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富士通はいかにして鉛筆と紙の書き味をタブレットで実現したのか

「ARROWS Tab Q508/SE」

 日本国内の文教市場において、実に66%ものシェアを誇る富士通クライアントコンピューティング(FCCL)。そのシェアを支える代表的な製品がWindowsタブレットの「ARROWS Tab Q508/SE」だ。10.1型ワイド液晶を持つ文教市場向けのタブレットで、そのペンを使った鉛筆感覚の書き味には定評がある。その書き味を追求したのが、同社の「Mr.タッチパネル」こと加藤豊広氏(開発本部プラットフォーム開発統括部デバイス開発部 シニアマネージャー)だ。

文教向けに鉛筆と紙の感覚を求めて

 FCCLの製品開発が機種ごとに各コンポーネントの担当を置いてきた体制を見直し、コンポーネントのカテゴリごとにその開発を統括するMr制を導入していることは、以前のレポート(「史上最低のキーボード」の汚名返上に向け、富士通の"Mr.キーボード"が0.05mmにかけた執念)でも紹介したとおりだ。

 いわばマエストロのような存在として、担当コンポーネントに対するすべての責任をおう人物をおく。そして、すべてにおいて、そのマエストロの感性が優先されるのだ。「LIFEBOOK UH75/B3」のキーボードは、その制度のもと、Mr.キーボードとしての藤川英之氏によって、キーボードを一から見直したのは記憶に新しい。

 今回のマエストロはMr.タッチパネルこと加藤豊広氏だ。

富士通クライアントコンピューティング開発本部プラットフォーム開発統括部デバイス開発部 シニアマネージャーの加藤豊広氏

 加藤氏は、1999年に富士通に入社し、直近で企業向けタブレットを担当するようになるまでは、2011年にWindowsケータイ、2012年にナノイー搭載ノート、2013年に大人PCの商品化に関わり、2017年からはタッチパネル、液晶、デジタルペンの担当になっている。

 加藤氏は言う。

 「デバイスだけをやっていると顧客の顔が見えなくなるんですね。どういうものが求められているのかがわからなくなってしまうのです。たとえば、コンシューマーにはあまりタッチパネルは受け入れられていないのが現状です。コンシューマ市場は、タッチパネルの価値を価格として認めてもらいにくい市場と考えています。

 今回の取り組みのきっかけとしては文教向けのタブレットでペンを使うモデルを作るにあたり、書き心地をアピールしていこうというチャレンジをすることになりました。そこで考えたのが、液晶表面をすべるペン先の感覚を、鉛筆と紙に近づけることでした。そのアナログ感覚をどうすればデジタルに落とし込むことができるかがポイントです」。

 ペンを液晶上で走らせるとき、摩擦曲線がその書き心地を左右する。いろいろと工夫して作ってはみたものの何か違うと考えた加藤氏は、まず、振動に着目した。ただ、その振動のために液晶表面にザラツキをもたせると透過率が落ちてくる。それを下げすぎずに書き心地をあげるにはどうすればいいのか。

 今回は、文教向けのタブレットなので鉛筆と紙の感覚を実現するが、同社では、ボールペン感覚も追求している。これまた鉛筆と同じアプローチではうまくいかない。

スタイラスでいかに鉛筆と紙の書き心地を再現するかが今回の課題だった

 「筆記の速度によって摩擦係数が変わるんです。だから違うパラメータを持たせることが必要になります。しかも、書く速度は初速と異なるんですね。もっと言えば、ボールが回る感覚はまだできていないので暗中模索といったところでしょうか。海外では基本的にはボールペンなので何とかしたいとは思っているのですが」。

 現時点では鉛筆かつボールペンを両立するペンは無理というのが加藤氏の判断だ。だが、その前にさらなる改善をしなければならないのが鉛筆と紙の書き味だ。

鉛筆のような書き味ってなんだ

 加藤氏によると、タブレットのタッチパネルについて、現行機種と次の機種くらいのスパンでは、なにがどのようになっているかは、ある程度見えているという。そういったなか、タッチパネルの素材やコントローラについては他のメーカーも差別化できないというジレンマに陥っている。

 また、書くさいに起こるレイテンシもソフトウェアやOSのレベルでかなり改善してきているため、競合他社に追いつかれてしまっていて、大きな差別化にはならない。だが、FCCLが得意とする小学生向けの文教タブレットについては、どんなことがあってもそのシェアを死守するための方法論を確立しなければならない。

 試行錯誤の繰り返しのなかで、鉛筆のような書き味は見えてきた。当初は硬さとしてHBを想定して作ってきたが、2Bあたりのやわらかめの鉛筆を使う子どもが増えてきたことも判明し、そのためのレシピも検討中だという。

