福田昭のセミコン業界最前線
富士通の電子デバイス事業、改革から解体へ(前編)
(2014/9/24 06:00)
富士通の電子デバイス事業はかつて、大きくは3つの事業で成立していた。「半導体」、「フラットパネルディスプレイ」、「電子部品」である。といっても1980年代は「半導体」と「電子部品」が主な事業だった。1980年代後半は「ASICの富士通」とも呼ばれており、ASIC(エイシック:セミカスタム半導体)とDRAMが半導体事業の柱だった。また、1968年からプラズマディスプレイパネルの開発を始めており、1980年代にも開発を継続していた。
1990年代:電子デバイス事業
1990年代前半には、大型液晶ディスプレイが新たな成長事業として有望視されるようになる。当面の応用はPC用ディスプレイ、将来の応用は大型TV用ディスプレイという二大市場を狙ったものである。富士通に限らず、日立製作所や三菱電機、NEC、東芝、パナソニック、シャープなどが大型液晶パネル事業に参入していった。また、1992年に富士通が21型の大型プラズマディスプレイを開発するなど、プラズマディスプレイが大型TV用に注目を集めた。プラズマディスプレイ事業には日立製作所やパナソニック、パイオニアなども参入しており、国内のフラットパネルディスプレイ産業は活気に溢れていた。
しかし1990年代後半に入ると、日本の電子デバイス事業を取り巻く環境は厳しくなってくる。DRAM事業の衰退がその始まりだろう。1990年代後半に、日本と米国のDRAM事業は韓国のDRAMベンダーに押されて赤字を出し続けるようになってしまう。1998年には米国のTexas InstrumentsとMotorola(現在のFreescale Semiconductor)、日本の沖電気工業(現在のラピスセミコンダクタ)が汎用DRAM事業から撤退する。1999年には富士通が汎用DRAM事業から撤退し、2001年には東芝も汎用DRAM事業から手を引いた。一方でNECと日立製作所はDRAM合弁企業「NEC日立メモリ」を2000年4月に設立する。NEC日立メモリはその後に社名を「エルピーダメモリ」と変更し、2002年4月には三菱電機のDRAM事業を吸収した。
1990年代後半は、半導体メモリ事業の軸足がDRAM事業からフラッシュメモリ事業へと傾いた時代でもあった。フラッシュメモリといっても現在の主流であるNAND型ではなく、NOR型のフラッシュメモリである。1985年にDRAM事業から撤退した米Intelは、1990年代にNOR型フラッシュメモリで半導体メモリベンダーとして復活した。米国企業ではAMDがNOR型フラッシュメモリに熱心であり、日本企業では東芝、日立製作所、三菱電機、NECなどがNOR型フラッシュメモリを手掛けた。富士通もNOR型フラッシュメモリに参入していた。
2000年代前半:フラッシュメモリ合弁とフラットパネルからの撤退
しかし2000年代に入ると、フラッシュメモリ市場は競争が激化し、価格競争が深刻化する。競合優位を確保するために富士通が選んだのは、AMDとのフラッシュメモリ合弁企業の設立である。元々、富士通はAMDと合弁でフラッシュメモリの生産子会社を1993年に設立していた。提携を事業全体にまで拡大し、2003年に合弁会社「FASL」(後のSpansion)を設立する。
当時の富士通は、2001年に起きたIT業界と半導体業界の急激な景気後退の最中にあり、2002年には大規模な事業構造改革に着手していた。富士通の基幹事業は当時、コンピュータ、通信、電子デバイスの3事業であり、半導体を含む電子デバイス事業も当然ながら、構造改革の対象となっていた。
2002年当時に富士通の電子デバイス事業は、かなり厳しい状況にあった。先ほど述べた3つの事業、「半導体」、「フラットパネルディスプレイ」、「電子部品」の中で営業利益を上げていたのは電子部品事業だけで、半導体とフラットパネルディスプレイは赤字を計上していた。半導体事業は大別するとロジック部門とシステムメモリ部門、フラットパネルディスプレイ事業は大別すると液晶ディスプレイ部門とプラズマディスプレイ部門に分けられる。合計4つの部門のいずれもが営業赤字という厳しい状態である。電子デバイス事業全体では、2001年度(2002年3月期)と2002年度(2003年3月期)の2年連続で営業赤字を計上していた。
