特集

「史上最低のキーボード」の汚名返上に向け、富士通の"Mr.キーボード"が0.05mmにかけた執念

~富士通ノートPC開発舞台裏取材記 キーボード編 後編

 前回の記事の続編をお届けする。

 長野駅からローカルの私鉄線である長野電鉄で約30分の須坂駅。そこから徒歩3分の距離にある富士通コンポーネントの研究開発拠点ビル。今回の取材先となったのは、ここにある同社の技術開発センターだ。

CTOの鶴の一声で開発期間を半年前倒し

 富士通コンポーネントは富士通を主要株主とする企業で、本社を東京に置く。2001年の創立で、従業員は約3,300名だ。富士通と高見澤電気製作所を併せたかたちでの富士通高見澤コンポーネントを経て、現在の同社が発足している。

 LIFEBOOKを開発し販売する富士通クライアントコンピューティング(FCCL)から見たとき、富士通コンポーネントはいわゆるパーツメーカーとなる。が、グループ会社ということもあり、綿密なコミュニケーションのもとに、製品へのこだわりを具現化したモジュールを調達することができる強みは大きい。

 前回、デスクトップ用キーボードの最高峰としての「Libertouch」が2007年に開発が完了し、その夏に一般向けに富士通から発売されたことを記した。じつは、その6年後、つまり今から4年前の2013年頃、Libertouchの操作感をノートPC用のキーボードに継承できないかどうかが富士通社内で検討されはじめていたのだ。

 富士通コンポーネントでは、そのオーダーを受け、最初はキーストローク1.6mmの試作機を作り、2016年にはストローク1.2mmでターゲット原理試作機を完成させていた。それを最終調整しながら、ストロークを1.5mmにしたうえで、2018年の春頃に投入される予定の未発表機に実装する予定で作業が進められていたという。

 われわれがFCCLに「LIFEBOOK UH75/B1」のキーボードに対して「史上最低のキーボード」の烙印を押したのが2017年の7月だったわけだが、その時点ではすでにプロジェクトは着々と進行し、2018年の新キーボード完成に向けて作業されていた。

 ところがその「史上最低のキーボード」の悪名は期せずしてFCCL社内に広がり、深刻な状況として受け入れられ、それが最終的に仁川進氏(FCCL執行役員CTO事業本部長)の耳に入ることになる。仁川氏はそれを看過するわけにはいかず、半年以上の前倒しをして秋に発売されるLIFEBOOK UH75/B3への実装を鶴の一声で指示することになる。これが今回の経緯だ。

新型キーボードを急遽前倒しして搭載したLIFEBOOK UH75/B3

史上最低のキーボードの指摘以前に試作が完成していた次世代キーボード

 FCCLではペンが書く道具であるように、PCのキーボードは文字を入力する道具であり、ノートに書くためのペンであると考えている。ペンなのだから書けなければペンではない。確実に書けることが求められる。そしてさらにペンと同じように「書き心地」や「デザイン」が商品価値として必要であるとしても、とにかく第一要件としては「書けること」が最優先される。筆者が「史上最低のキーボード」と呼んだキーボードは、その開発姿勢によって具現化された製品を根底からくつがえすものだった。

キーボードは文房具

 それまでの富士通は、より薄いPCのために、より薄いキーボードを提供することに注力してきた。ストロークが浅くても押下感を得られるように、クリックを感じやすいチューニングを施し、指を滑らせるタイピング向けのチューニングをしてきた。その結果、ストロークの深いデスクトップ向けキーボードのような突くタイピングはしにくい傾向があった。

 われわれがB1世代のキーボードで感じた違和感は、指を滑らせるタイピングを想定したチューニングに、突くタイピングをしようとしたためだったようだ。突くタイピングは必然的に、キートップの四隅を叩くことが多くなり、打鍵がこぼれる結果となってしまっていたのだ。

キーボードに対するこれまでの富士通のこだわり
薄型化のため、滑らせるタイピング向けのチューニングになっていた

 FCCLでは「確実に書ける」と感じるキーボードとは、「押した」と感じたら入力できていなければならないと考える。その感覚は、フルストローク近くまで打ち抜かれるのを待ってスイッチをオンしていては得られない。押したと感じる領域は、ストロークのボトムよりもはるか手前にあるからだ。

 ところが、従来のメンブレンラバースイッチの設計では、ストロークエンドに近づいた指先の抵抗を感じはじめる位置以降で検出するスイッチ構造となっている。つまり、構造的に無理なのだ。メンブレン構造は古くからキーボードを実現する重要な構造として使われてきた。ノートPCの薄型化にも貢献している重要な技術だ。

 機構としては電気回路として構築された配線層を、指が押し下げた層が短絡させることでスイッチをオンにする。つまり、ボトムまでキーを押し下げないとスイッチはオンにならない。そのため、入力には勢いが求められる。ユーザーは強めの荷重でキーを叩かなければならない。ところが人間はそんなことは考えない。叩きはじめたときにはすでに叩いたと頭の中では意識しているからだ。キートップを叩いたと人間が意識したときにオンを検知するにはどうすればいいのか。まず、そこを考える必要があった。