 「かつては大人用PC、子ども用PCといった区別はなかったですよね。でも、今は違います。それに、ターゲットを限定したほうが売りやすいという面もあります。「人に寄り添う」製品が求められています。使ってもらう人にどう響くかを考えたときに、大学生向けのPCがそうであるように、ターゲットが決まっているほうがウケがいいんです。それに開発する側の研究もやりやすいですし」と加藤氏。

 調査・研究のなかで、小学生は、さほどしっかり書かないことも判明した。また、ユーザーや営業・販売サイドからのフィードバックの1つとして、書くことをメインにせずに、クリックや選択をペンで操作する場面が少なくないこともわかってきた。そこではペンの良さがいかされていないが、授業の形態自体がそうではなくなっているのだ。

 さらに小学生はペンで遊ぶ。文教モデルはペン先が壊れることが多いのはそのためだ。持ってしまうとつい遊んでしまうのだという。

 そこで、固いペンの先にミゾなどの細工をして、やわらかい芯と同じ感じを実現しようともしてみた。だが、加工するときに角度的に20度くらいにしかできないことがわかった。ほとんどの人の筆記用具の握り方は30度程度なので、せっかくの加工の効果がなく、チャレンジはふりだしに戻る。

協力企業リンテック社に技術を求めて

 加藤氏が鉛筆と紙の書き味の実現のために協力を求めたのがリンテック株式会社だ。粘着素材を得意とする企業で、その製品は、シール・ラベル用の粘着紙・粘着フィルム、ガラス飛散防止対策フィルム、液晶関連部材など多岐にわたる。もともとは、国内ではじめてガムテープを量産し、その製造・販売を開始した不二紙工がその前身だ。

 「鉛筆と紙の書き味をタブレットで実現したい」。

 Mr.タッチパネルである加藤氏からのオーダーに、リンテックの開発チームは驚いた。なんとも曖昧で、そして実現できているのかどうかを数値的に判断するのも難しい。

 タッチパネルの表面は飛散防止対策フィルム(Anti-Shatter Film: ASF)で覆われている。このフィルムはハードコート加工を施したフィルムや粘着剤などで構成されている。表面にあるハードコートが書き味を左右することになるが、飛散防止対策フィルムとしての物性と高い外観品質を維持したままで書き味という要素を付加する必要がある。

 リンテックの星野弘気氏(研究所製品研究部光機能材料研究室)は言う。

リンテック研究所製品研究部光機能材料研究室主任の星野弘気氏

 「飛散防止対策フィルム(ASF)は表面の硝子が割れたときに、その破片が飛散しないようにするためのフィルムです。フィルムの再表面にハードコート層があり裏に粘着剤層があります。今回は、このハードコート層に性能を付与することで、高い外観品質を維持したまま書き味を実現することを考えました」。

 星野氏によれば、鉛筆と紙の組み合わせによる書き味再現の必要性を説く加藤氏は「書き取り学習やデジタルアートなどの場面で、書き味が悪く、繊細な筆記が困難である現状を打破し、紙に鉛筆で筆記した書き味をタッチペンで再現したい。しかも小学生向け」というだけで、それ以上の具体性はなかった。それだけが、加藤氏のオーダーだったと当時を回想する。

 オーダーを受けたリンテックでは、研究員が集まって議論を重ねた。そして着目したのは筆記時の抵抗感、振動感、摺動音だった。すぐにハードコート設計とペン先材質を検討し、ハードコートはすべりやすさ、すべりにくさを考慮して素材を検討、一方、ペン先材質は、POMが高硬度、さらにフェルト、エラストマーと順に硬度が低くなるが、その組み合わせを徹底的にテストする必要があることを認識した。

 いずれにしても、まずは、抵抗感の定量化が求められる。従来の摩擦係数の測定は金属板をひっぱる方法で行なわれてきた。ただし、それではパネルの上のペンというリアルなものの測定ができないため、新しい測定方法のための治具を開発した。その治具を使うことで、従来の摩擦測定装置を使ってペンを直接ひっぱり摩擦係数を測定できるようにしたのだ。

ペンの摩擦係数などの測定を行なう治具も、1製品のために新たに作った
計測の様子

 ちなみに紙と鉛筆を測定すると0.2くらいの摩擦係数であることがわかる。それよりも係数が小さいと滑って書き味が悪くなるし、大きくてもペンがひっかかって書き心地が悪くなる。とにかく摩擦による適度な抵抗感が良好な書き味を実現する。

 振動感とはなにか。リンテックでは筆記時の振動感には振幅があることをつきとめたが、振幅量と書き味には相関性がないことがわかった。それでは何が書き味に相関性を持つのか。リンテックで筆記時の振動周波数解析をしたところ、紙と鉛筆は1Hzから2Hzへの周波数に特徴的なピークを持ち、そこを逸脱すると書き味が崩れることから、周波数成分に書き味との相関性があることがわかったという。