大型フラットパネルディスプレイ市場では、韓国のエレクトロニクス大手が液晶ディスプレイとプラズマディスプレイに参入したほか、台湾で大型液晶ディスプレイの設計製造を手がける企業が相次いで誕生した。韓国企業と台湾企業による値下げ競争に巻き込まれた日本企業は、例外なく苦境に陥った。日本企業は当初、国内企業同士の事業統合(合弁会社の設立)によるスケールメリットで価格競争に対抗しようとしたものの赤字が続いた。合弁から手を引く企業が現れたり、あるいは、事業そのものを別の日本企業に譲渡することもあった。
富士通はプラズマディスプレイ事業では合弁から撤退という道を辿った。1999年4月に日立製作所と合弁(出資比率は50%ずつ)で「富士通日立プラズマディスプレイ株式会社」を設立したものの、2005年2月2日には株式の30.1%と富士通の知的財産権を日立製作所に譲渡することで日立と基本合意したと発表する。富士通はこうしてプラズマパネル事業から撤退した。その後、2008年4月に富士通が残りの全株式を日立に譲渡することに伴い、富士通日立プラズマディスプレイは「日立プラズマディスプレイ」に社名を変更した。さらに同年9月18日に日立は、日立プラズマディスプレイでのパネル生産を2009年3月末をもって休止し、プラズマTV用パネルはパナソニックからの調達に切り換えることを発表した。
液晶ディスプレイ事業では、富士通は2005年2月7日にシャープに液晶ディスプレイ事業を譲渡することで同社と基本合意したこと、同日に液晶パネル製造装置事業をアルバックに譲渡することで同社と基本合意したことを、それぞれ発表した。この基本合意により、富士通は液晶ディスプレイ事業から撤退した。
これらの構造改革と事業環境の好転により、富士通の電子デバイス事業は2003年度(2004年3月期)から営業黒字に転換する。
2004年:先端ロジックの事業拡大にリソースを集中
富士通はフラッシュメモリ事業の合弁による分社化、フラットパネルディスプレイ事業からの撤退による事業縮小のほかにも、電子デバイス事業ではいくつかの改革を実行した。例えば、半導体製造の後工程が4つの子会社に分かれていたのを、1社に統合した。
そして事業拡大の牽引役には、先端ロジック半導体を選んだ。先端プロセスの開発と量産規模の拡大により、世界に先駆けて最先端の大規模ロジック半導体、言い換えるとシステムLSIやSoC(System on a Chip)、ASSP(特定用途向け半導体製品)などを提供する、という戦略である。その製造基盤となるのが三重工場に建設する前工程ラインで、直径300mmの大口径ウェハを当時としては最先端の90nmプロセス(将来は次世代の65nmプロセスに移行)で処理するというものだった。
2004年:事業モデル「New IDM」を前面に押し出す
このとき富士通が打ち出したのが「New IDM」という事業モデルである。半導体の事業モデルは大別すると「垂直統合型(IDM:Integrated Device Manufacturing)」と「水平分業型(Horizontal Specialization)」に分かれる。
垂直統合型の事業モデルは、半導体製品を作り出す工程の全て(あるいは大半)を自社でまかなう事業モデルである。一般的には半導体の設計機能と製造機能の両方を備える事業モデルを指す。例えばIntelは、垂直統合型事業モデルを代表する半導体メーカーである。垂直統合型の利点には、設計と製造の緊密な連携により高性能な半導体チップを早期に開発しやすい点などがある。
水平事業型の事業モデルは、半導体製品を作り出す工程の一部を専門とする事業モデルである。半導体の設計を専門とする企業、半導体の製造(前工程)を専門とする企業、半導体の製造(後工程)を専門とする企業などがある。水平分業型の利点には、専門分野に研究開発投資や設備投資などを集中できる、製造専門企業では量産規模の大きさによる製造コストの削減が可能などが挙げられる。
半導体産業では、元々は垂直統合型の事業モデルが主流だった。ところが、製造部門を持たない半導体ベンダー(「ファブレス」と呼ばれる)や製造部門に特化した企業(「ファウンダリ」と呼ばれる)が1990年代に急速な成長を遂げたことから、水平分業型の事業モデルがもてはやされることとなった。
富士通の「New IDM」は垂直統合型の改良モデルと呼べる事業モデルである。顧客(セットメーカー)から見ると富士通は半導体事業の全ての機能を備えたベンダーであり、いわゆるワンストップソリューションを提供してくれる。富士通は、専門化した企業(設計企業=デザインハウス、ファウンダリなど)とパートナーシップを組むことで最適なソリューションを提供する。いわば垂直統合と水平分業のいいとこ取りのような事業モデルである。