メンブレンキーボードの基本構造
原理上、クリックとオン位置を同時に実現することが困難

 じつは、こうした模索は、われわれが「史上最低のキーボード」を指摘する少し前からFCCL社内で進められていた。こうしたプロジェクトを円滑に進められるように、FCCLでは、機種ごとにキーボード担当を置いてきた体制を変更し、キーボードを統括するMr.制を導入していたのだ。

 つまり、キーボードの専任者の設置だ。そのMr.キーボードがキーボード打鍵感の向上を目指し、理想のキーボードを実現する責務を負う。

確実に書けるキーボードのために、"Mr.キーボード"制を導入した

キーボードについていっさいを任されるMr.キーボード

Mr.キーボードこと、FCCLの藤川英之氏

 Mr.キーボードとは、キーボードを統括するマエストロのような存在だ。そのマエストロの感性が最優先され、その統一された感性であらゆる富士通製PCのキーボードがチューニングされる。B3世代の新キーボードの重量は、B1世代よりも4g重くなってしまっているそうだが、あえて重くしてでも1.5mmストロークの適用を判断するといったように、Mr.キーボードの判断は「絶対」でもある。

 その絶対的判断からUH75/B3のキーボードは、B1世代の1.2mmストロークから1.5mmストロークに変更された。その間には、0.05mm単位での試行錯誤があった。そして、その比較的深いキーストロークをボトムまで押し込まなくても、押したと感じたとたんに入力されるようにすることで、より自然な文字入力を実現する。だからこそ、どのような押し方をしても、押したと感じる領域のなかに必ずオン位置が存在するような機構が求められたのだ。まさに矛盾だ。

 Mr.キーボードは、そのコンセプトの具現化を富士通コンポーネントに問う。Mr.制度がFCCL社内で立ち上がったのは2016年の10月だったから、今回の案件は、Mr.キーボードとしての最初の仕事であったと言える。

めざせLibertouch

 まず、そんな理想的なターゲット押下特性を実現するために参照されたのがLibertouchの技術だ。Libertouchはラバーとコイルスプリングの特性を組み合わせて高品質の押下感を実現した画期的なメンブレンキーボードだ。2種類のパーツの組み合わせがその秘密だ。

 そのコンセプトをノートPC用のキーボードで実現しようとした富士通コンポーネントでは、ラバーとコイルバネ、ラバーと板バネの組み合わせを試作したものの、薄型構造が求められるノート用キーボードに追加部品を組み込むのは困難であるという結論に達した。

Libertouchと似たラバー+板バネ構造も検討したが、ノートへの組み込みは困難だと判断した

 メンブレンキーボードでは、メンブレンシートに実装された接点をラバーをたわませることで接触させてスイッチをオンにする。その構造上、オンにする位置を優先すればクリック感は減り、クリック感を優先すればオン位置は後退してしまう。なら、ラバー単体の形状を工夫し、ラバーに2つの機能、つまり、クリック感とオン動作を委ねることはできないかと富士通コンポーネントは考えた。

 まず、ラバーそのものを外ドームと内ドームで構成し、それぞれに別のカーブを設定した。外ドームがキーの反力部を受け持ち押下げ感を演出、内ドームが一定の荷重を得たところでボトムに押下げが到達していなくても先だってキーをオンにする。そのためのラバー特性を合成特性として理想のターゲットカーブが描かれた。

 書いてしまうと簡単なようだが、実際にはたいへんな作業だ。設計上はうまくいくように見える押下げカーブは、実際に試作したラバーが持つ押下げカーブと異なる。ここはもうカットアンドトライで繰り返し試すしかない。さらにはメンブレンを押し続けられるだけの強度を持った内ドームと打鍵感。その寿命とのバランスなど課題は山積みだ。

さまざまな試作機を作っては試行錯誤の繰り返しだった
透明なキートップの中央に透けて見えるのがラバードーム
各キーの中央および4隅におもりを乗せ、すべての場所できちんと打鍵が検知されていること(LEDが点灯)を確認という泥臭い作業を何度も行なった

 クリック感重視のために内ドームを弱くするとオン位置は後退してしまう。オン位置を前身させるために内ドームの当たりはじめを早くしようとすると指は先に底突き感を感じてしまい打鍵こぼしの可能性が生まれてしまう。

 富士通コンポーネントでは中国のベンダーにラバーを発注しているが、そのメーカーに設計コンセプトを理解してもらうのはたいへんだったとも言う。それでも甲斐あってラバーメーカーにアイディアを出してもらえるまでのレベルに達した。常にサンプルと設計カーブを比較し、差分を確認するという地味で長い作業が続いた。

