山田祥平のRe:config.sys

ちゃんと写真を撮りたいシンドローム

 スマホは汎用のデバイスだ。スポンジのように専用のデバイスから役割を奪い取り、手のひらサイズの平板に実装し、目覚ましい進化と方向性の変化をもたらす。カメラとスマホの関係を見ていれば、そのことを痛感する。かと思えば、その一方で、専用機の復権の動きもある。

スマホではちゃんと写真が撮れない

 携帯各社からの新製品発表も落ち着き、この夏のスマホラインアップが出揃ったようだ。今期に限ったことではないが、相変わらず特別にアピールされているのはやはりカメラの機能、性能だ。もはや、スマホはカメラつきの電話というより、電話つきのカメラと言ってもいいくらいになっている。そういう位置づけに異論はない。誰も彼もカメラ機能を最優先してスマホを選ぶ。

 写真のようなイメージング処理は、AIの活用事例としてもきわめて分かりやすいし、その著しい進化も受け入れられやすい。もはや写真は「真を写す」ものではないのだから、そこにフォーカスするのはごく自然な成り行きだ。記録、記憶としての写真のみならず、画像認識などのブレークスルーをもたらすためにも、スマホにとってのカメラ機能は重要なものとなっている。

 その一方で、日米で一眼レフカメラが伸張しているという。一般社団法人カメラ映像機器工業会(CIPA)による、2022年3月のデジタルカメラ生産出荷実績が公開され、その中で、一眼レフカメラの復権の兆しが読み取れる。特に、昨年同月比のデータを見ると米州向けの市場での伸びが顕著らしい

 カメラの立場については、この10年くらいでいろいろなことを考えているのだが、スマホがその役割を奪い取ったのかというと、ちょっと違うんじゃないかと思うようにもなった。

 確かに、スマホはかつてのカメラ専用機で撮りたいと考えられていたイメージの多くを入手可能にした。いや、誰もが日常的にカメラを持ち歩くようになり、撮影のチャンスを逃さなくなり、そのショット数は急激に増えている。世の中のたいていの人々にとって、もはやカメラはいらない。スマホがあれば十分だと思われている。

 だが、スマホでは思った写真は撮れないと感じている人もたくさんいる。そういう人たちは、一眼レフやミラーレスなどのカメラ専用機を持ち歩き、自分の求めている写真を撮ろうとする。もちろんカメラ専用機は大きく重い。そして、望みのレンズは、さらに重い。

 今、一般的なスマホの重量は200g前後だが、ある程度のズームができるレンズをつけたレンズ交換式カメラは、2kgに手が届いたりする。それでも、その重いカメラを首からさげて写真を楽しむのだ。コロナ禍になって、老若男女、特に頻繁にそういう人たちを目にするようになったようにも感じる。

 今年は、桜のシーズンも天候に恵まれたので、あちこちで花を愛でることができた。桜の木の下で宴会をするといったことではなく、近所を散歩しているときにもあちこちで桜を目にして楽しめたわけだが、そこには、スマホで桜を撮る人以外に、カメラで桜を撮影する人の存在がたくさんあったのだ。特に、若い女性が目立ったように記憶している。

面倒くささが楽しいという不思議さ

 この10年間くらいのスマホ写真の進化は著しかった。それはサチるどころか、AIやデジタルイメージング技術の充実によって、まだまだ進化を続けるだろう。

 だが、写真を撮るという行為が、スマホで完結することに物足りなさを感じるユーザー層が爆誕しているようにも感じる。これは悪い話じゃない。もちろん大多数はそうではないのだが、明らかにある種のトレンドを感じるのだ。

 仮に、2019年以前のコロナ前と、2020年以降のコロナ後という時期の分け方があるとすれば、その前後で明らかに様子が違ってきている。この時期は、スマートフォンが浸透し始めてから約10年目のタイミングでもある。また、日本の場合は、スマホ前とスマホ後は東日本大震災前後という節目でもある。

 コロナ禍は、自分時間を創生したとも言われている。これまで考えもしなかった対象に時間を使うようになったのだ。写真を撮るという行為もその1つだったわけだ。

 自分の意志で写真を撮ろうとしたときに使う道具として、「そうだこういう絵が撮りたかったのだ」と納得させてくれるカメラなのか、それとも「こういう絵を撮りたい」という意志に応じて、それを具現化するためにあれこれ細工や工夫をすることを許すカメラなのかで、その道具としての性格は異なる。もちろん、両方を満たす道具が求められることもありそうだ。

 すべての現象を世代の影響にしてしまうのはよくないことだとは思いつつ、50年くらい前の技術やトレンドが復活する兆しを目にするたびに不思議な感覚が自分の中に芽生える。

 LPレコードやカセットテープが復権したり、フィルムカメラが人気を呼んだりといったことを目の当たりにすると、面倒くさいもの、そしてアナログ回帰的なものが再評価されていることが分かる。アナログの面倒くささと、デジタルの潔さ、両方を体験して人生を過ごしてきた世代としては、うれしいようなそうでもないような複雑な気分だ。

 個人的に2000年頃は、アナログ写真とデジタル写真の両方がおもしろく感じられ、そしてモノクローム写真に新鮮さを感じ、あえてフィルムカメラでモノクロ写真を撮っていた時期でもある。

 当時撮りためた写真は、デジタルのものはサッと出てくるが、フィルムのネガは未整理で何がなんだか分からない状態で保管されている。リバーサルフィルム、そしてカラーネガのほとんどは退色しているだろうけれど、現像済みのコダクロームは大丈夫だし、当然、モノクロの銀塩フィルムは、今、印画紙に焼き付けしても、昨日撮ったかのような光景がよみがえる。

 仮に今からアナログ写真の不便さをもう一度楽しむなら、間違いなくモノクロフィルムなのだが、それを他人に勧めたりはしない。それに、得られるものが素晴らしいとしてもあまりにも高価だ。

 かつて愛用していたコダックのモノクロフィルムTri-Xは今も容易に入手できるが、36枚撮りが2,000円以上する。その現像に1,000円程度。その先はデジタルで処理すれば0円としても、合計3,000円で36コマということは、1コマあたり100円弱かかるということで、かつてモノクロ写真を楽しんでいた頃に比べると5~6倍のコストというイメージだ。

 逆に、その程度のコストでちゃんと本気の写真が撮れるなら安いものだと考えることもできる。こうした選択肢もあるというのは、この時代になっても絵筆でキャンバスに絵を描いたり、和紙に筆で書をしたためたり、陶器を作ったりすることに通じるかもしれない。そんな時代を思い思いに楽しめるというのは幸せだ。