笠原一輝のユビキタス情報局
見えてきた「Photoshop CC for iPad」の正体
~差分だけを更新していく“クラウドPSD”も解説
2018年10月19日 12:28
Adobeは、10月15日~10月17日(現地時間)の3日間に渡り、クリエイターツール「Adobe Creative Cloud」に関する年次イベント「Adobe MAX」を、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルスにあるロサンゼルスコンベンションセンターにおいて開催した。このなかで同社は「Photoshop CC for iPad」を発表。従来の機能限定版Photoshopモバイルアプリとは異なり、ほぼフル機能を持つPhotoshop CCをiPad向けに投入する。
Photoshop CC for iPadはどのようなソフトで、クリエイターはどのように使うことができるのか、Adobe MAXの期間中に取材した内容を元に考察していきたい。
従来はCCの入り口として、おまけ的な扱いだったモバイルアプリ
Photoshop CC for iPadの技術的な背景を理解する前に、CCを使ったことがないユーザーには対し、CCユーザーの“常識”をまず共有しておこう。
AdobeはPhotoshop CC for iPad以前にも、モバイルアプリを提供してきた。だが、これらのソフトウェアはPhotoshopの一部の機能が利用できるだけになっており、Photoshop SketchではPsのブラシが使えるようになっているが、レイヤーやPSDファイルが扱えない。
そのため、ちょっとした下書きに関しては使えるけど、自宅で作業していたPhotoshopファイルを、出先でモバイルアプリで開いて編集するという使い方には向かず、別のツールを利用する状況になってしまった。つまり出先でペンを利用したいのであれば、WindowsデバイスやMacを選ぶしかない状況で、クリエイターに多いApple系のデバイスを活用しているユーザーがiPad Proを買っても、Adobeのアプリは実質的使えない状況が続き、クリエイターから不満が上がっていた。
これは、もともとAdobeのモバイルアプリが、CCの「入り口」と位置づけられていたことが大きく影響している。現在のAdobeの出力製品であるCCは、デスクトップアプリ+クラウドというかたちで発展してきた。モバイルアプリは、将来的にCCへアップグレードしてもらえる潜在的なユーザーに対して、無償ながら機能限定というかたちで提供され、フル機能を使うにはCCのサブスクリプション契約が必要。このため、CCのモバイルアプリは機能が限定されていたのだ。
だが、2017年頃からじょじょにこの状況は変わりつつある。というのも、Adobeは新世代のアプリに向け、クラウドの機能をより効率よく使えることができ、かつマルチプラットフォーム展開を容易にするアプリの開発プラットフォームを導入してきた。これらのアプリはCCのなかで“角が取れたアイコン”で表示されている。10月15日にアップデートされたアプリで該当するのは「XD CC」、「Lightroom CC」、「Premiere Rush CC」、「Dimension CC」の4つだ。
こうした新しい開発プラットフォームでは、CCの代表的なクラウドの機能であるAdobe Senseiを利用した機能が実装されていたり、クラウドのストレージをよりよく活用できるようになっていたりする。
わかりやすい例として挙げられるのが、Lightroom CCとLightroom Classic CCを比較だ。前者は新開発プラットフォームベースのアプリになっており、後者は従来型のWin32およびmacOSアプリではあるのだが、前者ではクラウドストレージの機能をフルに使え、Adobe Senseiを利用した機能も多い。それに対して後者は、長い間かけてバージョンアップされてきたので機能が多く、従来バージョンのユーザーにとっては使いやすい。
たとえば、Lightroom CCには、クイックコレクションなどの写真の順番をカスタムで変更する機能がないし、書き出しの出力時にファイル名を何らかのルールに沿って付け替えたり、解像度を細かく設定する機能がないなど、使い勝手の点でClassicに劣る部分が少なくない。
しかしながら、新開発プラットフォームベースのXD CC、Lightroom CC、Premiere Rush CC、Dimension CCは、OSに依存する部分を除き(たとえば、iOSにおけるファイルの扱いなど)は別にして、基本的にデスクトップアプリとモバイルアプリで同じ機能を実現している。つまり、元々1つのコードを開発すれば、マルチプラットフォーム(Windows/macOS/iOS/Android)へと展開することが容易になるように設計されているのだ。
これにより、クリエイターはiOSだろうが、Androidだろうが、Windows/macOSのデスクトップと同じ機能を利用できるので、電車の中で立って使うときにはiPhoneやAndroidのスマートフォンで、出先のカフェでちょっと手を入れるときにはiPad Proで、自宅に帰ってきたときには、Windows PCかMacで作業するという使い方が可能になったのだ。
Photoshop CC for iPadは新世代開発プラットフォームで作られる
では、今回発表されたPhotoshop CC for iPadとは何かというこの記事の命題に戻りたい。ここまで読んできて、勘のいい人はもうおわかりだと思うが、そのヒントはPhotoshop CC for iPadのアイコンだ。これを見ればわかるように、角が取れたアイコンになっている、つまり、これも新しい開発プラットフォームベースのソフトウェアということだ。
