山田祥平のRe:config.sys

VRなVR

 HTC NIPPONがVRヘッドセット「Vive」の国内販売を開始する。発表会では正式販売パートナーや各コンテンツプロバイダーが勢揃いし、VRトレンドの輝かしい明日をバーチャルに謳歌した。

人の感性が貧しさを補完

 確かにVRはおもしろい。やはりそこに未来的な何かを感じるのは間違いない。Viveの場合は、2つのワイヤレスコントローラと、ルームスケール測定センサーをうまく活かすことで、いわば仮想的な空間で人間が実際に動くという体験を提供できる。センサーの精度はmm単位というからかなりのものだ。

 特に、スティック状のワイヤレスコントローラは時には銃になり、時には操縦桿になり、時には剣になりと、「握ってトリガを弾くことができるある程度長い棒」というのをさまざまものに代替できる人間の想像力というのはたいしたものだと変なところに感心してしまう。

 だが、VR体験は、その準備、つまり、始めるまでが大変だ。大仰なヘッドマウントディスプレイを装着し、多くの場合はヘッドフォンを着ける。また、コンテンツによってはマシンにまたがるようなオプションが加わる。最初のうちは1人で着けるのも大変だ。当然、最初に着ける時は手伝ってもらってやっとだ。もっとも、デモンストレーションでは入れ替わり立ち替わり、いろいろな人が装備を着けるので、フィットさせるのにも時間がかかるわけだ。これが自分専用なら、多少は状況も変わってくるだろう。

 VRがVRたる所以は「そこにないものがあるように感じる」というところにある。言い方を変えればあると思い込む人間の感性が試される。そして、それを誘因するためにさまざま技術が駆使される。各種のセンサーは人間がどこを注視しているのか、どの方向を向いているのか、どのくらいの速度で体を動かしたのかを検出し、高度なグラフィックスがそれを元に目に見える映像として表示デバイスに追随させる。

 つまり、その体験を補完するのは人間の感性だ。例えば、ヘッドマウントディスプレイに映し出される映像はたかだか1,920×1,200ドット。それを至近距離で見るから没入感があるのだが、至近距離だからこそ荒さも目立つ。Appleが解像度の高いディスプレイをRetinaと称するようになったのはiPhone 4からだったが、肉眼では画素を認識できない水準を目指そうとしているなら、本当は、もっと高い解像度が必要なのかもしれない。

 だが、そんな高い解像度をドライブするには、高いグラフィックス性能が求められるし、ディスプレイそのものの高解像度化も必要だ。今の時点でそれを補えるのは、やっぱり人間の感性と錯覚、没入させてしまうだけの説得力のあるコンテンツの中味ということになる。

 実際、動くもの、動かないもの、音がするもの、しないものと、これほど百花繚乱のコンテンツが溢れる中でも、文字が整然と並ぶだけの小説のようなコンテンツがなくなってしまうことはない。TVはあってもラジオは生きている。YouTubeがあっても、映像のない音楽も好まれる。魅力のあるコンテンツがあれば「スペック」はほどほどでもよいのかもしれない。

トレンドは盛り上がるのか

 危惧があるとすれば、VRのトレンドが以前の3D TVのような一過性のものになってしまうことだ。かつては、3Dでないものは映像でないくらいの勢いを感じた時代もあったが、今は、それほどの元気はない。TVの業界は、次のステップとして、4K、8Kをアピールしているが、それがどのようなトレンドに育つのかは注目しておかなければなるまい。そもそもTV番組コンテンツに、本当に4K、8Kといった高い解像度が必要かどうかということもある。

 ただ、デバイスというのは数の論理で価格が決まる。ほとんど全ての表示デバイスが8Kに対応してしまうのなら、それはそれでいい。デバイスの表示能力が、フルHDであれ、4Kであれ、8Kであれ、それを観る人間は、観る態度や装備を改める必要はない。フルHDコンテンツを見慣れた今、たまにDVDを観たりすると、その解像度の低さにゲンナリしてしまうが、3分も観ていれば慣れる。

 人間の眼というよりも頭脳が、足りない分の情報量を補完してしまうのだ。だから、VRも大仰な装備で高品位を提供することは、それほどがんばって目指さなくても良いのかもしれない。数の論理が追いつけば、品位は勝手に上がっていくだろう。そんなことよりも、気軽に体験を始めることができるシカケを考えた方がいい。何しろ、メガネをつけるだけの3Dでさえ、人はめんどうくさがったのだから。そこのところをよく考えるべきだろう。VRが「ハレ」のエンタテイメントになってしまうようではまずいんじゃないか。

バーチャルからリアルへ

 現時点でのVRは、長時間の楽しみにはつらい。仮に2時間程度の映画のようなコンテンツがあったとしよう。よほど好きな人でもない限り、その2時間をあの装備で我慢できる人は多くないだろう。受動的にといっても、たまには上下左右に注目しつつ、座ったままの姿勢でいなければならない。

 なぜ座ったままでいなければならないか。寝っ転がっていては、首を上下左右に動かせないからだ。仰向けに寝っ転がったままで微動するくらいでも楽しめるようなコンテンツが開発されればいいかもしれないが、そのためには、センサーの工夫も必要だろう。

 同様にレイテンシも気になる。例えば、後ろに敵の気配を感じて振り返り、手元の銃の引き金をひいてやっつけるといったアクションの場合、それが目に映る映像に反映されるまでの微妙な時間のズレが船酔い的な錯覚に陥らせる。ドット単位でマウスカーソルを動かして、無線デバイスなど言語道断といった環境に慣れたPCゲーマーは許せないかもしれない。

 VRを楽しむ環境は1人が向いているのか、多人数が向いているのかというテーマも奥が深い。マルチプレーヤーVRの方向性などもいろいろなパターンが考えられているにちがいない。SNSが情報の共有を果たしたように、VRが空間の共有をめざすパターンがあったっていい。

 厳しいことばかり書いたかもしれないが、そのうち電極を頭に装着して、脳に直接投影するようなVRの時代が来ないとも限らない。エンタテイメントをそこまでして楽しむかというと、議論の分かれるところかもしれないが、考えてみたら、エンタテイメントだけが使い道じゃない。単に手っ取り早く、その先進性をアピールできる使い方がエンタテイメントだっただけだ。

 PCのVGA程度のディスプレイの中で、うごめくように映し出されていた動画でも十二分に楽しめて未来を感じることができた時代が、ついこの間だったことを思えば、VRがバーチャルではなく、リアルなリアリティになる日もそんなに遠くないようにも思う。