iPadで電子書籍 |
モバイル通信の名の下に、今年は電子出版(電子書籍、電子ブックと書いていたが、昨今はiPadの登場で雑誌や写真集を含む出版全体に及んでいるため、電子出版という表現をここでは使っていきたい)の記事をこの連載の中で扱ってきた。
筆者は本を読むことが好きだったからというのもあるが、一方で一般雑誌やコミック誌、写真集などの出版について(忘れていたわけではないが)あまり取り扱ってこなかった。しかし“電子書籍”に注目が集まる中で、電子出版全体にどのような変化が起きているのか、その変化にどのように対応しようとしている人間がいるのか、知る機会があったので、今回はその話をしようと思う。
僕のこの連載としてはめずらしくセンチメンタルな言い方をするならば、それは“日本の作家を世界の舞台で勝負させたい”という想いを実現するための小さな戦いだった。PC Watchという媒体の枠からは少しはみ出してしまうが、ここに記事として掲載させていただきたい。
●大人向けコミック誌の栄華と衰退この話の発端は、10年以上の知人である元小学館ビッグコミック・スピリッツ編集者で、現在はウィブックス社長の倉持太一氏から「iPad向けに電子コミックの販売を、日本での発売日に合わせて行なうことを考えている」と連絡を受けた事に始まる。
ウィブックスは出版企画・制作を行なう会社なので、iPad上で何らかの電子出版を行なうだけなのかと思っていたが、話を聞いていると全く違うようだった。既存のコミック出版の枠を突破して、新しいメディアの誕生に際して新しい事に取り組もうというエネルギーを強く感じた。
つまり、こういうことだ。
かつては100万部を超えるコミック誌が十数誌もあった日本のコミック市場だが、'95年に少年ジャンプが653万部を記録して以来、業界全体が市場縮小に悩んでいる。それでも少年誌はそれなりに大きな部数を出せているが、比較的大人向けのコミック誌は徐々に衰退の道を歩んでいるように見える。
倉持氏がかつて活躍したスピリッツも現在の発行部数は約30万部と言われる。コミック誌の売り上げが落ちてきた理由は明快で、通勤時の電車など持て余す時間を過ごすための手段が時代と共に変化したからだ。100万部以上のコミック誌が10誌以上もあったのも、毎日異なるコミック誌でみんなが暇つぶしをしていたからにほかならない。
もともとがコミックファンで読み続けている人ももちろんいるわけだが、以前はそこに加えて暇つぶしで読む層がものすごく沢山いた。しかし電車の中を見渡せば一目瞭然に解るとおり、コミック誌を拡げている人は少数で、多くの人は携帯電話を見ている。
先日も28歳の会社員に電車でコミック雑誌を読んだことは? と尋ねると「一度もないですね。電車の中ではあまり読まないでしょ? 」との返答。おそらく5~7歳上の先輩ならば、一度は読んだことがあると思うよと言っても、いまひとつピンと来ない様子だった。
もちろん、これは出版社側も先刻承知で、だから携帯電話向けのコミック配信などにも取り組んできたのだが、なかなかビジネスとしてはうまくフライして来なかった。
それでは、どうやってコミック誌を売っていこう……という話になるが、これがなかなか難しい。携帯電話向けの配信などは、もちろん各社とも取り組んでいるが、携帯電話の画面でコミックをどう見せるかという点で大きなハードルを関係者は感じてきたようだ。実際のビジネス面でも苦戦していると聞く。
コミック誌が苦戦し始めると、今度は作家が育つ土壌が失われていく。週刊誌など複数のタイトルを1冊にまとめたコミック誌は、人気連載があるおかげでたくさんの本が売れると同時に、新しい作家がデビューして広く読まれ、育っていくための道場としての役割も担っている。これはコミック誌の業界だけでなく、筆者のような文章を書く職業でも、出版社にチャンスをもらい、ダメ出しをされることで育ててもらってきた。出版社は、そうした新しい作家を育てる役割も担っていたわけだ。
