山田祥平のRe:config.sys

スマホが奪われる役割

 スマートフォンは踊り場といわれつつもまだまだ売れているし、これからも売れ続けるだろう。それは、この電子デバイスの時代になっても鉛筆やボールペン、紙の手帳が存在し続けているのと同じことだ。コンピュータが紙を駆逐するどころか、印刷が増えてかえって消費される枚数が増えたという側面もある。

 だが、次は、スマートフォンが役割を奪われる番でもある。

カメラとスマホ

 カメラの発表会でもこんなにカメラの話はしないんじゃないかというくらいに、最近のスマートフォンはカメラ機能にフォーカスしている。今、MWC取材のためにスペイン・バルセロナに来ているが、このイベントにあわせて発表されたGalaxy S9/S9+やASUSのZenFon 5なども、そのカメラの優位を鼓舞したものだ。

 PCがさまざまな専用デバイスの役割を奪ってきたのはご存じのとおりだが、各社の努力もあってそれなりに差別化はできてきたように感じている。

 だが、スマートフォンのように画面1枚の板切れ的なデバイスで、物理的なボタン類も最小限の機器にとって、その製品を差別化するのは本当にたいへんだ。とくに、Android OSという点ではどのベンダーも同じなわけで、これはもう、Windowsが稼働するPCがいかに苦労して差別化にチャレンジしてきたがが想像できるというものだ。

 カメラにフォーカスしていたスマートフォンは今、そのカメラ機能をAIにゆだねるようになってきている。AIとはなにかという定義はさておき、ある種のインテリジェンスを使って写真をよりよさそうなものに仕上げるわけだ。

 そこではもう記録という考え方は希薄で、どちらかといえば記憶である。どんな光景でも人間はより美しかったものとして記憶することができる。もちろんその逆もあるが、スマートフォンのカメラが前者を選ぶのは当たり前だ。

 人間の五感、つまり、視覚、触覚、嗅覚、味覚、聴覚のうち、最初にスマートフォンが代替しようとしたのは聴覚だ。電波を使って聞こえるはずのないところにある音を人間の耳に届けるし、こちらの声を遠くの相手に届けることができるようになった。

 次は視覚で、モバイルネットワーク経由で動画を楽しんだりする一方で、自分のまなざしを代替し、それを記憶する。コンパクトデジタルカメラもその方向性をめざしていたが、カシオのQVー10の登場から、20年ちょっとでスマートフォンに役割を奪われてしまった感がある。

 今のコンパクトデジカメがスマートフォンのカメラ機能に勝てるのは物理的な撮像素子のサイズと、しっかりしたレンズくらいのものだろう。インテリジェンスでは圧倒的にスマートフォンのカメラが勝っている。

 いや、スマートフォンの極小イメージセンサーや、極度に進化したカメラモジュール、レンズ群は、大きなサイズのレンズでは実現不可能なF値を可能にし、人間の瞳よりも暗所に強い視覚を作り出している。

 どんなに暗闇に目が慣れても人間には見えないものが、スマートフォンのレンズを通せば見えてしまう。これはこれですごいことだ。ちょっと前ならノイズまみれになっていたはずだが、今は、これもうまい具合にノイズリダクションが施され、つじつまのあった光景が記憶される。

 残りの触覚や嗅覚、味覚をスマートフォンで代替するのはまだ難しい。だが、視覚はまだまだ進化しそうだ。

 スマートフォンのレンズを通すことで、本来は見えるはずのないものが見えて、そしてそれを記憶できるわけだ。簡単な例でいえば、海外のレストランでメニューをスマートフォンで写すと、日本語のメニューとして見えるといったことがある。

 また、高台から街を見下ろしたときに、著名な観光地や建物の名前がわかったりもする。これはARのカテゴリに分類されることもあるが、カメラの機能の1つと考えたっていい。

コミュニケーションのための道具

 本当はこうしたインテリジェンス処理はPCが引き受けることだったのにと思うことがある。画像処理にしてもカメラで記録した画像を、あれこれレタッチしたり、OCR処理したり、類似画像からオブジェクト認識したりといったことはPCの世界ではプロフェッショナルが取り組んできたことだし、今もそれは同様だ。

 でも、スマートフォンは、それを一般消費者の手の届くところに引き下げた。バッテリというモバイル機器の宿命的なデバイスへのインパクトも最小限に抑えている。その上で、自分がどういう顔をしているかよりも、ビューティモードを使ってどういう顔に見せたいかのほうが大事という気持ちのほうがコミュニケーションを促進するということだ。

 個人的にはAIを搭載しているスマートフォンというのは、どうにもうさんくさく感じているのが正直なところで、ニューロプロセッサで特殊な処理をしているのはわかっていても、いわゆるビッグデータがスマートフォンのなかに格納されているとは考えにくいし、もしそうであってもビッグというにはおこがましいように思う。

 ただ、データの在処がクラウドでも、ローカルにあるのと変わらないくらいのレスポンスで参照できるのなら話は別だ。5G時代のモバイルネットワークはそういうことを現実のものにするのだろう。

MWCを終えて

 今年(2018年)のMWCはモノの展示会というよりも、考え方の展示会に近いものを感じた。

 もちろん新しいモノは会場にあふれてはいるのだが、その背景と基盤、それを支える技術の提示であって、訪れた出席者は、それでどのようなマネタイズができるのかを、これから考えなければならない。それにいちはやく気がついたものが未来の勝利を手に入れる。賢いスマートフォンのレンズだって、そんな先までは見せてくれない。それは五感を超えた第六感だからだ。

 こういう時代をアッというまに駆け抜けたスマートフォンというデバイスは、すでにコモディティと化している。あらゆるものの役割を奪って奪って奪いまくって、長方形の板のなかに凝縮してしまった高度なコモディティだ。

 次はそのスマートフォンの役割を奪う存在を捻出しなければならない。そのくらい人類は欲張りでいい。一筋縄ではいかなそうだが、まあ、その登場までくらいはきっと生きているだろう。

 ちなみに、今年のMWCの会場は、Wi-Fiもモバイルネットワークも快適で、とくに、不自由を感じることはなかった。バックボーンもしっかりしているのだろうし、Wi-Fiの運用ノウハウも蓄積されてきているのだろう。どこかの国の役に立たないWi-Fiに悩まされていることを思うと、さすがだと思う。ホテルのWi-Fiも安定していたので助かった。おかげで使ったモバイルネットワークのパケットは会期中1GBに満たなかった。

 その一方でBluetoothはもうちょっとがんばってほしいと感じた。つながれば支障なくデータは流れるのだが、いったん切れた相手と再接続するのに異様に時間がかかる。確認するとおびただしい数のBluetooth端末が羅列されるので、仕方がないと言えば仕方がないのだが、近距離無線のにない手としてのBluetoothもモバイルネットワークに役割を奪われるときがくるのだろうか。