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IBMがスピン注入メモリの20周年記念イベントを開催した裏

スピン注入メモリの20周年記念イベント「20th Anniversary Spin-Torque MRAM Symposium」のロゴマーク

 IBMの研究開発組織であるIBM Researchは今年(2016年)の11月7日(現地時間)に、米国ニューヨーク州のヨークタウンハイツにある研究所「IBM T. J. Watson Research Center」でスピン注入磁気メモリ(STT-MRAM)の発見から20周年を記念した講演会「20th Anniversary Spin-Torque MRAM Symposium」を開催した。

会場となったIBM T. J. Watson Research Centerの看板(2016年11月7日に撮影)
会場となったIBM T. J. Watson Research Centerの建物(2016年11月7日に撮影)

 スピン注入磁気メモリ(STT-MRAM)は、次世代の大容量不揮発性メモリの有力候補である。「ストレージクラスメモリ(Storage Class Memory)」と呼ぶ、主記憶とストレージの中間に位置する大容量メモリや、「ユニバーサルメモリ」と呼ぶ、1種類のメモリですべてのメモリを賄う汎用メモリなどが、STT-MRAMを始めとする次世代大容量不揮発性メモリには期待されている。

磁界発生の常識であるコイルの存在

 スピン注入メモリが科学的にも工学的にも画期的な点は、記憶原理に古典的な電磁相互作用(電気と磁気の相互作用)を、使っていなことにあるだろう。古典的な電磁相互作用とは粗く言うと、電気が磁気(と力)を生じるとともに、磁気が電気(と力)を生じるという関係を指す。電気と磁気の関係を示す代表的な法則には「アンペールの法則(右ねじの法則)」(1820年に発見)や「ビオ・サバールの法則」(1820年に発見)、「ファラデーの電磁誘導の法則」(1831年に発見)などがある。「19世紀における」自然科学の研究成果であるとも言える。

 古典的な電磁誘導を利用した最も分かりやすい素子は「コイル」あるいは「インダクタ」だろう。電流によって磁界を効率的に発生させる仕組み、すなわち、電線を円筒状にぐるぐる巻きにしたコイル(と鉄心)が「電磁石」の一般的なイメージとして良く知られている。コイル(あるいは電線)なしに磁界を発生することは普通、考えられない。

「アンペールの法則」(左)と「ファラデーの電磁誘導の法則」(右)の概念図

コイルなしに電気と磁気の相互作用を起こす

 これに対してスピン注入メモリには、コイルが存在しない。コイルが存在しないにも関わらず、電流と磁界の相互作用が発生する。相互作用の介在役は、電子のスピンによるトルク(厳密には「トランスファトルク」)である。電子のスピンによるトルク(磁気モーメント)が磁石(厳密には「強磁性体」)の磁気モーメントと相互作用し、磁石の磁気モーメントの向きを動かすことができる。場合によっては磁石の向きを正反対にできる(磁化反転)。

 電子のスピンによるトルクの存在と、トルクによって磁気モーメントを反転できることを理論的に予測したのは、別々の人物、ではない。IBM T. J. Watson Research Centerの研究者、ジョン・スロンチェウスキー(John Slonczewski)博士である。スロンチェウスキー氏は1955年からIBMに研究員として勤務し、2002年にIBMを退職した。その間、磁性材料や磁気記憶などに関する数多くの研究業績を残している。

 電子のスピンによって磁化反転が起きることを理論的に予測した論文が公表されたのは、1996年6月のことである。つまり、今日(2016年11月)から約20年前のことだ。論文は、磁気の研究に関する著名な学術論文誌「Journal of Magnetism and Magnetic Materials」に掲載された。この功績を記念して企画されたのが、今回のシンポジウムである。

