大河原克行の「パソコン業界、東奔西走」

LSI電卓「QT-8D」の生みの親、シャープ佐々木正氏が逝去

1969年に発売した世界初となる MOS-LSI採用の手のひらサイズ電卓「QT-8D」と同製品に搭載された基板。佐々木氏が調達したLSIが搭載されている

 シャープの元副社長であり、非営利活動法人新共創産業技術支援機構(ITAC)の名誉顧問である佐々木正氏が、2018年1月31日 午前1時19分、兵庫県伊丹市の自宅にて、肺炎のため逝去した。享年102歳。

故・佐々木正氏

 1915年(大正4年)5月12日、島根県浜田市に生まれた佐々木氏は、台北第一中学校、台北高校を経て、京都帝国大学(現:京都大学)工学部を卒業。川西機械製作所(のちの神戸工業、現在のデンソーテン)に入社。真空管事業部長を務めた後、取締役を経て、1964年に早川電機工業(現シャープ)に入社。産業機器事業部長として電卓開発を推進。1969年に発売した世界初のMOS-LSIを採用した手のひらサイズ電卓「QT-8D」の開発や、1978年に発売となったパーソナルコンピュータ「MZ-80K」にも関わった。

佐々木氏はパーソナルコンピュータ「MZ-80K」にも関わった

 また、1981年には、ソフトバンクの孫正義氏が米カルフォルニア大学バークレー校在学中に開発した技術をもとにして製品化した音声合成電訳機「IQ-5000」を発売。1977年当時に、孫氏が売り込んだこの技術に1億円を支払い、これが、その後のソフトバンク創業資金になったという話は有名だ。

孫正義氏の技術をもとにして製品化した音声合成電訳機「IQ-5000」

 シャープでは、1969年に54歳で常務取締役、1970年に55歳で代表取締役専務に就任。1983年に68歳で代表取締役副社長を務めた後、1986年には常任顧問、1989年には顧問に就き、同時にソフトバンクの顧問に就任している。

 非営利活動法人新共創産業技術支援機構名誉顧問のほか、公益財団法人双葉電子記念財団名誉理事長、滋慶学園 東京デザインテクノロジーセンター専門学校名誉校長などを務めていた。

 液晶やMOS-LSI、太陽電池といった分野において、世界および日本の先端電子技術の開発に携わり、半導体産業の礎を築き上げた功績などが認められ、勲三等旭日中綬章や藍綬褒章を受章。IEEE 名誉会員、浜田市名誉市民にも選ばれている。

 社内での呼び名は、「ロケット・佐々木」。昨日は大阪、今日は東京にいたかと思うと、その翌日には、米国から電話をかけてくるといったように、まさにロケットのように全世界を飛び回っていたことからついた名称だ。

 同時に、佐々木氏が立ち去った後には、ロケット発射後に巻き起こる煙と気流のように、社内に新たな風が吹き荒れ、残された社員の仕事が忙しくなるとの意味もあったという。そして、シャープのエンジニアたちが、自由に研究を行なう風土をシャープに定着させたのも佐々木氏の功績が大きいと言われる。シャープのエンジニアたちに影響を与え続けた人物だったのだ。

世界初のMOS-LSI採用電卓

 電卓開発においては、1969年に発売した世界初となる MOS-LSI採用の手のひらサイズ電卓「QT-8D」の開発時に、佐々木氏らしいユニークな逸話が残っている。

 1964年に、世界初オールトランジスタ電子式卓上計算機「CS-10A」を発売したシャープだったが、この製品は、「卓上」という呼び方がされていたものの、重量は25kgと大きく、机の上を一杯に取ってしまうような製品だった。

1964年に発売した世界初オールトランジスタ電子式卓上計算機「CS-10A」

 しかも、4,000点もの部品を使い、初任給が19,000円の時代に、535,000円という価格設定であり、多くの企業が購入できるものではなかった。

 1970年に社長に就任することになる佐伯旭氏は、当時、専務取締役として電卓開発の陣頭指揮を執っていたが、CS-10Aを見たときに、「シャープの体質にあったコンピュータは、八百屋や魚屋でも使えるコンピュータ。大きく、値段が高い大型コンピュータはいらない。店頭で気やすく買えるものにしてくれないか」と注文をつけた。

 佐伯氏が提案した「八百屋のおかみさんが使える電卓」の実現が、佐々木氏がシャープで必死になって取り組んだ仕事であった。そのために必須となっていたのは、LSIの採用だ。

 だが、主要な半導体メーカーは、緒についたばかりのLSIの生産に追われ、軍事、産業用途にターゲットを絞り込んでいた。しかも、当時のLSIは、歩留まりが悪いため、量産が前提となる民需製品への採用は、経営リスクが発生しやすいため、供給することを避ける傾向があった。シャープが、電卓に使用するために調達数量をコミットしても、それに乗ってくる半導体メーカーがなかったのだ。

 実際、ロケットの異名を取る佐々木氏は、その名のとおり、世界中を飛び回り、約20社の半導体メーカーを訪問したが、その時点でも、色よい回答が得られないままであった。

 最後の訪問先となったノースアメリカン・ロックウェルの子会社であるオートネティクスでも、LSIの供給を断られ、佐々木氏は失意のまま、ロサンゼルス国際空港から、日本に帰らざるを得ない状況だったのだ。日本の半導体メーカーからも、すでにLSIの供給を断られており、日本に帰ったとしても、まさに八方ふさがりの状態だった。

