山田祥平のRe:config.sys

書を捨てるな、書を変えよ

 世のなかには2種類のコンテンツがある。時間軸のあるコンテンツとないコンテンツだ。動画や音楽などは作る側が時間軸をコントロールし、書物は読む側が時間軸をコントロールできる。今、世のなかはあらゆるものが時間軸のある動画側にシフトしているが、本当にそれでいいのかどうか。

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 1日は24時間だ。それは誰もが受け入れなければならない事実でもある。そのうち10時間を睡眠や入浴、食事などに費やしたとして残りは14時間。忙しければ睡眠を削るなり、食事をしながらコンテンツを消費したりしなければならない。

 コンテンツをたくさん消費すれば、それは残りの人生に確実に役に立つ。人生のなかで、いかに多くのコンテンツを消費できたかは、その人の人生を左右するかもしれない。そのコンテンツ消費の多くを動画視聴に費やすことははたして得策なのだろうか。

 たとえば「人が犬を噛んだ」というニュースがあったとしよう。犬が人を噛んでもニュースにならないが、その逆なのだから、なんだかおもしろそうだ。

 これがTVニュースだとするなら映像を流しながら経緯を説明するだろう。現場に中継が入り、レポーターがイラストフリップで状況を説明したりする。近所の人が「そんなことをする人だとは思わなかった。普段は……」などとインタビューに応えたりもする。場合によっては、その時現場周辺にいた一般人がスマートフォンで撮影した決定的瞬間の動画が流れたりするかもしれない。素材のそろい具合にもよるが、たぶん2分間くらいはもつはずだ。そしてこれは確かにおもしろい。

 一方、これが新聞記事だとどうか。5W1Hをきちんとおさえた文章がおそらく1,000字もあれば多すぎるくらいだ。その1,000字を読むのに、速い人なら10秒ちょっとだろうか。遅い人でも1分あれば十分だろう。

 同じニュースを把握するのに、10秒間と2分間。この差は大きい。

パッケージと時間の束縛

 YouTubeのようなオンデマンドサービスは、コンテンツをバラバラにすることに成功した。ニュース番組なら、複数本のニュースを並べてまとまったパッケージにするのが当たり前だったが、バラバラになっていれば、興味をひくニュースだけをつまみ食いできる。見たくないニュースは見なくてもいいわけだ。

 その代わりに「偶然」が排除されてしまう。ダラダラとつけっぱなしでTVニュースを眺めていて、たまたま流れたニュースに興味をひかれることの可能性が低くなるわけだ。

 新聞だって同様だ。新聞を1面の最初からページをめくりながら丁寧に全文読む人はまずいない。見出しを飛び飛びに目で拾い、興味をひいた記事だけを読む。紙の朝刊を読むという行為でも、速い人もいれば遅い人もいる。それは興味の範囲が広くて読む記事が多いかどうかというよりも、記事を読む速度に依存する。

 ものごとにはバランスも大事なので、あらゆる動画コンテンツを否定するわけではないが、すべてが動画にシフトしてしまうと、人間がかぎりある時間しか持たない以上、一生の間に得られる情報の総量は、結果として減ってしまうのではないか。

 昔から、本をたくさん読みなさいと言われてきた世代の1人として、TVを見るのも楽しいし、それはそれで勉強にもなると思ってきたが、先人の忠告は間違ってはいなかったかもしれないと今になって思う。

画面と版面

 コンテンツ消費のための時間を有効に活かすには、消費の時間軸をコントロールできる書物をいかに速く消費するかを考えるといい。電子書籍はそのコントロールに大きく貢献する。

 じつは、きちんと理解しながら文章を速く読める人は、ブロックで文章を読んでいる。確かに、文章を目で追っているのだが、なんとなくもう1つの目が、読み終わった部分を見ているのだ。

 今読んでいる部分がなぜそういっているのかを、既読部分を参照しながら自分自身を納得させている。よく、ページをめくったとたんに前のページのことを忘れてしまい、そのつながりを確認するためにページを戻したりするが、それと同じことだ。

