山田祥平のRe:config.sys
パーソナル以上、パブリック未満
2016年7月15日 06:00
GoogleがAndroid Autoの国内サービス提供を開始した。自分のスマートフォンを接続するだけで、カーナビゲーション、そして、カーエンタテイメント、さらには、電話やメール、メッセージングの応対などのデジタルアシスタントになってくれる。乱暴な言い方かもしれないが、いわばスマートフォンの拡張ディスプレイシステムだ。便利そうではあるが、ちょっとした課題も抱えている。
今、スマートフォンはもっともパーソナルなデバイス
今の時代、もっともパーソナルなデジタルデバイスと言えばスマートフォン。もうこれは間違いない。ただ、同じくらいの数の人々がいわゆるガラケーを使い続けてもいるので、広義には携帯電話と言い替えてもいいかもしれない。
普通は、携帯電話を人に貸すことはない。それがたとえ家族であってもだ。使わせるとしても本人立ち会いのもとに限定されるだろう。いわゆる家電話、つまり、固定電話は一家に1回線、場所に固定されているというのが当たり前だったが、携帯電話は違う。これは最初から1人1台を持つことを前提に、人が移動するのについて回ることを想定してデビューしたデバイスだ。
パーソナルコンピュータも本当はそういう前提でデビューしたはずだった。でも、登場のタイミングでは価格も高く、さらには持ち歩くことなど考えられなかった。だから、一台のPCを複数のユーザーが共有し、入れ替わり立ち替わり順番待ちをして使い、そのうち、家庭に入るようになっても同じように、家族が使いたいときに交替で使うような存在になった。個人が自分専用のPCを使うのは理想だが、いろんな面でハードルは高かったからだ。その事情がずいぶん変わってきているのは嬉しい限りだ。
パーソナルであるというのはどういうことかというと、自分以外の人が見たり読んだりしては困る情報を、そこに置いておいても平気だということだ。携帯電話には、メールをはじめ、自分の利用しているクラウドサービスにアクセスするためのカギに相当する情報がたくさん保存されている。それを守るために、スマートフォンをロックする。ロックされたスマートフォンを貸してもらっても何もできないわけで、だからこそ携帯電話はパーソナルである。
最近でこそ、電話番号情報はSIMに記録され、SIMの入れ替えで、自分の電話はそのSIMを装着したデバイスに着信するようになったが、3Gサービス以前は、デバイスそのものに着信していた。電話は固定された場所にかかってくるものから、デバイスにかかってくるものになり、さらには電話番号の所有者個人にかかってくるものになった。だが、もうスマートフォンは電話を着信するためだけのデバイスではなく、装着されているSIMの電話番号など関係なく、仮にSIMが装着されていなくても、パーソナルデバイスとして機能する。
パーソナルとパブリックの境目
さて、そんな極めてパーソナルなデバイスを、クルマという半閉鎖的な空間とは言え、同乗している誰かがいつも見ているような環境に接続するのがAndroid Autoだ。
似たようなシチュエーションというと、リビングルームで使う家族のためのタブレットデバイスがある。これまた難しい立ち位置にある。リビングでタブレットを操作したくなるとすれば、例えばTV番組を見ていて、気になるタレントや役者が出てきた時だ。当然、それが誰なのか、どういうプロフィールなのかを知りたくなるので調べたいと思うだろう。そんなときにタブレットがあれば便利だ。
また、情報番組などで、行ってみたいところが特集されていたりすれば、その地域について、もっと詳しく調べたり、自分が住んでいるところからどのような手段で、どのくらいの時間がかかるのかを知りたくもなるだろう。
いちいち別のデバイスを使うのは面倒だろうと、TVメーカーはTVにWebアクセスの機能を付け加えたが、10フィートデバイスにそれは難しい役割だった。人々は、TVより、もう少しパーソナルな立ち位置を欲しがったからなのだろう。
