激な半導体市場の縮小が、半導体事業を分離する力として働いた。DRAM事業分離の代表は「エルピーダメモリ」だろう。NECと日立製作所はDRAM合弁企業「NEC日立メモリ」を2000年4月に設立した。NEC日立メモリはその後に社名を「エルピーダメモリ」と変更し、2002年4月には三菱電機のDRAM事業を吸収した。
DRAM以外の半導体製品、すなわちロジック半導体事業を分離する動きはNEC、日立製作所、三菱電機で起こった。NECは2002年11月に半導体事業の子会社「NECエレクトロニクス」を発足させた。NECエレクトロニクスは2003年7月に上場し、株式市場から資金を独自に調達する。このため、半導体分社化の成功例とされたこともある。日立と三菱は2003年4月に、それぞれの半導体事業を統合した合弁会社「ルネサス テクノロジ」を設立した。ルネサス テクノロジはその後、2010年4月にNECエレクトロニクスと合併して「ルネサス エレクトロニクス」となる。
国内大手エレクトロニクス企業5社の中で、2001年の景気後退にもかかわらず、半導体事業を分離せずに構造改革の道を選んだのが東芝と富士通である。半導体事業を成長させる牽引役に、東芝はNANDフラッシュメモリ、富士通は最先端ロジックを選択した。いずれの選択にもそれなりの理由があり、成功を期待し、成功のために努力した。
前編で説明したように、富士通は90nm以下の最先端ロジック半導体に注力し、世界最大級の生産能力を実現すべく、巨額の設備投資を敢行した。しかし当初の期待通りには売り上げは拡大せず、重い償却負担によって多額の赤字を計上してしまう。2006年度(2007年3月期)の後半には、生産能力の拡大ペースを落とすことを決め、設備投資の償却負担増加を抑えようとした。
2007年度:半導体事業再構築の動きが活発化
そして2007年度(2008年3月期)に入ると、半導体事業を再構築する動きが活発になる。始めは営業態勢の強化である。2007年8月に電子デバイスの販売会社である「富士通デバイス株式会社」を完全子会社化し、続く同年10月には富士通本体の電子デバイス販売部門を分離して富士通デバイスと統合し、新会社「富士通エレクトロニクス株式会社」を設立した。そして2008年1月には、富士通本体から半導体事業部門(販売部門を除いた全部門)を分離する方針を発表した。同年3月21日には半導体子会社「富士通マイクロエレクトロニクス株式会社」が発足する。そして富士通エレクトロニクスは、富士通本体の子会社から、富士通マイクロエレクトロニクスの子会社となった。
「富士通マイクロエレクトロニクス」という名称は、富士通がIBMを常に意識している企業であることを考えると、興味深い。IBMの半導体部門は「IBM Microelectronics(マイクロエレクトロニクス)」という名称だからだ。
それはともかく、富士通マイクロエレクトロニクスの設立目的は、迅速かつタイムリーな経営判断を可能にするとともに、経営の自由度を高めることである。その象徴とも言えるのが経営トップの人事で、代表取締役社長の小野敏彦氏は富士通本体の代表副社長を兼務し、親会社である富士通に大きな影響力を有していた。取締役副社長の藤井滋氏は販売会社である富士通エレクトロニクスの代表取締役社長を兼務しており、設計・開発・製造部門と販売部門が密接に連携をとれるように仕組まれていた。小野氏、藤井氏はいずれも半導体事業の経験が豊富なベテランである。100%子会社ではあるが、親会社の富士通と対等にやりあえるような力関係を伺わせた。
2008年度:突然のトップ交代とリーマン・ショックで巨額の損失
しかし、富士通マイクロエレクトロニクスの新体制はわずか3週間で崩壊を始める。4月8日に小野敏彦氏が社長を辞任したのだ。後任で社長に昇格したのは取締役(非常勤)の岡田晴基氏である。岡田氏は購買部門の経験が長く、半導体部門の経験はなかった。言い方は悪いが、半導体ビジネスについて素人とも思える人間を社長に据える人ことは当時、首を傾げざるを得なかった。およそ半年後の10月29日には、販売部門である富士通エレクトロニクスの社長が藤井氏から、小原恒明氏に交代する。小原氏は営業部門の経験は長いものの、半導体営業の経験はない。