2005年~2006年:「攻め」の事業戦略で邁進
富士通が2004年に打ち出した「最先端ロジック(システムLSI)への注力」と「改良型垂直統合モデル」、「量産工場の新規建設」は、事業戦略としては「攻め」の色彩が強い。新しい事業を創り出そうとする気概を感じる。結果としてはあまり上手くいかなかったのだが、「守り」ではなく「攻め」であったことは評価したい。
富士通の新たな事業戦略が成功するかどうかを左右するのは、三重工場に新設した300mmラインが本格的に稼働を始める2005年9月以降である。300mmラインの行方(稼働率)が2005年度の下半期、そして2006年度以降の業績に良くも悪くも大きく影響する。もちろん富士通としては良い影響を期待していたし、そうなるよう努力をしていた。
例えば2006年2月7日に富士通が開催した電子デバイス事業戦略の説明会では、全世界で20社を超える顧客(説明会では「パートナー」と呼んでいた)を最先端ロジック分野で獲得済みであると説明している。ここで言う顧客とはセットメーカーに限らない。富士通に半導体製造を発注する半導体ベンダー(ファブレスあるいはファブライトのベンダー)が数多く含まれる。
また富士通ブランドの製品では、画像処理分野に向けたASSP(特定用途向け半導体製品)を積極的に投入していくと説明した。画像処理は大規模かつ高度なロジック技術を必要としており、富士通が得意とする分野でもある。
そして2004年に打ち出した「最先端ロジックへの注力」を、2005年~2006年には積極的に進めることとした。三重工場の300mmラインに対する設備投資を当初計画から前倒しするとともに、新しいライン(「第2棟」と呼称)を建設すると2006年1月11日に発表した。2年後の2008年3月には当初計画に比べて生産能力を6割強もアップするという、野心的な計画である。
2006年~2007年:利益の重視へと軌道を修正
しかし、半導体の売上高は当初の目論み通りには伸びなかった。2005年度(2006年3月期)の半導体売上高4,601億円に対し、2006年度(2007年3月期)の半導体売上高は2006年10月26日時点で5,100億円を予想していたものの、2007年1月31日には市況の悪化により売上高予想を4,600億円に下方修正する(実績は4,735億円)。そして電子デバイス事業全体の営業損益は300億円の黒字から、200億円の黒字へと下方修正した(実績値は193億円)。
電子デバイス事業は2006年度の時点で、半導体(富士通は「LSI」と呼称)と電子部品で構成されていた。半導体の営業収支と電子部品の営業収支は公表していないのだが、売り上げの推移からは半導体が大きな赤字を出していることが見て取れる。電子部品が売り上げを500億円強増やしているのに対し、半導体は売り上げがほぼ同じ。それなのに電子デバイス事業の営業黒字は大幅に減少している。電子部品事業は経費が大きく増加する要因が見当たらない。これに対し、半導体事業は最先端ロジック製造ラインへの設備投資による償却負担が重くのしかかる。そこで半導体事業における収支の改善が大きな課題となってきた。
この結果、2007年4月に開催された電子デバイス事業戦略の説明会では、2006年2月の説明会で示した先端ロジックの生産能力増強は当面、見送ると表明した。需要の推移を見守りつつ、生産能力を随時見直していく。生産能力の拡大を前倒しで加速すると謳ってからわずかに1年で急ブレーキをかけた。
生産能力拡大の前倒しというアクセルを踏んでから、ブレーキを踏み直すまでには、ある程度の時間がかかる。そのせいか、2006年~2007年にかけての富士通の半導体事業には、ちぐはぐな動きが感じられた。その代表例が、Spansionの製造ライン買収だろう。基盤ロジック(130nm以上の従来プロセスによる半導体)の生産能力強化を目的として2006年9月に買収を発表した案件なのだが、2007年4月の時点で決断が可能だとしたら(現実には手遅れなのだが)、買収を取りやめていた可能性が高い。
2007年度(2008年3月期)における電子デバイス事業の売上高は7,967億円で前年比4.4%増、半導体の売上高は5,088億円で前年比7.5%増だった。しかし電子デバイス事業の営業利益は182億円。前年比4.2%減である。売り上げは増えているのに利益が減っている。この状況を打開するため、半導体事業を分離して子会社化することを富士通は2008年1月に発表した。