もちろん、旧来からのビジネスモデルが崩れ去ってしまうまでの時間的余裕という意味で言えば、おそらく書籍や雑誌よりもコミックの方が長いのではないか? と思う。しかし、それは単に市場規模の大きさの違いによるものであって、本質的には同じ問題だ。
このまま電子化が進むと、果たしてコミック出版はどのようになっていくのか。倉持氏は小学館時代の同期で、スピリッツ時代に多くのヒット作(伝染るんです。、月下の棋士、東京大学物語など)を手がけ、現在は月刊IKKIの編集長を務める江上英樹氏と夜通し議論し、iPadでコミックを見るとどう見えるのか? などを検討した結果、iPad向けのコミックアプリケーションの開発・販売を目指すことにしたのだという。
●電子化によるボーダレス化に着目これ以上掘り下げていくと、ほとんど私的コミック論になってしまうので、ここからは要約して話を進めよう。
要はかつてコミック業界は、通勤時間をやり過ごすためのメディアとして認知されることで、本来のコミックファン以外が市場を膨らませていたということだ。現在は衰退したというよりも、本来のコミックファン中心で形成される“正常な市場サイズ”に収まろうとしているとも言えるかもしれない。
しかし急激に市場が縮まると、業界全体の質は維持できなくなる。子供向けではなく、青年向けコミック誌という特殊な分野が極大化することで、絵やストーリーの質は間違いなく高まっていたと思うが、そんな日本製コミックの質も、このまま青年コミック市場が緩やかに縮小していくと徐々に下がっていく。コミック市場の縮小に伴い、漫画家に憧れる人の母数も減っていくからだ。新人が世に出るチャンスも、市場縮小で減っていき、最終的には質が低下していく負のスパイラルに入っていく。
上記は筆者がこの話を聞いたときに感じた事だが、同じ事は倉持氏と江上氏の脳裏にもあったという。そこで倉持氏が提案したのが、iPadという世界中で販売されるプラットフォームを舞台に、コミック誌を世界に発信できないか? ということだった。
倉持氏はコミック誌の編集者を14年続けたと同時に、写真家とも多くの仕事をこなしてきた。その経験から感じていたのは「日本の写真もコミックも、質の上では欧米に負けない。ところが言語の壁や地域的な孤立もあって、なかなか世界でチャンスを得るクリエイター、アーティストが出てこない」ということだった。
しかし写真やコミックは言語に依存する部分が比較的少ない。出版が電子化されると様々な事が変化するが、その中の1つに国境を越えるボーダレス化という側面がある。日本の場合は、言語の壁に阻まれて海外への進出が起きにくいが、コミックの場合はすでに海外で売れた実績がある。
現在は海外で正規版が販売される前に海賊版が流通する(テキストの分量が少ない事も海賊版流通の遠因でもあるだろう)問題があり、海外での業績は決して良いわけではないようだが、そこは流通方法さえ確保してしまえば、制作側の仕組み作りでカバーできる面もある。ならば、自ら先行して他言語版を制作し、電子的に流通させるのが良いのではないか? と考えた。
つまり、かつては日本の通勤族に対して最適なコンテンツを提供することで成長した青年誌のビジネス規模や作品としての質の維持を、国際化によってコミックファンの母数を増やすことで解決できないか? と考えたわけだ。
月刊IKKI編集長の江上氏は「質の高い作品を世界へ広めたい」と話す。作品の質を維持して行くためにも、作家が世界を見据えて作品作りに没頭できる環境を提供したいという。
画面を見ていただければわかるが(作品の権利問題もあるので、サイズは縮小している)、言語設定によって吹き出しの言語が変わっているのがわかるだろう。作品はIKKI COMiXで販売されている松本大洋氏の「ナンバーファイブ(吾)」第1話。ビューアではなく、単独のアプリケーションとして1話1アプリケーションの形式で1話目は無償での配信を開始する。
米国時間の27日から配信が行なわれているので、本稿が掲載されている頃にはダウンロードしている方もいるかもしれない。
ナンバーファイブ(吾) | ナンバーファイブ(吾)を表示させたところ |
英語版 | 日本語版 |
●まずは英語圏での同時配信を