その一方で、TV番組の送り手は、よりパーソナルな接し方を人に求めるようになる。番組に対する意見などを、SNSで募るようになっているのはご存じの通りだ。Twitterほど、そんな用途に向いたメディアはなかろう。ところが、Twitterでの投稿はパーソナルアカウントを必要とする。リビングの共用タブレットに個人のプライベートアカウントを設定するのは、家族と言えども気が進まない。当たり前だ。家族の誰もが見るかもしれないデバイスに、自分のアカウントを設定して、ロックもせずに放置することなどありえないはずだ。それが普通の感覚だ。
だからこそ、SNSでの発言をするなら、自分のスマートフォンを使うようになる。自分だけのスマートフォンだから、自分のアカウントで自分の発言ができる。これも当たり前だ。
プライベートを選択して投げる
確かに、自分が1人でクルマに乗っている時には、スマートフォンをカーシステムに接続できるのはとても便利だ。うちのクルマなんて、15年前のカーナビが現役で稼働しているが、地方のドライブなどをすると、道なき荒野を走ることが頻繁にある。地図が更新されていないからなのだが、だからこそスマートフォンとの併用が欠かせない。そのスマートフォンを大きめのディスプレイに接続できれば、きっと便利には違いない。カーナビディスプレイがMiracastレシーバーになってくれるだけでもいいのにとも思う。
レンタカーを借りて乗り込むような時にも、このシステムがあれば、自分のスマートフォンを接続して、いつものように、いつもの手慣れた操作でナビゲーションさせることができる。
でも、それは、パーソナルなスマートフォンの出力を同乗者に公開するということでもある。家族かもしれないし、恋人かもしれない。隣にいるのが誰であろうと、何もかもすべてが開けっぴろげで気にしないということは、そんなに多くないのではないか……。
セミパブリックなTVとパーソナルなスマートフォンの関係に、多少なりとも方向性を示したのは、Google Castだった。今、スマートフォンで見ている何かを、自分の意思でキャストできるというこの仕組みは、見せたいものだけを見せるという世界観をかたちにした。
ただ、運転中のドライバーは自分のスマートフォンを自在に操るのが難しい。だからこそ、運転中にもタッチができる固定されたディスプレイが欲しくなる。そして、スマートフォンよりも大きなディスプレイなら、凝視する必要もなく、チラッと見るだけである程度の情報を把握できる。やっぱり便利なのだ。
Android は、スマートフォンと言えどもマルチユーザーに対応するようになった。自分以外の誰かがデバイスを操作することを想定し、別のユーザーを追加したり、あるいは、権限の低いゲストを追加したりといったことができるようになっている。
この仕組みをうまく使えば、パーソナルなスマートフォンに、セミパブリック、あるいはセミパーソナルな誰かを共存させることができる。本当はその誰かと自分自身との間を取り持つデジタルアシスタントが必要なのではないか。
ドライバーのスマートフォン体験の先にあるもの
せっかく1人1台のデバイスを自分だけのものとして所有できる時代になったのに、そのデバイスにセミパーソナル、セミパブリックな役割を持たせたくなるというのは皮肉な話ではある。運転中に、助手席に座る誰かに、経由地としてコンビニやガソリンスタンドを探させて追加してもらうような使い方まで想定されているような環境が望ましい。助手席に座る誰かは、きっと自分のスマートフォンを持っているだろうから、それで検索した結果を、ドライバーのAndroid Autoに投げることができるような仕組みがあればと思う。
もちろん、Android Autoはまだ始まったばかり。今の時点では、ドライバーのスマートフォン体験を、シームレスにドライブ時にも拡張することをめざしている。だが、そのもう少し先にあるのは、セミパブリック、セミパーソナルな世界ではないか。家族、恋人といえども、スマートフォンは操作させたくないし、見せたくないという当たり前の気持ちを受け止めるシステムに成長してほしいと思う。
ちなみに、このテーマは、6年ほど前にも考えたことがある。あわせてご覧いただきたい。