笠原一輝のユビキタス情報局

ジャストシステムに聞く、Arm版ATOKの正体。NPUでもっとかしこくなる未来も

ジャストシステムのATOKがArm版Windows 11に対応(出典: ジャストシステム)

 ジャストシステムの「ATOK」が次期バージョン(Tech Ver.36)から、Arm版Windows(WoA)に対応する。このことは、日本におけるArm版Windowsの互換性問題が1つの区切りを迎えたことを象徴する出来事だと言ってよい。

 Arm版Windowsには、Microsoft標準のIMEとして「Microsoft IME」がバンドルされており、すべてのアプリで動作する。それに対して、ATOKのようなサードパーティのIMEでは、x32やx64といった従来のx86命令環境下では動作するが、Arm64にネイティブ対応したアプリでは動作しなかった。

 そうした問題に対応すべく、今回ジャストシステムはATOKのArmネイティブ版の提供を開始する。これが意味することは何か?ジャストシステムやQualcommの関係者に取材した内容を基に説明していく。

OSの重要な機能であるIME、文書作成を仕事にする人にはその効率が大きな味方に

現在はサブスクリプションとして提供されているATOK(出典: ジャストシステム)

 Windows OSにおいてATOKのようなIMEは、それ自体が1つのアプリとして動作している。しかしそれだけだと、ほかのアプリに文字を入力しようとした際に、IMEで文字変換したあと、いちいちそれをアプリの表示位置にコピーするといった手順を踏むことになる。

 そこでWindowsでは、IMEとアプリの間を取り持つ仕組みとして「Text Services Framework(TSF)」が用意されている。TSFは、IMEが変換した文字列や変換候補などをアプリの入力場所に表示し、確定した文字列をアプリに入力する役割を果たしている。こうした仕組みがあることで、サードパーティのIMEであっても、手書き入力や音声認識といった機能を実現するとともに、ユーザーに文字入力方法の選択肢を与えることを可能にしている。

 筆者は本連載でも何度か触れている通り、ATOKのヘビーユーザーだ。ATOKユーザーがよく聞かれるのは、「Windows標準のMS-IMEではダメなのですか?」ということ。一般ユーザーがMS-IMEで十分だという点に関して、筆者としては何も異論はない。しかし、筆者はプロの記者として、どういう文字を使ったらいいかを考えながら原稿を書いている。

 記者の世界では用字用語の統一というのがあり、筆者は事実上の国内業界標準である共同通信社の「記者ハンドブック」に合わせている。ATOKにはこの記者ハンドブックに基づいたIME用の辞書が別売されており、筆者も活用している。いちいち紙の本や電子書籍で確認するよりも、ATOKの辞書として使う方が圧倒的に早いからだ。

 ATOKには、医療や建築など、オプションの辞書が充実しており、物書きとしてはそのメリットは大きい。

 ちなみに筆者は、毎年2月ぐらいにATOKのサブスクリプションを更新する前に、辞書の学習内容を移したMS-IMEとATOKを利用して、同じ文章の入力時間を比較して、どの程度の差があるかを測っている。

 今のところ、毎回ダブルスコア以上の差で、ATOKの方が早く入力できているため、毎年契約を続けている(もちろん、MS-IMEの方も最適化して筆者が慣れていけばもっと早くなる可能性があるし、ATOKの方は筆者の特性に合うように設定を最適化してあることはお断りしておく)。筆者は比較的筆が速いと自認しているが、その理由の1つがATOKを使っていることだと考えている。

 また、倍の速度で書けるということは、収入がその分増え得るということだ。そういったことが毎年8,000円弱を支払う正当な理由となっている。

Arm版Windowsの登場以来ずっと使えなかったATOK。その問題はArmネイティブアプリへの対応

ジャストシステムのATOK、現行バージョンはTech Ver.35

 このようにATOKを必要としている筆者にとって、これまでArm版WindowsでATOKが使えないという問題は、Arm版Windowsを採用したデバイスへの移行を検討するときに、大きな壁になっていた。ATOKが使えないのに、Arm版Windowsに移行するというのは、筆者にとっては下手をすれば文章制作での生産性が半分になってしまうということを意味する。

 本連載でこの問題を最初に取り上げたのは、2019年に登場したSurface Pro Xのレビューの時だったと思う。6年前から、Arm版Windowsを語る時にデメリットの1つとしてATOKが動かないことをずっと指摘してきた。

 しかし、11月25日の報道発表で、次期ATOKがようやくArm版Windowsで動作するようになると明らかにされた。

 現行バージョンのATOK(Tech Ver.35)をArm版Windowsにインストールした場合、どのように動作するかを表にすると、次のようになっている。

【表1】Arm版Windowsにおける、アプリの命令セットとATOKの動作状況(筆者作成)
アプリの命令セットATOKの動作状況
x32(x86-32bit)
x64(x64-64bit)
Arm64EC(Arm64/x64)
Arm64×