2008年9月には、リーマン・ショックに代表される世界的な金融危機と急激な景気後退が起こる。半導体産業も景気後退の大波に巻き込まれた。富士通に限らず、ほとんどの半導体ベンダーが急激な受注減に見舞われた。2008年度(2009年3月期)における富士通の電子デバイス事業の売上高は前年比26.2%減の5,876億円。営業損益は赤字で、損失額は719億円に達した。半導体の売上高は前年比23.9%減の3,903億円、営業赤字はおよそ600億円と惨憺たる状態に陥った。
急激な売り上げの減少を受け、2009年1月30日には半導体製造ライン(前工程ライン)の削減を発表する。富士通の半導体グループは当時、6インチ(150mmウェハ)ラインを3本、8インチ(200mmウェハ)ラインを4本、12インチ(300mmウェハ)ラインを2本、有していた。そこから2009年度末(2010年3月)までに6インチラインと8インチラインをそれぞれ1本ずつ、削減するというものだ。さらに、三重工場の2本目の12インチライン(第2棟)を2008年度に減損処理した。減損処理による特別損失額は499億円に上る。
2009年度:先端プロセスの量産から撤退
そして2009年度(2010年3月期)には、半導体の事業戦略を大きく変更する。次世代の先端ロジック半導体を自社工場で大量生産する方針を取りやめた。半導体製造請け負い企業(ファウンダリ)を活用して生産能力を維持する。具体的には、40nm以降の先端ロジック半導体の製造を最大手ファウンダリである台湾のTSMCに委託する。自社工場での製造は、45nmまでの半導体とする。そして28nm以降の次々世代半導体開発では、単独での開発をとりやめ、ファウンダリのTSMCと共同開発していく。
自社工場による量産とパートナー企業の活用というこれまでの戦略「New IDM」に代わる、新しい戦略を富士通は「FML型Fab-lite」と呼んでいた。ここで「FML」とは富士通マイクロエレクトロニクスの略称である。Fab-liteとは「ファブライト」と呼ばれ、自社工場とファウンダリを使い分けることで先端半導体製造の投資を削減したり、需要の変化に素早く対応したり、といった製造方針を指す。最先端の微細加工を駆使する半導体製造設備への投資負担が重くなってきたこと、自社工場では一定以上の稼働率を維持しないと資産償却負担によって営業収支が悪化する、といった課題の解決策としてファブライトを採用する半導体メーカーが増えていた。
また製品開発では、これまで供給していた主要な20種類の製品を14種類に絞りこみ、残り6種類の製品開発を休止することを決めた。製品開発を継続するのは「将来の成長が見込める領域」、「成長と利益を両立させる領域」、「継続的な利益が見込める領域」の3分野のどれかに属する製品とした。また新規事業として化合物半導体事業、具体的にはパワーデバイス用窒化ガリウム(GaN)半導体事業に参入すると決めた。このパワーデバイス事業は売り上げゼロの状態から、4年後の2013年には売り上げ100億円、6年後の2015年には同300億円を目標とする、きわめて野心的な計画である。
2010年度~2011年度:ARM CPUコアのマイコンを製品化
半導体を含む電子デバイス事業の業績は、2009年度(2010年3月期)の前半には回復に向かい、後半には四半期業績が営業黒字に転換する。そして2010年度(2011年3月期)には、すべての四半期で営業黒字を出す。また、損益分岐点となる売上高が下がる。構造改革による経費の削減と、受注の上向きが重なった結果の黒字だった。
2010年度で大きな動きは、マイコンのCPUコアを独自コア路線から、ARM CPUコアへと変更したことだろう。汎用マイコン用CPUコア「Cortex-M3」を採用した32bitマイコンの新シリーズ「FM3」を2010年11月に発表した。車載用マイコン以外の32bitマイコンはすべてFM3シリーズでまかなうというきわめて積極的な製品展開を表明した。その表明通り、11月発表の44品種に続き、2011年4月には第2弾として52品種を製品化し、同年9月には第3弾として64製品を発表した。2012年1月には、第4弾として210品種もの新製品を発表する。
しかし2011年3月に発生した東日本大震災の影響により、2011年度(2012年3月期)の電子デバイス事業は、第1四半期から営業赤字で始まってしまう。その影響が抜けきらない段階でタイの大洪水により、再び需要が低下する。このため、2011年度に過去最高益を達成するどころか、同年度の営業損益は101億円の赤字に転落してしまう。
2012年度:生産部門の売却でファブライトを深化