IKKI COMiX「ナンバーファイブ(吾)」の配信が始まるのは、北米(米国とカナダ)および日本。またほぼ同時にウィブックスからは楽園写真家・三好和義氏が小笠原諸島を撮り下ろした新作写真集も無償でのダウンロードが開始される。いずれも日本語と英語に対応しており、機能設定で言語を日本語から英語に切り替えると、文字情報が英語へと自動的に切り替わる。まずは英語圏からということだが、もちろん将来的にはフランス語やスペイン語など多言語化を進めていく予定だ。
三好和義氏による小笠原諸島の写真集 |
日本の出版コンテンツの中で、国際的な競争力を持つ分野は多くない。やはり言語の壁が大きいからだ。しかし日本でのコミック文化の発達は他国に比べて突出しており、言語依存の少ない写真集と共に世界で通用するコンテンツになるという倉持氏と江上氏は確信を持っていたようだ。
さっそく筆者もIKKI COMiXアプリを見せていただいたが、「ナンバーファイブ(吾)」アプリの特長は、なんといっても見開きのスタイルを崩さない事だ。これはアプリを提供するウィブックスや小学館のポリシーではなく、原作者・松本氏の意向によるものだという。すべての絵は見開きで見る事を意識して構成、作画しているからだ。
松本大洋氏は「僕自身、紙へのこだわりが強いです。紙は大好きです。しかし、iPadのパイロット版を見た瞬間、これからはこうなるんだろうなと思い、なにやら変な汗をかきました(笑)。マンガは見開き単位で描いているから、できればiPadで読むときも、横位置・見開きがいいと思いました。そうなると、今の画面サイズでも十分読めるとは言え、もう少し大きくなってもいいですね。それと、紙の本では、どうしてもノドの部分(綴じ部)が湾曲していて、中心に近いほど絵柄にパースがついてしまうのがイヤだったのですが、iPadではそれがクリアされるのは嬉しいです。いずれにしても、これを機に僕の作品を知ってくださる人がいたら、それはとても嬉しいことですね。」と話しているという。
ノドの歪みがなくなることがキモチイイ、というのは、実にアーティストらしい感想だが、さらに今後、電子版がプライマリーメディアになっていくだろうという予測も踏まえれば、最初からカラーの作品や動きのある作品が増えていく可能性もあるだろう。コミックのデジタル製作は、すでにかなり以前から進んでいるので、モノクロ印刷よりもカラーでのコンテンツ供給を重視するような作家が出てくれば、オリジナルはモノクロではなく全編カラー。電子配信こそがオリジナルという作品も出てくるに違いない。
今の青年誌のクオリティが維持できるのであれば、海外への電子コミック提供はビジネスとして成功する可能性が高いのではないだろうか。
●アップデートで“より良いクオリティに進化させたい”ただし、ダウンロードされればすぐにわかることなので、ここで私のコメントとして書かせていただくが、IKKI COMiXアプリの現時点での完成度はあまり高いものではない。取材をしながら倉持氏に、こうした方がいいのではないか? と多くのリクエストをしたほどだ。
現在のIKKI COMiXアプリはiPadアプリならではの動きがあるわけではなく、あくまで紙のために作られた作品を電子化しただけだ。iPadのアプリケーションであることを利用した、音声やアニメーションを使った演出などとは無縁で、紙のコンテンツをそのままプログラムとしてiPadで開けるようにしただけだ。
また、見開きを前提に閲覧データを作成しているため、文字の視認性についても不満の声はあるかもしれない。これは配信用のプログラムを開発を決めてから、わずか3週間で完成させるという短いスケジュールでのリリースを実現するためだったと倉持氏は話す。
見開きを拡大して1ページ表示相当でドットバイドット表示になるのが望ましいだろうが、当初、アプリの試作段階ではXGA解像度のページ×2を一度に表示すると、メモリ不足でアプリケーションが落ちるトラブルが頻発した。現在は見開きでXGA解像度となるよう解像度を落とすことで問題を解決している。