 帰国まであとわずかという時間のなか、空港内に、佐々木氏を呼ぶ場内アナウンスが流れた。何事かと思って指定されたカウンターに行くと、そこには、想定外の伝言が残されていたのだ。

「帰国を延期し、用意したヘリコプターに乗って、いますぐ当社に来てほしい」。

 一度供給を断られたオートネティクスの社長からの伝言だった。

 飛行機をキャンセルして、オートネティクスに戻った佐々木氏に対して、オートネティクスの社長は、「シャープにMOS-LSIを供給することを決定した」と切り出し、握手を求めてきた。佐々木氏は、その場で3,000万ドルもの大量のLSIを発注。これによって、シャープは、世界初のLSIを搭載した電卓を製品化することができたのだ。

 「QT-8D」は4個のLSIと、2個のICで構成され、重量は1.4kg。135×247×72mm(幅×奥行き×高さ)という手のひらをサイズであり、価格も99,800円と一気に下がった。

 この製品の登場が、電卓をパーソナル化するきっかけを作り、その後のシャープの電卓事業の発展につながっている。

 もし、ロサンゼルス国際空港でのアナウンスが、「ロケット・佐々木」さんに届いていなかったら、その後のシャープの電卓事業の成功はなかったかもしれない。

 なお、オートネティクスは、アポロ計画の推進にも協力しており、NASA(米航空宇宙局)にLSIを供給する半導体メーカーであった。この縁もあり、佐々木氏はその後、アポロ用LSIの開発にも協力したという。そうした経緯のなかで生まれた「QT-8D」は、「アポロの申し子」と呼ばれ、その後、シャープ自らが半導体を開発する道を選ぶきっかけにもなっている。

 ここでも佐々木氏は手腕を発揮し、シャープが半導体企業になる道筋を牽引していった。

 シャープは、半導体開発と生産のために、1970年に、天理に総合開発センターを建設したが、このときに天秤にかけられたのが、1970年に開催された大阪万博への出展である。天理の土地買収費用と、万博の出展費用はいずれも15億円。国家的プロジェクトである万博の誘致には関西経済界をあげて取り組み、シャープもその一翼をになっていただけに「出展しなければ、関西経済界から総スカンを食うことになる」との声もあったが、シャープは、「半年で取り壊すパビリオンよりも、企業体質の強化を優先したい」として、天理の総合開発センターの開設を決断したのだ。

 吹田市の「千里」丘陵で開催される大阪万博よりも、「天理」に予定される総合開発センターへ投資したこの経営判断は、「千里から天理へ」と呼ばれた。

国産第一号の電子レンジ開発

 あまり知られていないが、シャープが、1961年に初めて開発した国産第1号の電子レンジ「R-10」の製品化にも、佐々木氏は深く関与している。そして、この関わりが、佐々木氏のシャープ入りに深くつながっている。

国産第1号の電子レンジ「R-10」

 当時、神戸工業の取締役を務めていたが佐々木氏は、現・防衛省からの依頼で、レーダーなどに使用する大出力の特殊真空管「クライストロン」を生産しており、この技術を応用して、電子レンジに使用するマグネトロンの開発に成功した。

 この開発を指揮していた佐々木氏は、販売力を持たない神戸工業では、電子レンジという最終製品を作るよりも、マグネトロンを供給し、電子レンジの生産は他社に委ねたほうが最適であると判断した。そして、真っ先に浮かんだのがシャープだったという。

 シャープの経営陣は、佐々木氏の提案に対してすぐに決断。「火を使わない夢の調理器」と呼ばれた電子レンジの開発に日本で初めて成功した。

 1961年に初めて開発した国産第1号の電子レンジ「R-10」は、業務用としてレストランなどを中心に販売したが、1966年にはコストダウンを図った家庭用電子レンジ「R-600」を発売した。

 調理が終わると「チン」となる仕組みを採用したのはシャープが最初であり、電子レンジでの調理をする「チンする」という言葉は、シャープの電子レンジの音を発端としたものだった。

 じつはこのとき、シャープは、電子レンジに関する特許を公開することを決断している。

1966年に発売した家庭用電子レンジ「R-600」

 そのとき、創業者である早川徳次氏は次のように語ったという。

「この特許をおおいに使ってもらったらいい。それで負けるような商品しか作れないのならば、こっちの力がないということだ」
早川徳次氏は、社員に向けて、「他社に真似される商品をつくれ」といったきた。これは、現在、鴻海傘下で再建を遂げたシャープの戴正呉社長も、シャープのDNAを示す言葉として、よく使っているものだ。

 シャープのDNAを表現する出来事の1つが、佐々木氏が開発したマグネトロン技術でもあったというわけだ。

 電卓事業での功績や半導体事業での貢献などが取り上げることが多い佐々木氏だけに、むしろ、シャープの家電メーカーからの脱皮を促進したのが、佐々木氏のイメージだ。だが、じつは、シャープの家電事業の発展にも大きな影響を与えているのだ。

 シャープという枠にとどまらず、日本のエレクトロニクス産業の発展や、世界のエレクロトニクス産業の発展にも大きく貢献した佐々木氏の功績は大きい。ご冥福をお祈りする。

 なお、故人の遺志により、通夜および葬儀は近親者のみで執り行なわれた。後日、「お別れの会」が行なわれる予定だ。