 人間の書いた感覚とデータの比較を繰り返しながら研究開発は進められた。その間、リンテックの星野氏ら、研究所のある埼玉県蕨市からFCCLのある武蔵中原からまで足繁く通った。また、評価用サンプルも何十回とやりとりされた。

 その数知れないやりとりを経て、加藤氏は、最終的にペン先材料については3つにまで絞り込み、あとはハードコートの設計でチューニングしてほしいという決定をした。

 リンテックでは、標準ラインナップのなかから、薬液の配合量や表面の形状でチューニングを行ない、要望にこたえられるものを探そうとした。だが、完成することはとうとうなかった。

 そこで、新しい微粒子材料をもってきて配合、過去の実験データなどを参考に測定して、よさそうなものができたところでFCCLに見てもらう。その繰り返しを行なった。

フィルムもさまざまな性質のものを検証、試作した

 さまざまな機能の付与は、溶剤にとけた材料を塗布することで実現されている。塗布後、溶剤を除去し、膜を硬くするための硬化工程を行なう。その結果としての外観の品質が厳しく、製品化するのが難しかったと星野氏は当時を振り返る。

 「そういうことは得意ではあったはずなのですが、なかなか加藤氏のオーダーに届かなくて……」(星野氏)。

究極の書き味とは

 加藤氏がリンテックに鉛筆と紙の書き味実現を求めたオーダーを入れたのは2014年の秋頃のことだ。

 「ここまで書き味にこだわることは今までありませんでした。でも、新しいチャレンジにあたって、この分野にいちばん力を入れているベンダーを使おうとしたんです。それがリンテックでした」と加藤氏。

 リンテックの佐々木遼氏は研究開発過程を振り返り、「膨大な量の試作品を作りましたね。もう処分してしまいましたが、数百枚に達していたはずです。簡単にラボでつくったものをみんなで研究するための素材です。光学フィルムということなのですが、ここまで書き味にこだわった要望を受けたのははじめてじゃないでしょうか」と語る。

リンテック研究所新素材研究部素材設計研究室主任の佐々木遼氏

 問題も起こったと星野氏。

 「摺動試験というのですが、あるコーティング剤を使ったときに、摺動した跡がついてしまい、それがふきとってもふきとれない現象に悩まされました。そこで添加剤を配合するなどの工夫が必要でした」。

同じ場所でペンを繰り返し使い続けると、摺動した跡が残ってしまうなどの課題も発生した

 「最終的には量産しなければならないんです。そこまでを想定して開発していただく必要がありました。今、現行製品のほぼすべてがリンテック製なのは、それだけのものを彼らが作ってくれたということの証でもあります」と加藤氏。

 新コーティングは2015年の夏に完成した。加藤氏がオーダーをリンテックに入れてから1年弱である。普通は顧客に詳細なデータを開示することはあまりないそうだが、FCCLについては別と星野氏は言う。また、FCCL側でも、実際に小学生に鉛筆で書いてもらって測定したデータをリンテック側に渡した。

 加藤氏が納得する最終版ができあがるまでには挫折しそうなトラブルもあったという。

 「どの粒子をどのくらい配合するかを検討するなかで、書き心地が良くても、画面がにごってしまうことに気がついたのです。粒子が少なければ透明になるのですが、それでは書き心地が悪くなってしまいます。材料としては、一般的にはシリカを使いますが、添加剤に何をどのくらいつかっているかは専門家が見ればわかります。でも、そこをつきつめるには繰り返しのトライが必要です」と星野氏は振り返る。

 「音にも苦労しましたね。使う添加剤の方向性をまちがってしまうと、不快感を与えるような甲高い音が出てしまうんです」と佐々木氏。

FCCLの要求を満たした完成版。完成まで1年近くかかった

 こうして完成した現在のタブレット。見事に鉛筆的な書き心地が実現されている。

 加藤氏の次の目標はやはりボールペンだ。振動の大きさが鉛筆と違う上、ボールの回転の振動や、鉛筆とちがってインクなのでぬめっとした感覚などをハードコートで実現するのはかなり難しいという。

「また評価方法を探す旅のはじまりですね」と星野氏。「目隠しをして書いても同じ感覚というようなところまではいっていないのですが、最終的にはそこまでいきたいという目標はありますね。測定器も横方向の検出だけでなく、たくさんのセンサーで検出したデータを調べてみたいです」(星野氏)。

 目下のところ、あまりにも書き味のいいペンは、ペン先が減りすぎる傾向にあることもわかってきたようだ。つまり、書き味と摩耗耐性の両立も課題のひとつだ。加藤氏らの旅はまだまだ終わりそうにない。