解像度の問題や全編カラー化、アニメーションなどの動的要素導入といったテーマに対しては、倉持氏自身満足してておらず、今後、機能強化を図っていきたいとしている。「解像度が低くなったのは、ひとまずはアプリケーション側の問題で、決して高解像度での配信を行なわないというわけではない。目指すところは業界でもっとも品位の高い絵を持つ電子コミック」(倉持氏)。
このため、開発が進んで行く毎に、過去にリリースしたIKKI COMiXアプリもアップデートしていく。最終的には拡大表示時でもセリフの文字がボケたりせず、絵を拡大しても十分な画質として見えるところまで高解像度化を進め、そのたびに無償アップデートをかけていく意向だという。
現在のシンプルなスタイルでも充分にコミックを読める品質だが、できれば文字品位を含めてもう一段上まで行きたいという感想は持ったが、そうした解像度や読みやすさといった面も含め、きちんとアップデートで対応していくというのだから、ここは可能な限り早く始めることで、大手出版社もコミック文化の未来に挑戦する意欲を持っているんだという、倉持氏の意欲を買いたい。
●既存のビジネスモデルが限界を迎える前に英断を下した小学館電子コミックに関しては(ここでは書いていないことも含め)さまざまな問題が立ちはだかっているが、少なくとも何か変わろうとしなければ、今後はコミック業界全体が沈んでいく事になりかねない。
小学館と言えば、明らかに出版業界の老舗なわけだが、その小学館が(元社員の経営する会社とはいえ)iPadを通じて国外にも同時にコンテンツ供給を行なっていく事を許可したのは、おそらく画期的なことだ。大手出版社の多くは、こうした新しいメディア流通変化の節目に、ことごとく乗り遅れてきた。
実際、28日の日本におけるiPad発売日に、iPad向けのコミック配信を仕掛けてきた大手出版社はない(iPadへの注目度の高さから、開発を始めたところはいくつかあるようだ)。コミックコンテンツの配信でナンバーワンの実績を誇るeBook Japanが、iPadの発売に合わせてiPhone用のリーダアプリケーションをアップデートするが、iPad専用版は今年秋のリリースになるという。
そうした意味では、倉持氏と江上氏の行動力、突破力もさることながら、コンテンツのデジタル流通に対して腰が重く、後手に回っていた大手出版社のイメージを変えた、小学館の上層部のファインプレーと言えるのかもしれない。
電子書籍に関して継続的に取材を続けてきたが、老舗と言われる出版社の多くが、電子化の必要性に気付きつつも、今一歩、行動に踏み込めずにいる。まずは行動を起こすことで何かを始める姿勢が小学館にあった、ということは、素直に評価すべきだ。
過去に大きな成功を抱えていると、次の世代への変化で後手を踏む事が多い。既存のビジネスモデルが限界を迎える前に、積極的に自ら攻勢に打って出る決断を下した小学館に敬意を示すとともに、今後も継続的にコンテンツの供給を行なうこと、またiPad以外でもコンテンツが楽しめるようにコンテンツ供給のソフトウェアプラットフォームを完成させていく事を期待したい。
そして最終的には、現在の週刊コミック誌のように、新たな若い才能を育てるだけのビジネス規模をオンライン配信の枠組みの中でキープしてほしいものだ。現在のコミック作品に大人でも読めるクオリティの高いストーリーや絵柄の良さを持つものが多いのは、'90年代のコミック誌バブルとも言うべき状況が生み出したものと言えるだろう。たくさんの人がコミックを買い、たくさんの成功者が生まれたから、そこに有望な才能を持つ者が次々に参入してくる。
しかし、今後はそれも状況が変わっていくだろう。昔のように“通勤族の買い支え”的な需要は期待できない。コミックファンの支える市場の中で、きっちりと結果を出さねばならない。品質をキープしていくのは並大抵の事ではない。しかし、それをやっていかなければ、日本経済全体にとってもマイナスと言える。コミックは日本のコンテンツ産業にとって、数少ない“輸出ビジネスの成立する”分野である可能性が高いのだから。
(2010年 5月 28日)