山田祥平のRe:config.sys

AI時代のあるある

 この先数年は、AIと5Gがスマートライフの立役者として奮闘する。あらゆる「自動」をAIがサポートし、人間の暮らしを豊かにする。そして、その豊かな暮らしのためにも高速大容量の通信インフラは不可欠だ。

残るパッケージ消えるパッケージ

 ちょうど2000年の暮れ、21世紀を迎える直前に1.6MbpsのADSLサービスが開通し、自宅にブロードバンドインターネットがやってきた。

 そのとき思ったのは、もうすぐレンタルビデオショップはなくなるだろうということだった。VHSテープにせよ、DVDにせよ、そしてBDにしても、そのすべてはネットワーク経由に置き換わると信じていた。

 ところが自宅のインターネットがギガに達した今もレンタルショップは健在だ。音楽にしてもデジタルコンテンツとしての購入よりもCDの実物を手にしないと気が済まないという層が一定数いるそうだ。

 自分自身としてもCDに音質的におよばない音源を似たような価格で購入するのには抵抗があって、今なお、CDのパッケージを購入し続けている。購入したCDをロスレスでリッピングしたらすぐに押し入れに片付けるという有様だが、ハイレゾの「なんちゃって」疑惑を考えると、現時点ではCD音質のロスレスでかまわないと考えている。

 それに、出費に敏感な層は、CDは買わずにレンタルですませるということも多いようだ。もちろんそのほうがコストが低いからだ。今なお、光学ドライブつきのPCが求められるのはそんな背景もあるようだ。

 もっともAKB方式のCD販売のように、CDそのものを購入しないと握手券が入手できないとか選挙に参加できないといった特典目当ての例もある。もちろん、CDジャケットそのものを愛でるという気持ちもわかる。コレクションで満タンの棚を眺めて癒やされるというのはコレクターの性だ。

 それに4K UHDの映画パッケージのように、家庭に入っているネットワークに頼るにはまだ帯域幅に不安のあるようなコンテンツもある。少なくとも今のモバイルネットワークでは無理だし、光回線が入っていても夜の時間帯は数Mbpsまで落ちてしまうようでは話にならない。

 こちらはもしかしたら5Gネットワークが解決してくれるかもしれないが、Qualcommなどの話を聞くかぎり、モバイルネットワークと固定ネットワークの補完関係は未来永劫続くようで、決して置き換わるものではないらしい。

 こうした状況をみると、パッケージというコンテンツの形態はまだ当面残るのではないかと考えるようになった。

 ただ、音楽にしても、コンテンツ制作が真の意味でのハイレゾで行なわれるのが当たり前になり、今のCDの容量でコンテンツを提供するのが物理的に無理になる可能性もある。そのあたりの様子を見ながら、もう少し時間をかけて変わっていくのだろう。

 こうした事情にはAIも5Gも無力なのだ。ある意味でなにも変えることはできない。

考えない人間

 スマートフォンの普及は、それほど美しくないものでもがまんができるという、ある意味で感性の退化、劣化に近い現象を引き起こした。TVで地デジを見るよりも明らかに劣悪な映像コンテンツを延々と見るのが楽しい世代が生まれた。もしかしたら、むしろ、質の低いものを脳内変換で美しいものと認識する新たな能力の誕生とも言える。YouTubeを見はじめたらもう止まらないという世代だ。

 こういうのを目の当たりにすると美しいものが必ずしも正義ではないことを実感してしまう。それにきっと、今、劣悪画質でしか見られないコンテンツも、そのうちAIが丹念に修復しレタッチした高精細コンテンツに生まれ変わらせてくれるだろう。

 そして、それを5Gのネットワーク経由でスマートフォンで見るわけだ。当然スマートフォンは超パーソナルなデバイスだ。いつでもどこでも自分のものであり、チャンネル争いも起こりえない。

 通信が暮らしに与えた大きな変化として、個人的にはAmazonのDash Buttonを挙げたい。毎日の暮らしに継続的に必要な日用品をボタン1つで注文できるのは、あまりに便利で手放せない。毎日、スマートフォンやPCをさわらない日はないのだから、それらを使って注文してもよさそうなもんだが、実際に使ってみるとかなり便利なアイテムだ。

 ただ落とし穴がないわけではない。継続的にDash Buttonで購入している飲料水があるのだが、これまでは2Lボトルが6本入りの箱を2つテープでつないで12本が一度に届いていた。ところが、先日の発注後に届いたものは9本入りの箱に変更されていた。実質的に12本が一度に届いていたのに9本になったわけだ。

 運送会社にとってはあんな重い箱なのに、それをテープでつないで1個扱いというのはどうにも理不尽だったのかもしれない。結果として単価的には変わらないのだが、こうした変更が行なわれる前にAIが検知して知らせてくれるような仕組みもほしいところだ。

AI以前

 もう何十年も納得がいかないでいるユーザー体験として、さまざまなサービスの利用のために住所の入力が必要な場合に、番地部分に全角数字の入力を求められることがある。

 郵便番号を入れれば住所まで補完されるが、その先に番地入れて次に行こうとするとアラートが出る。理屈としては番地は数値ではなく数字であり、日本語の数字はアラビア数字でも全角ということなのだろう。

 こんなことこそ本当はAIが正規化するべきことじゃないか。いや、AI以前の問題だ。その不便が延々と何十年も続いているのはじつに不思議だ。ある種の業界には、そうしなければならない掟でもあるのだろうか。

 理論的には方法論としてわかっていても、それを逐次人間がやるのは非現実的だということはたくさんある。きっとその多くはAIが代替してくれる。その代替分野は時間とともに無限に近く拡大していくだろう。

 その成長は、GoogleアシスタントやAlexaが日に日に賢くなる様子で実感できるし、それがローカルデバイスではなく、クラウド側の進化によって実現できるのはすばらしい。2018年前後に手に入れたスマートスピーカーは、きっと10年経っても古くならず普通に使われ続けているに違いない。

 同じことはスマートフォンのようなパーソナルデバイスでも起こる。キモはやはりネットワークのレイテンシと帯域幅だ。5Gネットワークなどでそこさえ確保できれば、ローカルの処理能力に大きな期待をしなくてもAIの恩恵をストレスなく十二分に得られるようになるだろう。

 その一方で、ハイエンドスマートフォンやPC的なデバイスは、ローカル側で、自律的なAI処理をするようになる。そのきざしはすでに見えはじめている。スマホカメラのビューティモードなどはその典型だ。得られるものはもはや写真ではないのだが、それが写真の当たり前になる。レンズが捉えた光などどうでもいい時代にもなりつつあるということだ。

 カメラの発表会でも、ここまでカメラの説明はしないと思えるようなスマートフォンの発表会に何度も出くわすたびに、時代は変わりつつあるのだと痛感する。