「20th Anniversary Spin-Torque MRAM Symposium」の開催を告知したホームページ。本文の始めには「This symposium is being held to honor the 20th anniversary of John Slonczewski’s landmark paper on spin-transfer-torque...」とあり、ジョン・スロンチェウスキー(John Slonczewski)氏の功績を記念したシンポジウムであることが明記されている
シンポジウムのプログラム。午前9時から午後6時過ぎまでの1日開催。12件の技術講演と、1件のパネル討論で構成されている。スピン注入メモリの研究開発に携わっている主な組織の大半が一堂に会した

2016年7月には記念シンポジウムの開催を予告

 IBMがスロンチェウスキー氏の功績から20周年であることに反応したのは、かなり素早かった。タイミングとしてはほぼ20周年(すなわち480カ月後)に相当する2016年の7月には、20周年を祝うメッセージがIBMのWebサイトに掲載されていた。IBMの研究者によるブログ「IBM Research Blog」の2016年7月7日付けエントリー「Researchers celebrate 20th anniversary of IBM's invention of Spin Torque MRAM by demonstrating scalability for the next decade」である。

 このエントリーではコンピュータのメモリ階層について簡単に解説するとともに、MRAM(Magnetoresistive RAM)とは何かを説明し、MRAMの世代交代についても解説している。そしてエントリーの末尾に、20周年記念シンポジウムを2016年11月7日に主催することを告げていた。

スピン注入メモリの発見20周年を祝う、IBM Research Blogの2016年7月7日付けエントリー(ページの先頭部のみ)

IBMがまとめた「STT-MRAM関連の研究業績一覧」に見る不自然さ

 ただしこのエントリーからは、やや不自然さを感じた。それは、スピン注入メモリ(STT-MRAM)の研究開発における重要な業績を年代順にまとめたイラストレーション(イラスト)である。このイラストでは、STT-MRAM開発における過去の重要な業績を年代順にまとめている。イラストそのものは非常に分かりやすく、また選択した業績も納得がいくものである。

スピン注入メモリ(STT-MRAM)の研究開発における重要な業績を年代順にまとめたイラストレーション。左から右へ、デバイス(Device)、書き込み(Write)、読み出し(Read)、微細化(Scaling)の順番で重要な研究成果を示している。IBM Research Blogの2016年7月7日付けエントリーから

 最初の業績はデバイス(Device)に関するもの。記憶素子である「磁気トンネル接合(MTJ: Magnetic Tunneling Junction)」の発明と研究成果をまとめている。このイラストによると、磁気トンネル接合の概念を考案したのは、先ほど紹介したIBMのジョン・スロンチェウスキー(John Slonczewski)氏である。現在から42年ほど前、1974年のことだ。

 磁気トンネル接合は、2枚の強磁性体薄膜によって極めて薄い絶縁膜を挟んだ構造である。2枚の強磁性体薄膜の磁化の方向が揃っていると、磁気トンネル接合を貫通する電流の電気抵抗は低く、磁化の方向が逆向きだと、磁気トンネル接合を貫通する電流の電気抵抗が高くなる。両者の抵抗の比率を「磁気抵抗比(MR比)」と呼び、MR比が高いほど、高性能な記憶素子として動作する。

 磁気トンネル接合は当初、極低温でしか動作しなかった。それを室温で動くようにしたのが、イラストで紹介している1995年の業績である。マサチューセッツ工科大学(MIT)のJagadeesh Moodera氏らの研究グループと東北大学の宮崎照宣氏らの研究グループがそれぞれ独自に達成した。

代表的な磁気トンネル接合(MTJ)と電気抵抗の模式図。左は磁化の向きが同じ場合。電気抵抗が低い。右は磁化の向きが反対の場合。電気抵抗が高い

 次の業績は、STT-MRAMの書き込み(Write)動作に関するもの。磁気トンネル接合に電子のスピン(スピンの方向に偏りのある電子群)を注入することによってスピントランスファトルクが発生し、強磁性層に磁化反転が起こったり、磁気モーメントの振動が起こったりすることをジョン・スロンチェウスキー(John Slonczewski)氏が1996年に、理論的に導出した、とする。