そして2012年度に入ると、半導体の生産能力を一段と削減する動きが活発になる。半導体製造の前工程では岩手工場を車載電装品大手メーカーのデンソーに売却し、後工程では後工程子会社である富士通インテグレーテッドマイクロテクノロジ(FIM)のすべての工場を、後工程受託企業のジェイデバイスに売却した。
事業再編成の矛先は製造部門にとどまらない。2013年2月には、システムLSI事業の設計開発部門を分離し、パナソニックのシステムLSI設計開発部門と統合して合弁会社を設立することで、親会社の富士通とパナソニックが検討を始めたことを発表する。ここに至ると、富士通セミコンダクター単体の判断ではなく、親会社である富士通が事業再編に積極的に乗り出してきていることが見て取れるようになる。
同じ2月7日に富士通と富士通セミコンダクターが共同で発表した「事業再編成の方針」によると、300mm(12インチ)ウェハラインを有する三重工場と、マイコン・アナログ事業部門でそれぞれ売却先を探していることが明確になった。
2013年度:本格化する事業譲渡
2013年2月7日に発表された半導体事業再編成の方針に基づき、2013年4月以降は、人員削減と事業譲渡の動きが活発化する。4月中旬には2,000名規模の早期退職を募集した。続く4月末には、マイコン・アナログ事業をNOR型フラッシュメモリ大手メーカーのSpansionに売却することを発表する。この売却によって約1,000名の従業員がSpansionに転籍した。そして11月には窒化ガリウム(GaN)パワーデバイス事業を米Transphormとの合弁会社に移管する。2009年8月に発表された新事業のGaN事業からは実質、撤退することになる。
2014年度前半:事業分割をさらに押し進める
2013年2月7日に発表され、半導体業界はもちろんのこと、国内外の注目を集めた富士通とパナソニックのシステムLSI事業統合会社(新会社)は、1年後の2014年2月になっても、基本合意に達しなかった。両社と日本政策投資銀行が基本合意に至るのは、2014年4月23日のことである。新会社設立契約の締結時期は2014年第1四半期、新会社の設立時期は2014年度第3四半期と予定された。
2014年7月31日に富士通と富士通セミコンダクターは、半導体事業の再編成方針を改めて発表した。それは事業分割と分社化をさらに押し進めるものだった。システムLSI事業の分割はすでに説明したが、7月31日に設立契約を締結したことが発表された。
7月31日の発表では、生産部門をすべて2014年第3四半期に分社化することが示された。三重工場の300mm前工程ラインは「三重ファウンドリ新会社(仮称)」となり、会津工場の150mm前工程ラインと三重工場の200mmライン、FSET(富士通セミコンダクターテクノロジ)の200mmラインはまとめて「会津ファウンドリ新会社(仮称)」となる。そして会津ファウンドリ新会社は統括会社と、200mmラインの子会社、150mmラインの子会社で構成される。
これらの分社化はもはや、独立を促すのではなく、売却ないしは譲渡を容易にするための組織変更に見えてしまう。食肉を部位ごとに切り売りしやすくするために、あらかじめバラしておくような印象を受ける。
2014年度後半以降:半導体商社の性格が強まる富士通の半導体事業
そして富士通セミコンダクター本体に残るのは、システムメモリ事業だけになる。こうなると富士通セミコンダクターという企業が存続している意義が、あまり感じられない。事業の主要部分を占めるのは、販売会社である富士通エレクトロニクスになってしまうからだ。しかも富士通エレクトロニクスは富士通ブランドの半導体だけでなく、Spansionなどの外資系半導体製品や、富士通グループの電子部品も扱う。総合電子部品商社のような企業なのである。
顧客が半導体や電子部品などを調達しようとするとき、最初に接するのは富士通エレクトロニクスである。この窓口は2007年度の会社設立以降、ほとんど変化していない。日本の顧客から見ると安心できるとも言える。
そうなると考えられるのは、富士通エレクトロニクスが富士通セミコンダクターの100%子会社ではなく、富士通本体の100%子会社に変わることだ。そして富士通エレクトロニクスの子会社として、システムメモリ事業会社やファウンダリ会社などが存続するというシナリオである。いずれにせよ、さらなる再編成は避けられないだろう。