完成に向けた期間を半年も前倒し

 試作は2017年3月に1.5mmストロークのもの3形状が完成したが、ストロークが延びただけで押下カーブはターゲットとはほど遠いものだった。翌月4月には再設計した8形状が完成したが、今度は打鍵寿命の点で問題ありとされた。そして6月になって完成した3度目の試作において、4形状をチャレンジ、ようやく想定したターゲットカーブ、打鍵寿命の点で合格判定を得ることができ、一応の試作品が完成した。

新キーボードの操作感ターゲット
3カ月にわたりさまざまな形状のラバーを試作し、1.5mmストロークの試作品が完成した

 本来は1年以上かかる試作期間を5か月で終わらせなければならなかったハードな作業だ。2018年春という当初の予定を半年前倒しし、2017年秋に発売されるUH75/B3に載せることがすでに決まっていたからだ。

 つまり、われわれが「史上最低のキーボード」を指摘した時点で、新キーボードモジュールの試作は完成していたのだ。キートップは球面シリンドリカルキートップとなり、指にフィットするへこみ形状となった。押下げ感は文字キーとエンターやシフト、スペースなどの特殊キーでは異なるものにされた。

 開発に係わったメンバーは、ラバーメーカーとの長時間にわたる電話会議の連続と試作総数40種類以上のサンプル作成、さらにそれぞれの試作品に対して中央打鍵と4隅打鍵の600データ以上の測定の日々を振り返る。もちろん、試作機が完成するたびに東京にいるMr.キーボードに宅配便で送られ、Mr.キーボードは自分のコンセプトに合致した仕上がりになっているかどうかを入念にチェックする。その繰り返しだ。長野にも足繁く通った。

 最終的に完成したキーボードは、キートップ、ハウジング、ギアリンクの成形部品は富士通コンポーネント社内で内作、ラバー、メンブレンシート、サポートパネルについてはパーツメーカー製だ。最終的な組み立てはマレーシアの富士通コンポーネント自社工場で行なっている。

完成した新型ラバードーム。白は通常のキー用、青はシフトなど横長のキー用

将来のFCCL製PCを支えるMr.たちの仕事

 LIFEBOOK UH75/B1のキーボードは、中途半端な仕様で開発されたものではなかった。だが、結果として打鍵を取りこぼす可能性のあるキーボードが検査基準内として出荷されたことは事実だ。そこはもくろみが甘かったことを指摘したい。

 だが、この点について、FCCL、富士通コンポーネントの開発担当者は、いわば中傷ととられても仕方のないわれわれのコメントをきちんと受け止め、記事というかたちで世に出ることを承知の上で取材を受けてくれた。

 そして、すでに開発途上にあった新機軸のキーボードは、当初予定の半年以上の前倒しという難題をクリアし、大きな進化を遂げた。だが、Mr.キーボードも、富士通コンポーネントの開発メンバーもここで満足しているわけではない。引き続き、よりいっそうの静音化、打鍵しやすさなどにチャレンジしていく気持ちを隠さない。

 Mr.キーボードは、FCCLのあらゆるPCにおけるキーボードを統括するが、FCCLには、キーボード以外にも、「Mr.タッチパネル」などこうした「Mr.」を名乗るマエストロがいる。それぞれが各部品・機構を牛耳るエキスパートとして、FCCL製PCの統一された使用感の実現に向けて模索を続けている。

 今回は、たまたまキーボードだったが、そのプロセスからもわかるように、今、このときも水面下で各要素の「Mr.」は、理想のPCを実現しようと、個々の担当要素を昇華させるための方法や技術を模索しているのだ。

 今回のキーボード完成で、FCCL製PCはひとまず極上の打鍵感を持つキーボードを得た。PC内部は共通化された要素が多く差別化にはつながりにくい。Intelのプロセッサとチップセットを搭載し、メモリとSSDを実装すればある程度の完成系が得られるからだ。

 その他の部分をどう追求するかがメーカーごとの腕の見せどころであり、FCCLの「Mr.」は、それを委ねられた重大な指揮官だ。彼らの動きについては、今後、機会を見て紹介していくことにしたい。

 レノボ傘下になって新たなスタートを切るFCCLのPC事業だが、そのひたすらに真面目でこだわりのある姿勢が、その事業を支えている。Mr.制度は、その一環にすぎない。

藤川氏とともにキーボードの開発に携わり、インタビューに応じていただいた富士通コンポーネントの山路秀幸氏(写真左)、西野武志氏(左から3番目)、奥谷進之輔氏(右から3番目)、佐藤博紀氏(右から2番目)、小池保氏(写真右)

【1月12日追記】筆者が試用した製品はFCCLから提供されたLIFEBOOK UH75/B1のモニター機であり、開発中のキーボードの操作感についてモニター評価を目的として特別に製作され、キーボードを実装してもらったもの。LIFEBOOK UH75/B3の製品・キーボードとは異なるものだ。