山田祥平のRe:config.sys

ミドルレンジフラグシップというややこしさ

 現時点で必要十分な性能を持つデバイスをリーズナブルな価格で手に入れるか、多少値段は高くても、近い将来確実に必要になるであろう性能への先行投資と見なすか。デバイスを新しく手に入れるときには、いつもそれを悩む。無尽蔵にカネがあれば悩む必要がないところだが、価値感は人それぞれだし、現実問題としてそういうわけにはいかない。

今は誰も困らない5Gの切り捨て

 Xiaomiがエントリー向けのスマートフォン「Redmi Note 11」を発売する。エントリーとはいうものの、同社では、このデバイスをミドルレンジフラグシップと位置づける。いわば中の上である。ハイエンドスマホが装備する機能や性能を積極的に取り入れつつ、特定の装備をバッサリと切り捨てることで手に入れやすい価格を実現しているという。

 もっともこのRedmi Noteシリーズのグローバル版には、5G版やPro版といったラインアップが提供されている。最下位の無印Note 11だけをリリースするというのは、日本に向けた独自の戦略のようだ。

 この考え方は、一歩間違うと、まるで使いものにならないデバイスを作ってしまう。この製品では、今なくても困らない要素として、5Gを切り捨てているところがポイントだ。まるで、このスマホで想定されているライフサイクルに5Gはなくても困らないといわんばかりだ。

 実際、5Gのサービスエリアはどんどん拡がっているが、一般的なスマホのユーザーが、その恩恵を受けられているかというとまだまだだ。ミリ波を堪能できるスポットも限られているし、MVNOとMNO網との接続についてもボトルネックが存在し、なんちゃって5Gにすぎなくなってしまっている。実際の使い勝手としては、少なくとも現時点ではLTEと5Gでそう大きな違いはなく、5Gはなくても困らないとするのも納得がいく。

 ちなみにモバイルネットワークの世界は奇数世代が先鞭をつけ、偶数世代がそれを洗練させるという歴史的な傾向があるようで、3Gに対する4G LTEがそうだったように、5Gも6Gへの布石になるようなムードがある。

 モバイルネットワーク各世代のライフサイクルは10年程度とされているが、次の6Gは少し早まるとも言われている。今回の無印Redmi Note 11は5Gを切り捨てたが、普通にスマホを使う分には当面LTEで特に困ることはないのだから、それを切り捨てても安くした方が歓迎されるだろうというマーケティング戦略をとったということだ。

 少なくともあと1~2年はそれで正しい。でも、その先は分からない。

ミドルレンジフラグシップは「できる」し「困らない」

 無印Redmi Note 11は、SoCがSnapdragon 680、メモリは4GB、ストレージは64GBだ。実際に使ってみると、一般的なSNSを使ったりする分には特に困らないことが分かる。ストレージについてもクラウド利用でなんとかまわせる。

 ただ、4GBのメモリというのはアプリを切り替えるたびに、かなり待たされる感がある。アプリをサクサクと切り替えて使うようなことはまず無理だ。Xiaomi機にはメモリ増設という機能があって、ストレージをメモリに見せかけて増設する機能もあるのだが、それでもどうにもならない印象だ。

 また、高スペックを要求する最新ゲームでなくポケモンGO程度の負荷でも、プレイにひっかかりがあって、ちょっと萎える。だが、それで十分だというユーザーもたくさんいるだろうし、何よりも、これだけの実用性が2万4,800円という価格で手に入るということが、現在のスマートフォンの世界を象徴していて歓迎するユーザー層が確実にいる。

 また、今auが懸命にやろうとしていて、2年後あたりにそれに続くドコモとソフトバンクによる3Gネットワークの停波などで起こるデバイスの入れ替えに、こうしたレンジの製品は少なからず貢献するにちがいない。つまり、ミドルレンジフラグシップは当面継続的なトレンドとなる。

 「できる」「できない」でいえば「できる」し「困らない」。スマホのようなデバイスに多くを求めないユーザー層は、通話とメールができれば十分だと考えるユーザー層であると想定されてきた。

 ところが、Redmi Note 11を実際に手に取って使ってみると、着実に想定ユーザー層の要求レベルが上がっていることに応えていることが気が付く。これで困らないユーザーは、カジュアルにスマホを使うユーザーの大多数を占めるだろう。

 性能の違いが体験に与える影響もあるということを知らない、知ろうとしない人々だ。彼らは、自分はデジタルに疎いから安くて性能の低いもので十分だと考える。

 一方、最近、TVドラマや映画などを見ると、真っさらで美しい状態のスマホを使っている若い世代というのをあまり見かけなくなっていることに気が付く。これはおそらく自由になるカネの問題だろうけれど、スクリーンにひびなどが入った状態でそのまま使う「割れスマホ」が当たり前に近いような印象だ。演出だとしてもそのほうがリアルだ。

 10万円を軽く超えるスマホには無縁どころか、割れスマホを修理するカネももったいないと考える層が現実としてかなりの数存在し、愛機を使える限りは使って、どうしようもなくなったら、最低限の投資で別の製品を買い替える。ハイエンド機をリセールバリューのあるうちに高値で売って次を買う、という面倒くさいことをするのは本当に一部のユーザーだけになりつつある。それともこれからびっくりするようなウルトラC施策がキャリアから提案されるのだろうか。

リッチな未来の体験を失わないために

 スマホとPCは新しい暮らし方、働き方、遊び方の両輪だ。どちらが欠けても上手くいかない。そのことを、この2年以上を過ごしたコロナ禍が具体的な実体験として教えてくれた。

 それまでの世界観は、片肺でも大丈夫というものだった。だから、若い世代は10万円超のPCを購入するのはためらっても、10万円超のスマホは欲しいと思ったりもした。もっとも、キャリア等の施策によって、そんなに高額投資をすることはなかったし、当時のゼロ円施策などを思うと、今のミドルレンジフラグシップスマホについた価格でも、まだ高く感じられているのだろう。

 スマホとPCの両方にコストをかけるのは大変だ。しかも両方とも、一家に一台とはいかないパーソナルな存在だということにも気が付いた。

 PCの世界では、高性能を要求するキラーアプリの登場が期待される状態が続いていたが、ゲーミング以外の出口がまだ見えない。かろうじてビジネスの世界ではオンライン会議アプリが高性能を要求するくらいだ。マシンラーニングがこれからどうなるかが気になる程度だ。

 スマホも、ボリュームゾーンがこのままミドルレンジ一色になると、将来的なサービスやアプリについても影響が出てくる可能性がある。エンドポイントに高い処理性能を求めず、ミドルレンジの性能でも十二分に実用性を確保することが求められることで、アプリやサービスの可能性や方向性に抑制方向の制限が生じ、未来の体験がプアな方向に歪んでしまうかもしれない。

 高性能が廉価で手に入ることは大歓迎だが、その背景には複雑な事情もある。何もかも手放しでは喜べない。今まで以上に、より高性能を求める動機を生み出す必要がありそうだ。