このことについてAdobe上席副社長兼CTO(最高技術責任者) アベイ・パラスニス氏は「Photoshopはとても多くの熱心に支持していただいているお客様がいて、ブラシやレイヤーなどそうしたお客様が必要としている機能がある。そこで、Photoshop CC for iPadではデスクトップアプリとエンジンを共有し、新しいGPUアーキテクチャを活用やAdobe Sensei機能の実装といったモダンな機能を付加して、かつPSDファイルやブラシ、レイヤーなどを使えるようにしている」と説明した。
つまり、Windows版やmacOS版のコードの中からコアになるエンジンを、新しい開発プラットフォームへと移植してできあがったのがPhotoshop CC for iPadだ。今後はiPadだけでなく、iPhoneやAndroidに展開することも可能になるはずだ。Adobeはこの点は何も明言していないが、「時間の問題」と考える方が自然だ。
となると当然次に湧いてくる疑問は、新しいコードベースのPhotoshop CCから、ほかのプラットフォーム、たとえばWindows版やmacOS版を作ることはしないのかということだ。将来は2つのPhotoshopのコードを1つにするのかという筆者の質問に対して、パラスニス氏は「ある意味ではすでに1つになっている。我々はクラウドPSDという次世代のPhotoshopファイルを導入しており、これを利用することで、同じファイルをどのプラットフォームでも同じようにレイヤー、ブラシなどを開くことができる。我々はこれをマルチサーフェスシステムと呼んでいる」と答えた。
つまり、クラウドPSDというPSDファイル形式の最新版を、デスクトップアプリでもPhotoshop CC for iPadでも導入しており、そのクラウドPSDでプラットフォーム間の差を吸収できるため、今の時点では1つのコードに統一する必要はない、というわけだ。
この背景には、Photoshopがじつに30年に渡り熟成されてきたソフトウェアであることも影響していると考えることができる。Adobeは基調講演でPhotoshop CC for iPadを開発にするにあたり、その30年に渡って開発されてきたPhotoshopのコードを見直したと説明したが、それはすでにAdobeの中にももうオリジナルのコードを書いたエンジニアは誰もいないということではないだろうか。30年という時間は、会社にいる関係者が全員入れ替わるには十分な時間があり、そのなかで同じような機能を、新しい開発プラットフォームに移植するのは相当な苦労だろう。
実際Adobe関係者に聞いてみると、Photoshop CC for iPadは数年というかなり長い時間をかけて開発したソフトウェアだということが伝わってくる。それでも、おそらくPhotoshopのすべての機能を実現しているわけではない。おそらくこれから長い時間をかけて、デスクトップアプリのPhotoshopに追いつき、その段階で統合されることになるのだろう(開発コストや開発期間の観点からも2つが併存するのはいいことではないからだ)。
クラウドPSDはプロキシではなく、差分だけを更新する効率の良いクラウド対応PSDフォーマット
最後に、Photoshop CC for iPadで導入されるクラウドPSDとは何かということに触れておきたい。Adobe CPO(最高製品責任者)兼Creative Cloud担当上席副社長のスコット・ベルスキー氏によれば、クラウドPSDはPremiere Rushなどで導入されているプロキシ(Proxy)の仕組みは導入されていないという。
ここでいうプロキシとはファイルのうち全部がダウンロードされてくるのではなく、キャッシュとして動作するような一部がダウンロードされてきて、それをもとに編集するという仕組みだ。
Adobeのソフトで言えば、Lightroom CCやLightroom Classic CCはクラウドにおかれた写真ファイルのうち、「Smart Preview」という一種の縮小版ファイルをダウンロードしてきて、それを編集し出力するさいに、完全版のファイルをダウンロードして出力するという仕組みだ。
ベルスキー氏は「クラウドPSDはPSDの最新版で、クラウドに対応したもので、デスクトップでもモバイルでも同じように開くことができる。プロキシを利用するのかと言われればそうではない。ファイルに変更があった場合、クラウドのファイルとは差分だけをやりとりしていく仕組みだ。このため大変効率が良いシステムになっている」と述べ、クラウドPSDはデータをキャッシュするプロキシではなく、最初にファイルのダウンロードは発生するが、アップロードする時に差分だけをアップロードする仕組みだと説明した。
以上のように、Photoshop CC for iPadはAdobeのモダンな開発プラットフォームと、30年の積み重ねとなるPhotoshopのノウハウを1つにマージしたソフトウェアで、これによりAdobe SenseiなどのAI/マシンラーニングをデスクトップアプリよりもよりよく活用できるようになっている。そして、クラウドPSDが導入されることにより、Photoshop CC for iPadとデスクトップアプリのPhotoshopをシームレスに利用することができる、これがメリットだということができる。
これまではデスクトップアプリでないと仕事にならないというクリエイターが大半だったと思うが、Photoshop CC for iPadの登場により、おそらくそれは大きく変わっていくことになるだろう。自宅や事務所などではSurface StudioシリーズやiMacのようなデスクトップを利用して作業し、そして出先ではペンに対応したSurface ProシリーズのようなWindowsタブレットやiPad Proを本格的に活用していく、そうした時代がもうすぐそこまで来ているのだ。