■山田祥平のRe:config.sys■
前回は、“自炊”した書籍を読むために、PCを縦に抱えて使うための工夫について紹介した。ただ、PDFを読むというだけなら、やはり、PCに加えて、iPadプラットフォームの魅力は捨てがたいものがある。そこで、今回は、PDFリーダーとしてのiPadとPCの役割分担を試みながら、書籍の自炊について考えてみたい。
●一冊の読書に専念するならiPadiPadでPDFを読むためには、いろいろな方法があるが、個人的に落ち着いたのが、Bookmanというアプリと、もう1つ、アップル御用達ともいえるiBooksなのだが、やはり、一長一短で、どちらとも結論づけることができず、まだ常用を迷っている段階だ。
ぼくが普段持ち歩いているモバイルノートPCはパナソニックのLet'snote R8なので、10.4型のスクエア液晶だ。光沢画面ではないが、表示そのものに関してはiPadと、それほど遜色があるわけではない。むしろ反射の点で見やすいシーンも多い。
しかも、自由度という点ではPCが使いやすく、Webを見たり、メールを読み書きしたり、メモをとったりといったほかの作業と併用するには、絶対にiPadよりもPCだと実感している。
だが、本を読むことに専念するならiPadだ。なんといっても、フリックやタップでページを送ったり、フリックでスクロールさせたり、ピンチインやピンチアウトでページの拡大縮小ができるのはうれしい。立ったまま使うにもあまり不自由がない。
PCでもiPadでも、画面サイズ的にはちょっと小さく、細かい文字の部分をちょっと拡大して読みたいようなときには、Adobe ReaderのGUIではまどろっこしい。また、原本のサイズにもよるのだが、この画面サイズでの見開き表示はかなりつらく、拡大と縮小を繰り返すことになる。どっちにしても、紙の本というのは、1ページ単位ではなく、見開きで内容をとらえることに慣れきっている自分のまなざしに気がつく。きっと雑誌や書籍を編集装丁する側も、それを前提に考えているはずだ。
ちなみに、Adobe Readerでは、単一のショートカットでツールを使用可能にするように設定しておけば、Hでハンド、Zでマーキーズームを使えるので、iPadと似たような感じにはできるが、使い勝手は圧倒的にiPadが上だ。
●異なる本を行ったり来たりはPCが有利一冊の本を、最初のページから最後のページまで順に読み進める。こういうタイプの読書であればiPadは秀逸な電子ブックリーダーといえる。雑誌などをパラパラとめくって、おもしろそうなページを探すような場合もそうかもしれない。でも、人は読書に際してそういう読み方ばかりをするわけじゃない。たとえば、旅行にでかけるために、複数のガイドブックを購入し、同じ名所旧跡のことを、異なるガイドブックでチェックするといった使い方を考えてみる。資料を読んで、リファレンスで資料内の単語について調べるような使い方もある。
これはもう、タスクバーのボタン1つでアクティブウィンドウを切り替えることができるPCの使い勝手が圧倒的に優れている。iBooksでもBookmanでも、他の本に切り替えるためには、いったんライブラリ的な一覧表示に戻り、そこで、切り替えたい本を選ばなければならないからだ。数冊しかライブラリになければそれでもいいのだが、たくさんあると、今、読んでいる本がどれだか迷ってしまい、他の本をタップして開いてしまったりする。これは自炊云々とは関係なく、いわゆる電子ブックでも同様だ。
行ったり来たりする本が2冊の場合なら、片方をiBooksで開き、もう片方をBookmanで開いておいて、ホーム画面にいったんもどって切り替えるという方法もある。実際に試してみたが、まあ、この方が切り替えはスムーズなのだが、今度は、微妙なUIの違いが気になって、アプリを行き来するたびに、誤操作を頻発してしまう。
もっともやっかいに思うのは、iBooksとBookmanで、ライブラリを共有することができない点だ。貧弱なストレージ容量なのに、二重にPDFファイルをコピーしておく必要があるのだ。1つや2つならともかく、ファイルの数が少し増えてくると、ストレージを圧迫する可能性も出てくる。
それでも、iPadは、貧弱なプロセッサで、よくぞここまでというほど、PDFをうまくハンドルしてくれる。特にBookmanは、PDF全体を最初の読み込み時にバックグラウンドで最適化してくれるため、2回目以降に開くときには、ページをめくる操作についても、あまり待たされるという印象を持たなくて済む。iBooksは、プログレッシブ表示というか、最初ザラザラした表示で、最終的にきちんとつじつまを合わせるという方法で、待たされ感を抑制しているが、この時間にこそイライラを感じることもある。特に、PDFの品質が高ければ高いほどストレスは高まる。
こうした表示に関するもたつきや、開いている本の切り替え、他のアプリケーションとの連携などは、PCであれば、何の問題もない。パフォーマンスの低いネットブックでも不満を感じることはないだろう。それに、当たり前の話だが、ファイルも共通で、任意の複数のアプリケーションで、それらのファイルを共有できる。
●バッテリの存在を忘れられるうれしさとこれからの読むコンテンツiPadがすごいと思うのは、なんといっても、そのバッテリの持ちだ。これはもうスゴイのひとことで、ほとんど減らないという実感で使っていられる。何よりもの安心感だ。
PCがたかだか数時間しか使えないことを考えると、その差は歴然だ。iPadは、今日、けっこうな時間使っても、次の日のための充電をしておこうという気が起きない。たとえば、旅行ガイドを数冊入れておいて、旅先で参照するとか、移動中にたまっている資料や本に目を通すというような使い方では、1週間に一度くらいの充電で十分じゃないかと思うくらいだ。
これは、何にも優るiPadの長所ではないかと思う。おそらくは、本体のかなりの割合をバッテリに割いているのであろうから、バッテリは保って当たり前なのだが、本体重量をある程度重くなることを覚悟の上で、こういう仕様にしたのは、それはそれですごいことだと評価したい。電子ブックリーダーにとって、重要なことは、その存在を忘れるくらいに保つバッテリなのだと痛感する。これは、汎用機としてのPCは逆立ちしてもかなわない。
普段使っているLet'snoteとiPadの重量差は約200g。それでも、結局のところ、本を読むのにiPadなのか、モバイルノートPCなのかという点で、結論は出ないままだ。それは、電子コンテンツの最終的なカタチが、まだ混沌としているからなのだと思う。自炊は過渡期における応急手段に過ぎないのだ。
それにしても、本を自炊するたびに感じるのは、なぜ、こうしたコンテンツが標準的なフォーマットで流通していないのかという事実に対する苛立ちだ。音楽だってレガシーなCDというフォーマットがあったからこそ、ここまで電子化がうまく進んだ。でも、読むコンテンツにはまだそれがない。これらが、いわゆる電子ブックとして供給されればどれほど便利だろうと思う一方で、それは、オフラインで読めるウェブページといったいどう違うのかという疑問も起こるし、それで意味があるのかという気もする。
読むコンテンツで重要なことは、人それぞれが目的に応じて人それぞれの速度で読めることだ。そこが音楽や映像など時間軸を持つコンテンツと大きく異なる点だ。その点が損なわれてしまっては読むコンテンツである意味がない。書籍を電子化することが大事なのか、コンテンツを電子化した結果がかつての書籍のようになることを優先すべきなのか。そのあたりを、ここで、もう一度きちんと考えるべきだろう。
一億総マルチメディア化はもうたくさんだ。そして、自炊は決して最終手段ではない。それではたまらない。必要悪だといってもいい。しないで済むにこしたことはないのだから。