山田祥平のRe:config.sys

今変えなければいつ変えるWindowsのフォント

 時計から大画面TV、ホワイトボードまで、あらゆるデバイスを1つのWindowsでカバーするMicrosoftの構想は、日本の文化をさえ左右する力を持っている。だからこそ、それが負の方向に引っ張られることはあってはならない。もう遅すぎるかもしれないが、まだ間に合うかもしれない。その時考えるべき筆頭はフォントの問題だ。

ふぉんとに大事なフォントの話

 1週間ほど前に、日本マイクロソフトがWindows 10 の法人ビジネスの最新情報に関するプレスラウンドテーブルを開催、業務執行役員 Windows & デバイス本部長の三上智子氏が近況を説明した。その席での質疑応答において、日常的にWindowsに関して感じている疑問をぶつける機会があった。

 その中でぼくが同社に尋ねたのは、日本マイクロソフトが日本語Windowsのフォントについて本気で良くしようと思っているのかということだった。三上本部長はフォントについてはさらなる改善に向けて継続的に努力しているし、本社にも頻繁にレポートしているとし、各方面の事情もあるので一概に今が駄目とは言い切れないが、見ていて気持ちの良いフォントは最重要課題の1つとして考えていると表明した。

 このラウンドテーブルがあった日の夕方、Twitterで投票を募ってみた。24時間後の最終結果は次のようになった。「Microsoft」が「Mirosoft」になっているのはあとで気が付いてお恥ずかしい限りだが投票が始まっているので治す術がなかった。

 ぼくの力及ばずで、827票と母数が少ないが大体の傾向は分かると思う。OSに美しさなんていらないと思っているユーザーが多かったのは意外だったが、Windowsが美しく思われていないという点は明らかだ。

 個人的には、IMEの充実も重要かもしれないが、フォントはもっと重要な問題だと思っている。そして、既存のフォントを美しく表示させることよりも、そのフォントデザインの根底に流れる考え方をもう一度議論すべきではないかと思ってもいる。

 Windows 10のNovember Updateでは、フォントレンダリングが改善された(記事へのリンク)。でも、プリクラじゃあるまいし、盛ればいいってもんじゃない。レンダリングでいくら盛っても、元がダメならダメさが余計に盛られるだけだ。

UIフォントの功罪

 そもそも、Windowsのフォントに違和感を感じるようになったのは、今を遡ること20年前のことだ。Windows 95が発売され、新たなフォントとしてMS P明朝、MS Pゴシックが標準フォントとして搭載されるようになったのだ。それまでは、日本語TrueTypeフォントの元祖としてWindows 3.1以降に搭載されていたMS明朝とMSゴシックが使われていた。Pはプロポーショナルを意味する。つまり、文字幅を文字ごとに調整してあるフォントだ。

 このフォントによって、欧文と日本語が混じるのが当たり前の和文内の欧文が一気に読みやすくなった。欧文は文字ごとに幅が異なるプロポーショナルフォントが当たり前だったからだ。例えば、「i」と「X」の幅が同じだったとすると一気に読みにくくなるのは想像に難くない。

 だが、問題は、P系フォントがそのプロポーショナルを日本語にまで持ち込んでしまったところにある。

 さらにWindows 98ではMS UI Gothicがデビューした。このフォントの本来の目的は、諸悪の根源とも言われた1Byteカナ、いわゆる半角カナを2Byteの全角に置き換えることにあった。さらに、メニュー項目などの限られたスペースにより多くの文字を詰め込むことができる。UIはユーザーインターフェイスの頭文字だ。だが、それによってひらがなとカタカナの文字幅はグンと狭くなってしまい、内部的には2Byteでも、見かけは半角のままのような印象を与えるようになった。これが当時から言われている字面の不揃い感だ。