 Arm版Windowsでは、OSのコードはArm64と呼ばれる64bitのArm ISA(命令セットアーキテクチャ)で構築されており、実行できるアプリもArm64のコードで書かれている必要がある。しかし、それだとx86アプリが動かないため、x86命令をArm64に変換して動作する「バイナリトランスレータ」が標準で搭載されている。

 このバイナリトランスレータは初回読み込み時に、x86命令をArm命令に変換するキャッシュを作成し、2回目以降の起動時にはそれを読み込んで高速に実行できるようになる優れた道具だ。Windows 11にはその最新版である「Prism」が実装されており、動作が高速化されている。

 ATOK(Tech Ver.35)は、x32/x64、つまりは32bitと64bitのx86アプリだ。そのため、Arm版Windows上ではPrismによりArm命令に変換されて動作している。ここからは各パターンを見ていこう。

 ①と②のパターンではATOKは問題なく動作できる。シンプルにアプリとATOKがどちらもPrismが働いているからと理解できるだろう。

 ③のArm64ECはやや複雑で、Arm64ECに対応したアプリは、Arm64とx64の両方のコードを含んでいるハイブリッドのコードになっている。たとえば、Microsoft 365のローカルアプリ(Word/Excel/PowerPointなど)のようなx64のアプリで、プラグインなどは引き続きx64のものを使いたいが、必要なところだけはArm64ネイティブにしたいといった場合には、Arm64ECのアプリにして提供できる。この場合、WordやExcelなどのアプリ本体はx64のままなので、ATOKはPrismを通じてWordやExcel上で利用できていた。

 問題だったのは④で、たとえばすでにArm64にネイティブ対応していたMicrosoft Edgeなどのケースだ。この場合は、Prismを利用してもATOKは動作できない。前述のように、WindowsのIMEは、IME→TSF→アプリと連携して動作するが、TSFがPrismに対応していないためか、それとも別の理由かまでは定かではないものの、x64のATOKからArm64のネイティブアプリには文字入力ができない。これがTech Ver.35までの状況だった。

 Edge、Chrome、FirefoxといったWebブラウザはすでにArm64ネイティブ版が提供されている。特にEdgeに関しては標準でArmネイティブ版が導入されているため、それをx64版に切り替えることは(通常の手段では)できなくなっている。つまり、Edgeを使っているユーザーは、ATOKを使っていると文字入力ができないので、その時だけMS-IMEに切り替えて利用する必要があったのだ。

Armネイティブ版のプログラムを追加してArm対応を果たしたATOK

株式会社ジャストシステム ソリューションストラテジー事業部 企画開発グループ セクションリーダー 椋本佳範氏(写真提供: ジャストシステム)

 株式会社ジャストシステム ソリューションストラテジー事業部企画開発グループセクションリーダーの椋本佳範氏によれば、今回ジャストシステムが「Arm版Windows対応」と表明しているのは、具体的には上述の④に対応したという意味になるという。

 椋本氏によれば「今回のArm版Windowsへの対応に対しては、Arm64ネイティブ版のプログラムが必要になり、それを追加したという形になる。一方で、x86のアプリへの対応も必要になるため、x32、x64それぞれのプログラムも提供している」とのことだ。

 つまりArm版Windows向けATOKでは、x32版、x64版、Arm版という3つの実行プログラムがそれぞれ用意されており、x32版が①を、x64版が②と③を、Arm版が④をカバーする形になる。この④向けにArm64版のプログラムが追加されたことが、今回のアップデートの大きな目玉となるわけだ。

 といってもすべてがArmネイティブになったというわけではなく、周辺のモジュールなどはx64のままだという。というのも、すべてをArm64にしてしまうと、今度はx64やx32といった①から③のアプリで利用できない機能が出てきてしまう。x32やx64のアプリでも、Arm64のアプリでもシームレスに利用できるようにするための措置だという。

【表2】アプリの命令セットとArm対応ATOKの動作プログラム(筆者作成)
アプリの命令セット担当するATOKのプログラム
x32(x86-32bit)x32版
x64(x64-64bit)x64版
Arm64EC(Arm64/x64)x64版
Arm64Arm版

 「弊社としてはArm版Windowsをサポートするときに、これまでのx64版Windowsでの体験と同じユーザー体験を実現したいと考えた。稼働保証する上ではそれが重要だ」(椋本氏)との通りで、従来のx32/x64アプリとの互換性を確保するためにそうした設計になっているのだと説明した。

 ATOKは、変換エンジンと呼ばれるメインのプログラム以外にもさまざまな周辺プログラムが用意されている。たとえば、ATOKイミクル、ATOKアトカラ、ATOK Sync、辞書ツールなど実に多彩な外部プログラムがあり、それらをATOKと組み合わせて利用することで詳細なカスタマイズなどが可能になっている。

