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レノボ・ジャパン設立10周年、歴代ThinkPadがズラリと並ぶ
~レノボのこれからについて事業戦略説明会が開催
(2015/11/11 21:04)
レノボ・ジャパンは11日、設立10周年を記念した事業説明会を開催し、IBM時代からの軌跡を振り返るとともに、これからの事業戦略についての説明を行なった。
PC好きにとって、レノボ(IBM)と言えば「ThinkPad」であり、その堅牢性や使い勝手などから多くのファンを生んできたブランドである。説明会の冒頭ではレノボ・ジャパンの取締役副社長を務め、ThinkPadの生みの親でもある内藤在正氏が登壇。同氏は1974年に日本IBM株式会社の藤沢研究所に入社し、コンピュータの開発に尽力してきた。
内藤氏はThinkPadの歴史を5つの世代に分けて説明し、1992年から1999年にかけての第1世代は、1992年に発売した初のトラックポイント搭載ノートPC「ThinkPad 700C」が反響を呼んだことを挙げた。しかし、ある時オーストラリアの顧客から見るも無惨な壊れ方で戻ってきた700Cにスタッフ全員が愕然とし、当時では70万円もする製品であり、きっと大切に使ってもらえると思い込んでいたというその時の心境を語った。この時に内藤氏に誰がどのような使い方をしてもストレスを感じないようなPCでなければならないとの考えが生まれ、どこまでやったら壊れるのか、機械ではなく機械の向こう側にいるユーザーを見て開発するというThinkPadの文化が築かれるきっかけになったという。
第2世代となる2000年から2004年は多様化したシリーズの操作方法などの統一が図られた。内藤氏は当時のIBM会長に新しいThinkPadを手渡した際に、感謝を伝えられるとともにどうして毎回電源スイッチの位置が変わるのかという疑問を投げかけられたそうだ。これによって機種間の整合性が欠けているという事実を認識し、ブランドの再定義に着手した。この時期の日本は不況に入っており、ユーザーからは性能ではなく低価格なものを求められていた。また、Pentiumの8W/16W/24Wモデルが登場し、冷却機構の大型化が避けられず、ノートPCの設計が難しくなってきており、辛い時代だったとその時の状況を振り返った。
2005年から2009年の第3世代はイノベーションの時期であり、2005年に日本IBMのPC事業はレノボへと移籍した。この時はThinkPadがなくなってしまうのではないかというThinkPad愛好家たちからの多くの声が届き、そうはならないということを示すために尽力した。堅牢性試験ラボを作り、どうやったらPCが壊れなくなるか、アメリカの大学に1週間張り付き、学生がどのようにノートPC扱い、壊すに至るかなどを研究。ThinkPadは堅牢性だけでなく、冷却能力や操作性といった面での改良が進められた。
2010年の第4世代では第3世代の取り組みが功を奏し、ThinkPadの優位性が高まった。レノボ時代の9年間で7,500万台のユニットを出荷し、IBM時代の12年間では2,500万台の出荷量だったとのデータを示し、飛躍の時期となった。
そして、2012年以降から現在までを第5世代とし、多様化の時代に見合うPCを届けるべく、軽量化、小型化、ディスプレイ開発だけでなく、新しいフォームファクタの創出などを進めているという。内藤氏はこれからも横浜と米沢の日本チームで一体となり、レノボ製PCを牽引していくとの今後の取り組み方について述べ、スピーチを締めくくった。
次に、レノボ・ジャパンの代表取締役社長を務める留目真伸氏が登壇。レノボはこの10年でPCシェア世界1位になり、25四半期連続でシェアを伸ばしているとの実績を示した。同氏はこれからの取り組みについて、これまで遂行してきた“パーソナルコンピューティング”を人々の生活や業務に浸透させていくという本来のビジョンは変わらないとし、これからもPCに注力していくという方向性を明らかにした。
ただし、個人および法人でのデジタルライフ/デジタルワークの浸透がそれほど進んでいないとの現状を語り、レノボは日本のIT活用力を引き上げるべく、「DREAM」(Digital Revolution for Empowering All Mankind)構想を立ち上げ、2020年までの実現に向けて取り組んでいくという。グループや他業界、自治体などとの共創を推進していくもので、留目氏は地方創生といった地域の活性化や、デジタル化推進による都市への貢献、政府・自治体のコミュニティ創設など、パーソナルコンピューティングの普及のために、共創という新しいフレームワークで取り組んで行くと言い、これからのレノボの取り組みを示した。