山田祥平のRe:config.sys

早く来い来いスクロール2.0

 画面サイズとその解像度はコンピュータとの対話において極めて重要な要素だ。対話という要素が介在するからこそのもので、これをおろそかにしてはならない。そこが受け身で見られることが多いTVとの大きな違いだ。

心の網膜

 AppleはiPhone 4において採用した画面をRetinaディスプレイと呼んだ。3.5型画面でありながら、その解像度は960×640ドットで、画素密度は326ppiに達していて、当時としては画期的だった。「Retina」は「網膜」を意味し、それ以上画素密度を上げても人間の網膜には判別することができないというのがAppleの言い分だ。そして今、5型前後のスマートフォンのほとんど全てがフルHDを超える解像度を持ち、Retina相当の画素密度を提供するようになったのはご存じの通りだ。

 画面サイズが大きくなれば、それに伴って画素数を増やさなければRetinaを維持することができない。ソニーは今週、同社のTV製品ラインナップを一新し、多くの4K対応モデルを発表したが、その画面は最少でも43型だ。また、ハイエンドは75型に及ぶ。当然、その全ての解像度は4K、つまり3,840×2,160だ。4Kと言ってもたかだか800万画素で、スマートフォンのカメラ機能でさえ、それを遙かに超える解像度の写真を撮影できるのだが、それはそれ、これはこれだ。

 そんなことを思いつつも、今回ソニーが発表した4K TVの内、最少の43型で4K解像度を表現した場合の画素密度を計算すると102.4ppiになる。326ppiのRetinaにはほど遠いことが数値で分かる。それより大きな画面では、この画素密度はさらに小さな値になる。例えば75型画面ではたった58.7ppiだ。

 58ppiという数値だけで言うなら標準解像度だったTV放送を14型画面のTVで見るようなものだ。逆に言うと、現在主流のフルHD程度の解像度では50型超の画面には到底スペック不足であるということになる。だからこその4Kなのだが、そのくらいの画素密度でも構わないとされるのは、TV画面で見られるコンテンツが、自分自身が見られる画面のサイズを規定していないからだ。

 例えば映画コンテンツで言うなら、かつては確かに映画館で見られることを想定して監督はフレーミングやパンニングの速度などを決めていただろう。映画館の画面は大きいところでは横方向が25m近いところもある。要するに、目の前に25mプールを横にして立てかけられているようなものだ。でも、そこに投影されるコンテンツは、デジタルシネマの場合なら、たかだか4Kなのだ。つまり、ぼくらは43型でも1,000型を軽く超えるような巨大画面でも4K、場合によってはそれにも及ばないフルHD解像度でコンテンツを見て満足しているわけだ。

 これで満足できているのはひとえに人間の眼が賢いというか、馬鹿というか、よほどひどい絵でない限り、すぐに順応してしまうことができるからだ。いわば心の網膜が画素密度を補完して辻褄を合わせる。

 だからこそ、映画コンテンツは、映画館の大きな画面から、飛行機の座席に取り付けられた貧相なディスプレイ、家庭用のTVなど、あらゆるサイズの画面で、放送からBDなどのパッケージ、ネット配信ストリームなどによって楽しまれている。

インタラクティブの泥沼

 コンテンツを楽しむだけならそれでいい。人間も賢い心の眼を持っていて、ちゃんと騙されるようにできている。ところが、ここにインタラクティブという要素を付け加えたとたんに多くの要素が破たんする。触りたくても触れない、読もうと思っても読めないオブジェクトがたくさんありすぎて、インタラクティブな操作ができなくなってしまう。押したくても押せないツールバーボタンなどは、その典型的な例だが、マウスならなんとかなりそうな場合でも、太い指でタップするのはもはや不可能といったケースもある。

 映画やTV放送のように受け身のコンテンツであれば、それはなんとかなる。もっとも、あるシーンで映し出される店の看板に書き込まれたラクガキが何気なくフレーミングされていて、そのあとのストーリーに大きな影響を与えることになるとか、何の関係もなさそうな繋ぎのシーンに登場した人物が、実は、犯人だったというようなことはあるかもしれない。TV放送のバラエティ番組だって、フリップやテロップが読めなければ何がなんだか分からないといったケースもありそうだ。それでも受け身になってストーリーやシナリオそのものを楽しむという点では同じだし、違いは環境光や画面サイズによる視野くらいかもしれない。視野の全てが画面内にあれば没入できるというわけだ。

 ソニーの新型TVは、Android TVを採用したことが話題になっている。まさにインタラクティブだ。でも、画面サイズによって、その密度を調整しているのかどうか。発表会に出ながらそこをチェックしていない自分をマヌケに思う。

 ちなみにWindowsは、96ppiという、今となっては前時代的と言ってもいいほどの低い解像度を想定してUIが設計されている。先の例で言えば、14型画面でXGAがちょうどいいというイメージだ。最近なら、24型画面でフルHDと言ったところになる。ところが今は、24型よりもはるかに小さな画面しか持たないノートPCでも、今や、HD、フルHDは当たり前、最近では15.6型で4Kといった製品も見かけるようになっている。

 こうした画面の複雑なバリエーションに対応するためには、やはり、OSそのもののコンセプトを練り直す必要があるだろう。だが、Windows 10の時代になっても、そこにメスは入らない。かろうじて、画面サイズに応じたスケーリングに対応したのだが、そこにあるのは「大きな画面」「普通の画面」「小さな画面」程度であって、サイズと解像度に応じた細かい制御は行なわれないし、任意のスケーリングを設定する機能の実装も中途半端だ。

スクロールを超えて

 こうした問題を解決するための糸口になるはずだったのがWindows 8で鳴り物入りで登場したメトロUIだが、それが縮小しつつあるのはご存じの通りだ。Windows 10で稼働するアプリは基本的に「レイアウトアダプティブ」で、自身のウィンドウサイズに応じてウィンドウ内に表示するコンテンツのレイアウトを変化させる。でも、それはあくまでも「レイアウトアダプティブ」であって「画面サイズアダプティブ」ではない。

 理想的なのは5型画面のスマートフォンにフル画面で表示したアプリと、同じサイズのウィンドウに表示したアプリが同じ見かけを持つことだ。でも、そこは一筋縄にはいかない。理想は理想であって現実とは異なる。スマートフォンとPCの画面では、眺める距離が異なるからだ。TVも同様で、大きな画面のTVは視聴する際の距離も長くなる。10フィートUIなどがもてはやされた時代もあったが、それは、こうした理由によるものだ。

 スクロールという概念は、画面の外側にはみ出て見えない部分を、ユーザーと機械のインタラクションによって出現させるという画期的なUIだ。ゲームはもちろん、Excelなどのワークシート、Wordなどのワードプロセッサなどは、この概念がなければ成立しないと言ってもいい。1行のスクロールでも文章がちゃんと読めるのは駅の電光掲示板が証明している。ただ、スクロールは縦か横、どちらか片方向でなければかえって不自由だ。スマートフォンで上下にも左右にも画面からはみ出したコラムの文章を、4方向スクロールで読み進めるのがいかにわずらわしいかを考えればそれが分かる。

 今、求められているのは、このスクロールという概念の進化ではないか。使い古された言葉で言えばスクロール2.0だ。そしてそれは「レイアウトアダプティブ」と「画面サイズアダプティブ」の融合によって生まれる。さらに、それは紙のメタファを捨てることから始まる。WYSYWYGに別れを切り出す勇気があるかどうか。そこが問題だ。

(山田 祥平)