山田祥平のRe:config.sys

らくらくスマホって本当に必要か

 若者には若者の、シニアにはシニアに使いやすいインターフェイスがある。だが、その常識は崩れつつもある。高齢化社会に突入し、じつは、シニアのほうが若者よりもデジタルに慣れ親しんでいるケースもあったりする。これからの社会では、そうした状況も考慮しなければならない。

じつはかんたんじゃないかんたんスマホ

 Y!mobileが「かんたんスマホ」を発表した。同社をMVNOと言っていいのかどうかは別として、メガキャリア以外では初めてのチャレンジだという。同社ユーザーの約2割を占めるという60歳以上の顧客、顧客になるであろう層に向けた施策の一環だということだ。

 このスマートフォンには「押すだけサポート」というアプリがプリインストールされていて、それを開くだけでサポートにつながり、疑問を解消できるという。また、AI的な工夫も盛り込まれ、そのとき、ユーザーがなにに困っているのかを推測し、それを解消するためのアドバイスも表示されるという。

 つまり、この端末の強みは、操作が簡単なことではなく、困ったときに、すぐにそれを解決できるという点にある。操作が簡単じゃないかと言えば、決してそうじゃない。だが、操作そのものは慣れだし、慣れることができるかどうかに年齢はあまり関係ない。

 実際、こういう職業をしていると、人からスマートフォンの操作を尋ねられることが少なくないのだが、相手が使っている端末がiPhoneやAndroidならともかく、らくらくスマホやガラケーだったりすると困ってしまうことも多い。わけがわからないのだ。人間が考えたとは思えないユーザーインターフェイスの工夫にでくわすこともある。

 となると、日常的に慣れ親しんでいない環境なので、あれこれさわってみないとよくわからない。きっと5分もいじくりまわせばなんとかなるとは思うのだが、他人の端末なので、あまり奥深くまでさわってしまうのも気が引ける。そして相手をがっかりさせてしまうわけだ。

 困りごとを短時間で解決する最良の方法は、人と同じ環境を手に入れることだ。そうすればまわりに同じ環境にいる人がたくさん見つかるし、その隣人に尋ねればたいていの問題は解決するだろう。

 その人がわからなくても、ほかの人に聞いてもらえるかもしれない。デジタルインターフェイスを難解だと感じているエンドユーザーが求めているのはそこだ。実際、Y!mobileによれば、60歳以上のユーザーのサポート要求は数が多いものの、それほど複雑なことを聞いてくるわけではないという。

 じつは、記者会見で、老人を切り捨てて、それで浮いたコストを、若者の獲得に使ったほうがビジネスとしては儲かるのではないかと尋ねてみたのだが、同社としては、新たにシニア向けの端末を開発したり、そのサポートを拡充するコストは、それほど大きな負担ではないという答えが返ってきた。

UIを規定するものとは

 老人はばかじゃないし、子どもだって同じだ。老人用、子ども用、女性用、男性用というククリでユーザーインターフェイスを異なったものにするのは本当に正しいことなのだろうか。

 とはいえシニアの身体的な衰えは否めない。わかりやすいのが老眼だ。とにかくスマートフォンの文字が小さすぎて読むのがつらいと思っているユーザーは多い。逆に文字が大きすぎて情報量が少ないと感じる若者もいるようだ。文字サイズへの不満は年齢を問わないということだ。

 たとえば、iOSでは文字サイズを10段階で変更できるほか、文字を太くしたり、さらに拡大表示を指定できる。また、Androidはディスプレイサイズに依存する面もあるが、基本的にフォントサイズと表示サイズを個別に指定できる。

 OS的には柔軟だが、そのサイズが忠実に反映されるのは、システム標準のアプリや設定画面等で、サードパーティ製アプリはいい加減だ。今、老眼に悩むシニアに必要なのは、らくらくスマホではなく、らくらくLINEやらくらくTwitter、らくらくFacebookなのではないかと思うくらいだ。