 それらのツールの多くはx64版のままになっており、Prismを利用してArm64命令に変換されながら実行されることになる。椋本氏によれば、すでにArm版Windowsのデバイスなどでテスト済みで、ユーザーにとって十分に実用であることが確認されているという。

 なお、ジャストシステムは変換エンジン自体のx64対応は大分前に終えており、2024年6月のアップデートで周辺ツールのx64移行を実現していたという。そうした準備を終えていたことも、今回のArm版Windowsへの対応にとって追い風になったということだった。

ATOKのArm対応を加速したのは「Snapdragon X Elite」という「鶏」の登場

Snapdragon X Elite

 こうしたATOKの対応だが、ユーザーとしてはもう少し早くできなかったのか、というのが率直な感想だ。椋本氏は「弊社としては、製品をいつ提供するかというのは、顧客がどれだけ必要としているかに向き合って決定している。その顧客の声という要望の強さと、x64版のATOKと同じユーザー体験を提供できるという2つのバランスをとった結果、今回のタイミングになった」と説明した。

 要するに、従来はかなりニッチなニーズだと考えられていたのだが、直近の状況の変化で、ニッチなニーズだけではなくなってきたとジャストシステムでは判断したということだ。

コンシューマ向けSurface ProはArm版Windowsのみが搭載されている

 その変化とは、x86プロセッサを上回る性能の「Snapdragon X Elite」をQualcommが投入し、それがMicrosoftのコンシューマ向けSurface Pro/Surface Laptopなどに採用したことだ。これにより、日本では量販店で販売されるSurfaceシリーズがSnapdragon搭載製品だけになり、普及度が高まっていったからだ。

 椋本氏も、店頭でもATOKをArm版Windowsに対応してほしいという声が高まっていったため、対応を決断したという。

クアルコムCDMAテクノロジーズ PC Business統括本部長 井田晶也氏

 Qualcommの日本法人でPCビジネスの統括を行なっているクアルコムCDMAテクノロジーズ PC Business統括本部長 井田晶也氏は、「Qualcommとしてもソフトウェアの互換性の問題に関しては、特にここ1~2年積極的に取り組んできた。トップ200と呼ばれるユーザーの95%が使っていらっしゃるようなグローバル展開されているソフトウェアに関してはすでに対応が済んでいる。

 その次の段階として各国独自のニーズに取り組んでいる状況で、日本語という複雑な言葉を変換することに取り組んでこられたジャストシステムと一緒に問題解決に取り組んできて今回発表に至ったことを喜ばしく思っている。実は弊社の本社でも、この問題は日本でのSnapdragonベースのPC普及における大きなハードルだと考えていて、今回ジャストシステムが対応を発表されたことを非常に喜んでいる」と話す。

 井田氏によれば、ジャストシステムがArm版Windowsに対応するにあたって、対応デバイスや開発キットの提供など技術支援を行なったという。

ATOK Sync Oneは6月に投入、スマートフォン用OSでの対応が拡大

ATOK MiRA(出典: ジャストシステム)

 今回ジャストシステムは「ATOK MiRA(My Intelligent Rewrite Assistant)」、そして「ATOK Sync One」という2つの新しい機能を、Arm版Windows対応とは別にTech Ver.36の強化点として発表している。いずれもArm版Windows向けATOKでも利用できる。

 ATOK MiRAは、生成AIの機能(具体的にはクラウドのLLM)を利用した文書作成支援ツールで、ATOKで文字入力を行なっている時に特定キーを押すことで起動し、入力中の文章、ないしはすでに入力済みの文章をAIにアシストしてもらって書き換えられる。ATOK MiRAがユーザーの文章の傾向などを学習するので、より自分らしい文章を少ない操作で入力できる。

 便利だなと感じたのは、ATOKの設定(プロパティ)のうち区点や読点、変換補助の送り仮名、カスタムATOKの設定、ATOKのマンスリーリポートから入力文の傾向などを参照してくれることだ。たとえば送り仮名などのルールを参照してくれるので、表記の揺れも防ぐことができそうだ。

ATOK Sync One(出典: ジャストシステム)

 もう1つは「ATOK Sync One」。現在、ATOKの同期ツールとして提供されている「ATOK Sync AP」の後継版となり、2026年6月から提供開始予定だ。ATOK Sync APでは、Windows/macOSでは「変換辞書の学習情報」「確定履歴」「登録した単語」「削除した単語」「お気に入り文書」の同期ができ、Windowsではそれに加えて「プロパティ(環境設定)」の同期(ただし、同期できるのは一部の設定のみ)も可能となっていた。

