山田祥平のRe:config.sys

バーチャルをリアルに近づける

 バーチャルはどんなにがんばってもリアルにはなれない。でもリアルが不可能ならバーチャルでがんばるしかない。そのためにもバーチャルをリアルに近づける工夫が必要だが、果たして本当にそうなのか。

バーチャルは今のままでいいのか

 この2年間というもの、コロナ禍によって多くのリアルがバーチャルに移行した。リアルとバーチャルを同時に催すハイブリッドな体験も増えてきたが、早い話がリアルのライブ中継にすぎない。

 バーチャルは、それに参加する人、そして、環境や装備によって体験が異なる。例えば映画館に行かずに映画を見る体験をシンプルに考えてみると分かりやすい。

 6型前後のスマホ画面で見る、24型程度の据置ディスプレイで見る、50型を超える大画面TVで見る場合では、同じ映画でも異なる印象を持つだろう。ヘッドマウントディスプレイを使って視聴するような場合もまた違った印象を持つに違いない。

 サウンドについても同様で、大迫力のオーディオ再生ができるか、イヤフォンやヘッドフォンで聴くかでも違ってくる。そして、バーチャルには、ほかの誰かといっしょにそこにいるという体験共有の現実もない。

 もし、このまま、デジタルによる仮想空間としての、いわゆるメタバースが新しい当たり前になれば、世界はどのような変貌を遂げるのだろう。

 そうは言っても通勤時間の電車は相変わらず混んでいるし、居酒屋に入ればマスク会食とは名ばかりのどんちゃん騒ぎが目に入る。入店時の検温や手指消毒もかなりいいかげんなものだったりもする。みんなバーチャルにガマンができなくなり、リアルを強く求めるようになってきているのだ。

 そんな中で、バーチャルは、もっともっとリアルに近づけないと、世界は破綻してしまうのではないか。

バーチャルこそがリアル

 バーチャルにもいい面はたくさんある。移動を伴わないので時間を有効に使える。実際、スポーツ中継やコンサートなどはTVで見ることが多かったのだから、コンテンツの種類が増えたにすぎないという考え方もできる。

 オンラインでオンデマンド、インタラクティブという要素が揃えばそれなりのバーチャル空間が得られるのだから、もうそれでいいとする層も出てきそうだ。高齢社会が叫ばれているが、高齢になればなるほどリアルな行動が困難になっていく。だが、バーチャルなら、例え歩くのが困難なほど衰えてもなんとかなるかもしれない。

 社会生活の多くの要素がバーチャルになっていくのは、むしろ高齢者にとって好都合だ。高齢者は十二分に過去にリアルを経験してきたから、バーチャルで得られる情報の量でも想像力である程度を補える。経験に乏しい年齢層には不利だ。だからこそ、バーチャルをリアルに近づける新たな技術が必要だ。

 冗談じゃないと思う人も少なくないはずだ。世界がバーチャル一色になるなんてありえないと。いわゆる対面が求められるサービス業の現場、モノを買ったらそれを届ける運送業の現場、そもそもモノを作る製造の現場などはバーチャルではありえない。

 でも、かつて、馬車がクルマに取って代わったときのように、多くの現場はバーチャルに移行していく。サービス業はEC化し、運送はドローンが引き受けるようになる。製造もロボットが多くを担うようになるだろう。モノが作られて、それが購入されるまでにリアルな人間が触れることがなくなるような予言もあるくらいだ。

 それがさらに極端に進むと、もうモノはいらないというようなレベルにまで達する。ちょうど栄養をサプリで取るように、リアルを代替するバーチャルソリューションが、まるで真のリアルであるかのように台頭していく。

バーチャルをリアルに体験する

 このままいくと、バーチャルで育った年代層が世界を動かすようになるのは間違いない。その層が正しい世界観を持てるようにするためにも、バーチャルをリアルに近づけなければならない。そして、バーチャルの方がリアルより優れた結果を生むくらいに昇華させる必要がある。普通はそう考える。ところが、煮えたぎるお湯は熱くてヤケドをするということをバーチャルで伝えるにはどうすればいいのかといったシンプルな解さえ、今はまだ思いつけない。

 この2年近く、世界はミュートされてしまった状態だ。段々元の世界がフェードインしてきたかと思えば、またミュート。それが繰り返されているし、これからも繰り返されていくだろう。

 そんな世界がおもしろいわけがないといらだっても、それが当たり前だと感じる世代が世の中を牛耳るようになれば、それが新しい当たり前になる。バーチャルこそがリアルであるという世の中になるわけだ。そうなると、バーチャルをリアルに近づけるということ自体が無意味になる。

 そういうことをつらつらと考えていたら、ちょっと怖くなってきた。

 これからのライターはパソコンくらい使えないとまずいという強迫観念から東芝のMSXパソコンを買った。1983年だから40年近く前のことだ。買ったはよかったが、まともに日本語も使えないことが分かって実用に使うのはまだ無理と判断した。

 でも、その年のうちにNECパソコンのPC-100を手元で使う仕事が舞い込み、マウスを使ったGUIに初めて触れた。MS-DOSを使ったのもそれが最初で極端にのめり込んだ。プログラミングにはほとんど興味はなく、アドベンチャーゲームのようにDOSを楽しんだ。

 そして、以来、原稿用紙とペンを捨て、パソコンを筆記用具として使うようになった。自分の人生を大きく転換するきっかけになった出来事であり、リアルをバーチャルにとってかえる最初の経験だったと今思う。

 今、自分のまわりで起こっていることは、40年前のそのときに匹敵するものだと思う。しっかりとリアルに経験しておきたい……。