山田祥平のRe:config.sys
人はなぜリアルタイムで会議をしたがるのか
2020年7月11日 06:55
飲み会でさえ仮想化がトレンドとなってしまったコロナ禍。イベント、ミーティング、会議などなどリアルは遠くなるのが新しい当たり前だ。それにしても、人はなぜ、バーチャルな世界にリアルを持ち込もうとするのだろうか。
打てば響くコミュニケーション
1980年代の終わりごろ、ざっくり今から30年以上前のことだ。パソコン通信がトレンドになって電子掲示板や電子メールといった新しいコミュニケーションツールが多くの人々の知るところとなった。
最初は物好きのマニアが使うツールにすぎなかったが、そのうち、インターネットが浸透し、ビジネスの現場で重要な役割を果たすようになった。
日常的なコミュニケーションは、企業などの組織におけるグループウェアなどが担うようになり、それなりの功績を果たした。いや、仕事のみならず、プライベートなコミュニケーションも、インスタントメッセージなどで行なわれることは少なくなくなった。
たとえば、電子メールのいいところは、相手の都合を考えないで送りつけられるところにあった。深夜であろうが、日中であろうが、自分の都合で送りつけることができる。ただし、すぐに読まれる保証はない。既読かどうかもわからなかった。相手は自分の手があいたときに届いたメールをまとめて処理することができる。
それまでの主要コミュニケーション手段だった電話は、相手がそのときどんな状態にあるのかに関係なく割り込んでしまう。食事中だろうが、会議中だろうが容赦がない。
人というのは勝手なもので、用件を伝えたら、すぐに返事をほしがる。呼びかけたらすぐに応えてくれないと気が済まないのだ。このことはビジネスのスピードにも影響を与える。電子メールのやりとりでは翌日になってしまいそうな案件も、電話でひとことふたこと話をすればすぐに片づくことは多い。本当はメールでもインスタントメッセージでも着信後、数秒で反応できれば問題はないのだが、それがもどかしくて人は直接音声で会話をしたがる。
電子メールが本当にうまく機能するようになったのは、PCの通信における常時接続が当たり前になってからだ。読み書きのためのデバイスがつねにネットワークに接続していることで、メールの着信をリアルタイムで知ることができるようになり、その有用性は高まったように見えた。
だが、そのことは、メールのいいところも抑止してしまった。電話と同様に、メールは人のリズムに割り込むようになってしまったのだ。
リアルタイムとオンデマンド
多くのイベントがオンライン化せざるを得なくなっている。昨年(2019年)までは飛行機に乗って遙か遠くの開催地に赴き、宿泊を伴う出張で参加してきたイベントも、オンラインで自宅から簡単に参加できる。刺激という点では物足りないが、背に腹はかえられない。
だが、これらのイベントは本当にリアルタイムでの開催である必要があるのかどうか。実際のところ、オンデマンドイベントとして自分の都合のいい時間に参加できるようにしたほうがいいのにとも思う。
その点、生中継が終わったら、そのコンテンツをそのままオンデマンドで視聴可能なイベントは便利だ。とくに、主催者による一方的なレクチャや発表案件などは、それでいい。こちらが反応する必要がないからだ。とは言え、質疑応答などでは、相手の顔色が判断の材料になる場合もあるのが難しいところだ。
イベントほど大仰な催しでなくても、会議やミーティングはどうなのか。会社という固定された場所にある会議室に複数のメンバーが同時に集まって何かをするという行為だ。開催にはものすごいエネルギーが必要だ。
それを仮想化するのがオンライン会議だ。要するに複数拠点を結ぶTV電話のようなもので、コロナ禍のように人と人との接触を最小限にしたい場合には有用な手段だ。映像を伴う出席が難しければ、電話による音声だけでも参加ができる。だからこそ、ZoomやTeamsといったコミュニケーションツールがもてはやされている。
でも、オンライン会議こそ、本当にリアルタイムである必要があるのかという疑問も残る。
そもそも会議室というリアルな場所に、複数人の参加者が同時に集まって話し合うということがやりにくいから、それを仮想化しているわけだが、もっとも不便なはずの「同時」という事象だけは仮想化されていない。移動時間を伴わないので会議のハシゴは容易かもしれないが、音声や映像をやりとりする会議でのかけもちは難しい。
ちょっとした理不尽さを感じながらも、スケジュールを確認し、参加者はおのおの離れた場所で定刻に会議アプリを開いて仮想の席につき、リアルタイムでの会話によって議事をすすめる。会議そのものを非同期で仮想化することはできるかもしれないが、それでは時間がかかりすぎてしまう。人によっては喋るよりも文章を読み書きするほうが速かったりもするのだが、リアルタイムなら10分で済む会議が、半日かかってしまうようでは困る。
時間の仮想化
2020年になった今も、時間を仮想化する技術はまだないように見える。リアルな暮らしで実践してきたほとんどのことがITによって仮想化できるようになってはいるが、同時にそこにいることだけはどうしても仮想化できない。
集合知が組織を動かしている以上、そこにいることを避けては組織に貢献することは難しいだろう。
会議にかぎらず、eスポーツにおける対戦なども同じだ。リアルタイムで戦わなければ勝負はできない。1フレームの遅延が勝負に影響する世界では、光の速度でさえ遅いとされる。
リアルタイムを仮想化できないからこそ、会議室でのリアルな会議をメタファに、オンライン会議システムがリアル会議のようなものに近づくように洗練されていく。そして、そこで起こるのは一種の退化でもある。
可能性があるとしたらAIの介在だろうか。自分が言いそうなこと、反応しそうなことを徹底的に学習させた自分のクローンをAIで実現できるのなら、そのAIを会議に出席させて議事に参加、あとで都合のいい時間に議論の結果だけを参照すればいい。その是非はともかく、将来的にはそんなこともできるようになるかもしれない。
この瞬間、コミュニケーションの相手がそこにいること。それが今の当たり前だとすれば、新しい当たり前はどうなるのか。コロナ禍の状況は、そんなことまであぶり出そうとしている。