山田祥平のRe:config.sys

写真、それは光が描いた絵、スマホではAIが描く絵

 カメラつきケータイが世に出てほぼ20年が経過した。「写メール」が写真つきメールの代名詞となり、「写メする」という動詞は今なお健在だ。だが、それを取り巻くテクノロジーは想像を絶するほど変化している。Huaweiが発表したスマートフォンの新製品P30シリーズは、その果てしない世界を、また1つ塗り替えた。

光が描いた絵、それが光景

 写真は光が描いた絵だ。Photographという言葉はまさにそのことを意味する。その絵に及ぼす人為などたかがしれている。コントロールできるパラメータは絞りとシャッター速度くらいのものだ。最近はそれに感度(ISO)が加わったかもしれないが、それは明るさを持ち上げるゲタにすぎない。

 その一方で、スマートフォンのカメラが弾き出すのはAIが描いた絵だ。こちらはPhotographというよりもPictureだ。このことは、今の時代、誰も写真は撮らなくなり、あらゆる人々がPictureを残すようになったことを意味する。

 Huaweiのスマートフォンに搭載されているカメラ機能はライカとの協業によるものだ。その分業の詳細は明らかにされてはいないが、ライカが哲学を提供し、Huaweiが技術でそれを現実のものにするといったイメージではないだろうかと個人的には思っている。

 フランス・パリで開催されたP30シリーズ発表イベントの翌日、写真関係者が集まって新製品について語り合うパネルディスカッションが開催された。そのパネラーの1人がライカのDr. Flolan Weller氏(Optical Desinger and Technical Lead of Smartphone Camera System)だった。

 ディスカッションは、個々のパネリストが技術、マーケティング、哲学、歴史といったさまざまな観点から、Huaweiがいま、現実のものにした新製品のカメラ機能を語るというものだった。カメラが銀を使って光景を閉じ込める道具として使われるようになってまだ200年に満たないのだが、この現代における写真の業界とスマートフォンの業界、双方の考え方が聞けて興味深いものだった。

コンシューマが選んだAIの道

 Huaweiでは、スマートフォン写真にはAIが介在し、それはコンシューマの選択によるものだという。AIが誰もが好むであろう写真を描き出す。これはある意味でARにも似ている。ARはリアリティにさらに情報を付加するが、スマートフォン写真は情報が付加された写真であるという。写真の業界は、それをあまりよしとしないように見える。

 たとえば、昔は夜に写真を撮ろうとは思わなかった。そこにはフィルムの限界が立ちはだかり、限られた光景しか残せなかったからだ。だが、それをテクノロジーが変えた。ストロボは太陽の追加だが偽りの太陽で、そこにもともとある光を残すには向いていないが、そこにある光をかきあつめることができれば撮影が成立する。

 そして、スマートフォンのカメラはどこまでできるかをHuaweiは追求し始めた。ハードウェアだけではないソリューションとして、確固とした目標があるわけではなく、できることを全部やるというスタンスのように見える。

 一方、協業しているライカはカメラ/レンズのベンダーだ。Huaweiはスマートフォンのカメラ機能のためにライカが必要だった。それは、カメラや写真についての知見や哲学をかつてのHuaweiが持ち合わせていなかったからだ。

 だが、ライカはHuaweiの技術をライカカメラのために必要としているのだろうか。そもそも、カメラとスマートフォンのカメラ機能はどう違うのだろう。

ワンストップで得られる理想に近い絵

 パネルディスカッションのあとでライカのWeller氏と少しだけ話ができた。

 ぼくが聞きたかったのは、Huaweiがライカを必要としたのと同じように、ライカはHuaweiを必要としているのかどうかということだ。ライカがHuaweiロゴが配されたカメラを製品として提供することがあれば、それで喜ぶコンシューマもいるはずだ。だが、Weller氏は、スマートフォンのカメラ機能とカメラ専用機はまったく異なるものだと断言する。大口径のレンズを使い、スマートフォンのセンサーとは比べものにならないくらいに大サイズのセンサーに露光する。それが前提のカメラ専用機と、スマートフォンの目指すところはまったく異なるというのだ。

 誤解をおそれずにいえば、スマートフォンのカメラ機能にあるのは大衆への迎合だ。世の中の商業写真の多くは、人為によって成立する。写真家がレリーズするだけでは写真は完成せず、その先、大衆が写真を目にするまでに、途方もない作業が待っている。大衆は、ありのままの真実を見たいわけではないからだ。だが、スマートフォンは、撮影者がレリーズした直後に、ワンストップで写真を完成させなければならない。

 ちなみに、ライカはHuaweiの力を借りて、同じ絵が得られるカメラを作る気はあるのかとWeller氏に尋ねてみたところ、それはトップシークレットだとお茶を濁された。

 故・樹木希林による「美しい方はより美しく、そうでない方はそれなりに写ります」というフジフイルムのCM(1980~)における名台詞は、まさに、写真にAIが介入する時代を先読みしていたように思う。もちろん当時はAIはなかった。せいぜいカメラは露出を弾き出すためのAEを持つ程度で、このアルファベットのAはアーティフィシャルではなくオートマティックのAだった。オートの目。すなわち自動露出にすぎない。

 それでも人は、「美しい方はより美しく、そうでない方はそれなりに写ります」を求めたのだ。フジフイルムの製品にベルビアというリバーサルフィルムがあるが、くすんだ景色も鮮やかにするそのビビッドな描写はまさにその延長線にあるものではなかったか。フィルムの時代にも、人は、ワンストップで美しい写真を手に入れる願望を持っていたのかもしれない。

新しい写真のルールはHuaweiが作る

 Huaweiは、今回のP30シリーズで「写真のルールを書き直す」というスローガンを打ち出した。計算によるイメージングプロセスを駆使し、光学だけでは無理なことを現実のものにしようという宣言だ。このアプローチは、それをソフトウェアのアルゴリズムで解くGoogleのPixel 3の実装がよく知られているが、Huaweiは、光学と計算機工学の合わせ技だ。

 写真に色を塗るというペインティングに近い作業であれば、AIで何とかつじつまを合わせるというのがGoogleがめざす方向性で、これはこれで素晴らしい成果を生んでいる。とにかく写っていればなんとかするというのがGoogleのソリューションだ。

 それに対して、Huaweiはスマートフォンという限られたスペースしか確保できないデバイスに、少しでも贅沢な光学要素を実装しようと欲張っている。モビリティ確保のための妥協は仕方がないが往生際は悪い。Googleの潔さはあっぱれだが、Huaweiの執念も崇高だ。

 とにもかくにも、今回のP30シリーズで、われわれは、スマートフォンというデバイスに、前代未聞の16mmからの50倍ズームと最高ISO感度409,600を手に入れた。これはスペックだけを見れば、人智を超えるまなざしの確保に値する。そのまなざしが写しとった光景を「そうでない人はそれなりに」描き上げるAI。手ブレ補正さえAIが助ける。

 発表会でステージに立ったHuaweiのコンシューマーグループCEOリチャード・ユー氏は、スマートフォン写真のことを「モバイルフォトグラフィー」と称していた。大判カメラに大口径レンズでしか得られなかったかもしれない「絵」を、35mm、いわゆるライカサイズのフィルムを使う小型カメラで得られるようになったのと同じか、それ以上のことが、いま、手のひらサイズのスマートフォンが実現しようとしている。いつもいうことだが、長生きはするもんだ。