 ここで不自然なのは、ほぼ同時期に同じ理論的成果を出した、カーネギーメロン大学(Carnegie Mellon University)のルック・ベルガー(Luc Berger)氏の業績が無視されていることだ。MRAMや磁気トンネル接合などの研究者が過去の業績を振り返る時、「スピン注入トルクによる磁化反転の理論的な予測」に関しては概ね、スロンチェウスキー氏の論文とともにベルガー氏の論文を引用している。

 また、米国物理学会が固体物理学の分野で顕著な業績を挙げた研究者に授与する賞「オリバーE.バックリー凝縮系賞(Oliver E. Buckley Condensed Matter Prize)」は、2013年度の受賞者にスロンチェウスキー氏とベルガー氏の両名を選出した。受賞の対象となった業績は両氏とも同じ、「スピントランスファトルクと電流による磁気ナノ構造の制御に関する予測(predicting spin-transfer torque and opening the field of current-induced control over magnetic nanostructures)」である。

 つまり、磁性や磁気記憶に関する研究開発コミュニティではスロンチェウスキー氏とベルガー氏の業績をほぼ等しく扱っている。ベルガー氏の業績を無視しているように見えるのは、IBMで、なおかつスピン注入による磁化反転の理論的予測に関するものだ。

2013年度のオリバーE.バックリー凝縮系賞にベルガー氏とスロンチェウスキー氏が選出されたことを公表した、カーネギーメロン大学(Carnegie Mellon University)のプレスリリース(先頭部のみ)。2012年11月16日付け

 話題をSTT-MRAMに関する研究開発成果に戻そう。次の成果は読み出し(Read)動作に関するもの。磁気トンネル接合の性質を大きく左右する、トンネル絶縁膜の材料におけるブレークスルーだ。2004年にIBM Researchの研究者Stuart Parkin氏らの研究グループと産業技術総合研究所の湯浅新治氏らの研究グループがそれぞれ、従来の酸化アルミニウム絶縁膜を高品質の酸化マグネシウム絶縁膜に換えることで、磁気トンネル接合素子の磁気抵抗(MR)比を従来の2倍~3倍に高めたのだ。この研究成果により、STT-MRAMの読み出しの高速化と記憶容量の大容量化を進める道が開けた。

 最後のブレークスルーは微細化(Scaling)に関するものだ。磁気トンネル接合(MTJ)における磁化の向きには、薄膜の平面に平行な方向(in-plane方向)と薄膜の平面に垂直な方向(perpendicular方向)がある。前者は「面内磁化方式」、後者は「垂直磁化方式」とも呼ばれる。面内磁界方式は微細化に不向きであり、垂直磁化方式のMTJが微細化に適していることは分かっていた。ただし、垂直磁化方式で高性能なMTJを当初は実現できなかった。イラストによると、2010年に東北大学電気通信研究所の大野英男氏らの研究チームと、IBM ResearchのDaniel Worledge氏らの研究チームはそれぞれ、強磁性層にコバルト鉄ホウ素(CoFeB)合金を採用したMTJで、高性能な垂直磁化記録を実現した。

 このようにして4つの業績を見ていくと、2番目の「書き込み(Write)」だけがIBM以外の研究者による業績を参照していないことが分かる。スロンチェウスキー氏が、IBMが誇る(誇った)極めて優れた固体物理学者であることは間違いない。スピン注入による磁化反転を予測した同氏による1996年の論文は2016年11月までに3,028件もの研究論文に引用され、スピントランスファトルクの存在を見い出した同氏による1989年の論文は2016年11月までに1,175件もの研究論文に引用されている(いずれも研究者のソーシャルネットワーキングサイト「ResearchGate」のデータ)。いずれの論文も、スピン注入メモリの研究開発コミュニティでは、原点とも言える研究成果であることが分かる。

 IBMがスロンチェウスキー氏の業績を讃えることは喜ばしい。ただし、やり方にはどうも、ある意味「IBMらしい」不自然さが漂う。そのことはいささか残念だ。