 2006年のWindows Vistaではメイリオフォントがデビューした。これはうれしかった。プロポーショナルなのは欧文だけになったからだ。デザインも好みだ。

 さらに2009年のWindows 7では、Meiryo UIが実装されてMS UI Gothicに代わる。ところが本家メイリオとは違い、UIフォントなので、漢字とひらがな/カタカナの不揃い感は相変わらずだった。

 こともあろうに、2012年のWindows 8では、Meiryo UIがメインのユーザーインターフェイスとして使われるようになった。リボン全盛に近いUI変革の中で、限られたところでしか見られなかったUIフォントがストアアプリや設定画面の中で表舞台に出てきてしまったのだ。

 そしてWindows 8.1では游ゴシックと游明朝が加わり、Windows 10においては游ゴシックをもとにしたYu Gothic UIがシステムフォントとして使われるようになった。

 しかも、アプリによってはこのUIフォントをコンテンツ表示にまで使ってしまう。Twitter、Facebook、LINEなどを使ってみて欲しい。あえて指定しなければデフォルトでUIフォントが使われるからだ。その結果、あまり目にすることがなかったUIフォントを、頻繁に見かけるようになってしまったのだ。ちなみにMicrosoftの名誉にかけて言っておけば、メールやカレンダーなどの標準アプリはコンテンツ表示にUIフォントを使っていない。これはちゃんと分かっている証拠だ。

送りの文化とカーニングの文化

 日本語の字面は活字の時代が終わり、写植の時代になってから、基本的に「字送り」の文化で形成されてきた。われわれが日常的に目にする商業印刷物は、多くの場合写植によるものだが、和文は漢字、ひらがな、カタカナは原則として同じ幅になっているはずだ。文字間隔は文字種に関わらず一定で、そこを詰める場合は文字と次の文字の後ろをツメる指定が行なわれた。昔から「文字間ベタ」は写植の字面指定の王道だったとも言えるが、見出しなどで大きな文字サイズを使う場合のスカスカ間を抑制するために、「文字間マイナス1H」と、写植機の字送り歯車を1歯分戻す処理(マイナス1H)が行なわれたりもしたが、それでも間隔は文字種に依存しなかった。

 こうして組まれた版面に慣れている目からすると、文字ごとに幅が異なるWindowsのプロポーショナル日本語フォント、特にUIフォントには、どうしようもない違和感を感じてしまう。そこが「プロポーショナル」や「カーニング」の文化で形成された欧文の世界と異なるところだ。「カーニング」は、「プロポーショナル」な文字幅をさらに微調整する手法だ。

 つまり、Windowsは「字送り」の文化に「プロポーショナル&カーニング」の文化を持ち込んでしまった。個人的には、Windowsが貧相に見えてしまう原因はここにあると思っている。これからユニバーサルなWindowsアプリが増えてくるに従って、それを感じる場面はますます増えていくだろう。

 だが人はいつかそれに慣れてしまう。

 生まれて最初に触れる字面が画面上のものの可能性もあるデジタルネイティブ。そして、朝から晩までスマートフォンやタブレット、PCで遊び、仕事をする日本人が、「プロポーショナル&カーニング」な文化に慣れ親しんでしまう可能性は高い。最終的には、そちらが美しいと思われるようになって、商業印刷物の世界にもそれが持ち込まれてしまうかもしれない。

 個人的には本当にそれで良いのだろうかというやるせない気持ちになってしまうのだ。MSゴシック(明朝)、メイリオ、游ゴシック(明朝)といった日本語部分が等幅フォントには問題はない。游ゴシック(明朝)がちょっと細いと感じるなどは好みの問題だ。個人的にはメイリオが好きだが、多勢に無勢かもしれない。

 だが、日本語プロポーショナルフォント、特に、UIフォントはそろそろ引退させてもいいんじゃないか。

 言わば、これは日本語の世界に持ち込まれた黒船だ。MS Pゴシックの登場以来、既に20年が経過してしまったが、それを受け入れるか、受け入れないか。その是非は、今ここで、もう一度じっくりと再考する必要があるんじゃないだろうか。

(山田 祥平)