 でも、LINEやTwitter、Facebookはみんなが使っていて、もはや、これらのアプリなしにはスマホライフは成り立たない。だから、文字が小さいと嘆きつつも、そのいやがらせのような文字サイズと戦い続けているわけだ。それでもみんなが同じアプリを使っているからこそ、困りごとはすぐに解決する。

 同様のことは、たとえばドコモの専用ホームアプリなどにも言える。ちょっと違った使い勝手を提供するのはいいが、それで混乱することのほうが多いことをなぜ想像できないのか。

 ユーザーインターフェイスに関しては、壊滅的にデジタルインターフェイスが苦手な若者もいるわけで、年齢とは関係がない話だ。だからこそみんなと同じ「標準」が求められるし「標準」こそがコミュニケーションの前提となるプロトコルになる。OSが規定すべきは、APIだけではなく、こうした部分も含まれる。

おばあちゃんのiPhone

 本当はおばあちゃんもiPhoneを使いたいかもしれないし、若者だって渋いらくらくフォンを使いたいかもしれない。高校生の間で長財布がはやっていると聞いて、なんとなくそういうことを思ったりもした。

 幸い、スマートフォンはそのほとんどが画面がついただけの四角い板だ。ソフトウェアによって制御できる部分がほとんどだ。老人には物理ボタンが必要だなんて誰が決めたのだろう。必要なら物理ボタンと同じように機能するソフトウェアボタンを装備すればいい。

 iOSでもAndroidも、OSそのものはアクセシビリティに関して、かなりのリソースを割いていると感じている。これは、標準のアプリ、たとえばメールなどをちょっと試して見ればよくわかる。OSでの設定を忠実に守っているからだ。これについては素直に敬意を表したい。

 ところがアプリがこれらを無茶苦茶にしている。アプリは各OSのストアの審査を経ているのだから、こうしたことは本来あってはいけないはずなのだが、どうにもそこのところがうまく機能していない。それでも、周りのユーザーがみんな使っているから、自分もそれを使う。そうしないと電話して使い方を家族や知人に相談するのも難しくなってしまう。じつに悲しい話だ。

 今必要なのはユニバーサルであるということだ。じつに難しいテーマだがそこにチャレンジしてほしい。スマホアプリのみならず、書籍や雑誌などでも言えることだ。

 まるで読まれることを否定しているかのように読みにくい版面を見かけると、アートディレクターやデザイナーは、いったいエディトリアルデザインをなんだと思っているのだろうと疑問を感じることがある。美しさとわかりやすさ、読みやすさの両立は無理なのだろうか。それとも読まれることを否定していると感じるほうが古いのか。

 こうした状況になってしまっている背景には、インターネット前史にはなかった検索文化の台頭がある。かつては、ちょっとヒマがあれば書店に立ち寄り、そこに平積みされた雑誌などを手に取ってパラパラとめくり、気になる記事があれば、その雑誌を購入、自宅に戻って、ほかのページを含めてじっくりと目を通していた。コンテンツを提供する側のオーディエンスセグメンテーションに忠実にしたがっていたとも言える。

 インターネット以後はそうじゃなくなった。検索ワードを入力してピックアップされたページを順に見ていく。そこには若者向けのサイトとか、老人向け、男性向け、女性向けのサイトという概念は希薄だ。気になるコンテンツがあれば、サイトの性格とは関係なく、コンテンツを直接開いてそれを読む。もはや、そこには年齢や性別では推し量れない嗜好がある。

 こういうことをしていたら、デジタルコンテンツは、たぶん、今後エディトリアルデザイナーの手の届かないところにいってしまうだろう。エンドユーザーが自分の読みやすい見かけでコンテンツを楽しむようになるだろう。それこそAIがそれを引き受けてくれる。

 誰もが同じ環境を使うというのは確かに画一的でつまらないことかもしれない。けれども同じ環境であることの長所を保ちながらの差別化はできるはずだ。もうこれ以上、亜種のスキンを増やして混乱を招くのはやめにしてはどうなのか。