 そのためにはちょっと多めに既読部分が目に入るほうがいい。

 電子書籍では、文字のサイズや行間などが自由になるし、デバイスの画面サイズごとに一度に表示できる文字量も自由にできる。その自由を手に入れるために、ぼくらは書籍の装丁やレイアウト、質感などを楽しむことを捨ててしまったわけで、そこには賛否両論があるにせよ、もう紙の書物をas isで読むのがつらくなっている老いた目には電子書籍はありがたい。

 先日、Amazonから新型のKindleが発表されたが、その画面サイズは6型だ。このサイズは文庫本より小さい。今、Kindle端末には、無印、Paperwhite、Oasysの3種類があるが、最大画面サイズのOasysでも7型だ。気になって身の回りのデバイスや本の判型サイズを調べてみた。

  • Kindle 6型 : 90×120mm
  • Kindle 7型 : 105×140mm
  • 13型(16:9)ノートPC : 167×296mm
  • 10型タブレット(16:10) : 134×217mm
  • 文庫 : 105×148mm
  • 小B6判(コミック) : 112×174mm
  • 新書版 : 103×182mm
  • 四六判 : 127×188mm
  • B5判(週刊誌・一般雑誌など) : 182×257mm
  • A4 : 210×297mm

 ざっと実測してみたものだが、ぼくらが慣れ親しんでいる書物に匹敵するサイズ感を得るためには、Kindleでは物足りない。さらに、老いた眼は、実寸を拡大することを要求する。それでも小さなKindle端末で本を読むのは、E Inkの圧倒的な文字の読みやすさがあるからだ。個人的に、Kindleがなかったら、もう本を日常的に読むのはあきらめていたかもしれない。

 長い歴史を持つ紙の書物は、どう読まれるのかを吟味してサイズが決まったのだろう。現代社会で日常的に使われているデバイス類が、その紙より、ひとまわり小さいものばかりなのはなぜなのだろうか。

 もちろん15型や17型クラスのノートPCはあるし、ディスプレイ単体であれば24型超も当たり前だ。でも、それを使って本を読むというのはちょっと違和感がある。6型前後のスマートフォンで、コミックを十分に楽しめるデジタルネイティブの世代は違うかもしれないが、それが、紙の書物の時代を長い期間過ごした世代の性でもある。

コンテンツ成立のためのメタファー

 TVの時代になっても新聞が残ったのは、そのモビリティによるものだ。いつでもどこでも読めるから移動中の時間もコンテンツ消費に使うことができる。

 かつてのTVは一家に一台、お茶の間に据え置かれて、家族全員で楽しむ存在だったが、今はそうじゃない。スマートフォンのおかげで、TVでさえモビリティを確保し、しかもオンデマンドになった今、動画コンテンツはかつてのそれとは別物になっているかもしれない。

 それでも時間軸をコントロールするのが送り手側であるという事実だけはどうしようもない。その束縛を最低限にし、浮いた時間を文字の消費にまわすことを考えたい。

 ただ、逆に、分厚い書籍に詰め込まれた文字を完読しなければならない書物は効率が悪いという考え方もあるだろうし、そもそも映像と書物では得られる情報量が圧倒的に違うというのも正しい。

 また、読まれるデバイスが紙からディスプレイに変わってきているのを知りながら、あいかわらず紙の呪縛から逃れようとせずに、コマ割からはじめてタブレットでマンガを描く作家も少なくない。

 コンテンツを取り巻く状況はいろんな側面から変わってきている。それを消費する道具として、過去の偉大な功績をメタファーに電子化するフェイズはそろそろ終わりでもいい。

 コンテンツを作る側も、コンテンツを見せたり読ませたりするデバイスを作る側も、そして、それらからコンテンツを得る側も、コンテンツのあり方を再考し、将来の自分にとっての最良の方法論を模索していってほしいと思う。