【表3】ATOK Sync Oneの機能(ジャストシステムの資料より作成、一部筆者加筆)
ATOK for WindowsATOK for MacATOK for Android[Professional]ATOK for iOS[Professional]
変換辞書の学習情報New ※1New ※1
確定履歴NewNew
登録した単語New
削除した単語NewNew
お気に入り文書--
プロパティ(環境設定)※2---

※1)標準辞書セットのユーザー辞書が対象、※2)ATOK Sync APと同じ一部設定

 それに対して、Androidでは登録した単語の同期が、iOSでは登録した単語の読み込み(同期データからiOSデバイスへの片方向)のみが可能となっていた。

 今回のATOK Sync Oneでは、Android OSとiOSにも同期機能が拡大され、Windows、macOS、Android、iOSという4つのプラットフォーム間で、学習情報などを相互に同期できるようになる。筆者の知る限り、日本語IMEでこれを実現しているのはATOKだけだ。

 なお、従来のATOK Sync APでは、利用時にジャストシステムが運営するクラウドストレージ(InternetDisk)に登録して、その無償ストレージの容量の範囲内で利用する必要があった。しかし、今後は非公表のセキュアなクラウド環境にユーザーデータが保存されることになるので、ATOK Sync APを初めて使う際のInternetDiskへの登録は必要なくなり、ジャストシステムのIDとパスワードを入力するだけで自動的に利用できる。

 椋本氏によれば「InternetDiskの無料ストレージを利用するという立て付けだったため、辞書のサイズなどによっては容量を超えてしまい使い勝手がよくないというお声をいただいていた」とのことで、ストレージ容量の制限から解放されるのがユーザーにとってのメリットだという(容量の上限などに関しては公表されていない)。

 ただし、Windows環境でプロパティ同期が一部の設定に限られるという現状の制約はATOK Sync Oneでも変わらないそうだ。

 それでも、InternetDiskの容量制限がなくなったということは、現在は同期されていないような設定情報も将来的には同期できる可能性が出てきたとも考えられる。その意味では今後の対応に期待したいところだ。

NPUとローカルAIでもっとかしこくなる?新たなATOK体験も検討中

ATOK for Windows Tech Ver.36は26年2月2日より一般提供開始(出典: ジャストシステム)

 なお、今回ジャストシステムではサブスクリプション型ATOKの「ATOK Passport」に関して、従来の月額330円のベーシックプランを廃止し、月額660円または年額7,920円のプレミアムプランのみの料金体系にすることを明らかにした。すでにベーシックプランは廃止され、プレミアムプランの月額ないしは年額のみが契約できるようになっており、実質的な値上げと受け止められている。

 ジャストシステムの椋本氏は「来年の2月に提供させていただく予定のTech Ver.36では、MiRAやATOK Sync Oneなどのさまざまなアップデートを提供する計画で、それに合わせてATOKが提供する価値に見合うような製品ラインアップにすべきだということで、今回の形になった」と説明する。

 筆者個人としては、もともとプレミアムプランを契約しており、すでに述べた通りビジネスの生産性向上に大きく貢献してくれているので、年額8,000円弱という価格は決して高くないと考えている。一方で、一般のユーザーにとっては高いと感じられるても無理はない。

 なお今回、ジャストシステムとしては異例なことながら、将来のATOKの開発方針に関しても語っている。椋本氏は、「今回提供を開始するATOK MiRAはクラウドベースのAIで提供しているが、将来的にはSnapdragon Xシリーズなどに搭載されているNPUを利用してローカルで処理するような、新しいATOKのユーザー体験というのはありうると考えている」と述べ、NPUを活用した機能を開発する意向を示した。

 もちろんそれがどんなことを意味するのかは、現時点では明確ではなく、具体的な製品の計画などが語られたわけでもない。しかし、たとえばATOKの変換エンジンがLLMやSLMのような言語モデルを内蔵し、ローカルのNPUで演算しながら前後のコンテキスト(文脈)を理解しつつ変換していく……そんな機能が実現するのだとしたら、日本語変換の世界も一気に変わってくる可能性があると言える。

 ATOKの次期バージョンとなるTech Ver.36は、2026年2月2日より一般提供が開始される予定だ。筆者としては、今までArm版Windowsを購入することに対し、ATOKがないということで大きな疑問符が付いていたが、今後はそれが外れることになる。

 筆者のような半導体を専門としている者にとって、x86かArmかというISAは重要なことだが、それを別にして、いちノートPCユーザーとして考えれば本来それはどうでもよいことだ。ATOKがArmに対応することで、今後ビジネスノートPCを検討するときに、性能やバッテリ駆動時間、あるいはデザインといったほかの要素でx64のノートPCも、ArmのノートPCも選択できるようになる。そうした時代になったことを、心より歓迎したいと思っている。