山田祥平のRe:config.sys

クラシックWindowsに何を求めるか




 Windows 8の発売まで秒読み段階に入った。新しいWindowsではあるが、そこにあるのはハイブリッドの世界だ。母屋のOSと離れのOS。OS in OSのハイブリッド。今回は、その母屋に相当するクラシックWindowsデスクトップの存在意義について考えてみる。

●アプリあってこそ

 ぼくがWindowsを常用するようになったのは3.0からなので、かれこれ20年以上、この環境とつきあっていることになる。もっとも、文章を書くという仕事については、Windowsに移行してからも、MS-DOSのウィンドウを開き、そこで一太郎を使っていた。仕事も含めて完全にWindows環境に移行したのは、秀丸エディタを知ってからだ。確か、Widoows 3.1になってからだったと思う。

 以来、原稿という原稿はすべて秀丸エディタを使って書いてきた。ごくまれに、修正履歴を残さなければならない場合などに、Wordで原稿を作ることもあるし、プレゼン資料はPowerPointを使って作る。だからとりあえず、Officeスイートも欠かせないアプリケーションだ。

 他には日本語入力環境のATOK。これも重要な要素だ。ストレスなく日本語を入力するためにどうしても必要だ。そのつきあいも、一太郎で原稿を書いていたくらいだから、相当に古い。

 これらの環境が整うのであれば、クラシックなWindowsデスクトップアプリに固執しなくても、いいような気もする。でも、やはり、そうはいかない。

 こうして数えてみると、レガシーなWindowsでしか使えないアプリが驚くほど少ないことに気がつく。もちろん、常用しているアプリはたくさんあるのだが、ほとんどが他の環境でも、代替できるアプリがあったり、代替どころか、他の環境の方が便利だったりするものもある。

 秀丸にしても、マクロを駆使したりしているわけではない。だから、Android環境でテキストエディタを探していて、Jota+というアプリを見つけて使ってみたところ、これで十分に原稿が書けるんじゃないかと思ったりもした。このエディタはキーアサインを自由に定義できるので、秀丸で設定しているキーアサインと同じように設定すれば、それなりに原稿が書けてしまうのだ。Bluetoothキーボードを調達し、それを接続すれば、スマートフォンでもなんとなく軽快に原稿が書ける。取材時のメモや、こうした原稿書きなど、一方的に文字を入力するだけの仕事などでは、それで十分かもしれないとも思った。100gくらいのそれなりに優れたキーボードがあればいいのにとさえ感じている。ぼくは、ほとんどのアプリをフルスクリーンで使うので、コピー&ペーストさえ普通にできればそれで不自由はない。几帳面にウィンドウを並べるタイプではないのだ。

●Windowsの存在意義

 ハードウェア的な観点から環境を考えると、たとえば自宅での作業でマルチディスプレイが使えないと本当に困る。かつてMetroと呼ばれた環境でのアプリは、複数台のディスプレイの任意のものに移動はできるが、異なるアプリを異なるディスプレイに同時に表示させることはできない。マルチディスプレイを駆使するには、クラシックWindowsデスクトップは必須だといえる。ぼくがアプリをフルスクリーンで使うのは、たとえ解像度がフルHDを超えていたとしても、そこに複数のアプリを表示させて使うには解像度に不足を感じるからだ。そして、たとえ解像度が高かったとしても、ほどよいサイズで文字等を表示させるためには、どうしてもスケーリングが必要となり、見かけとしては似通ったものになってしまうだろう。

 だから、自宅での作業、つまり、デスクトップPCではレガシーにこだわり続けると思うが、モバイルノートPCでは、それがあまり重要な要素ではなくなってきている。

 通常モバイルノートPCには、単一のディスプレイしかないので、使い方として、どうしても他の環境と似通ったものになってしまうのだ。そして、そこに代替できるアプリがあれば、なんとかなってしまうといった具合だ。

 多くのコンシューマのPCの使い方スタイルを考えると、クラシックWindowsデスクトップは、クラシックというよりも、レガシーなものになっていく可能性もある。ちょうど、今のWindowsのコマンドプロンプトがそういうイメージだといえるかもしれない。

 DOSボックスなどと呼ばれ、かつてはなくてはならない存在だったものだが、今は、なくても困らないユーザーがほとんどじゃないだろうか。すぐにクラシックWindowsデスクトップが、そうした存在になってしまうということはないだろうが、時間の問題だともいえる。

 でも、Microsoftにとってはそれでは困る。かつてMetroと呼ばれた環境だけでよいのであれば、WindowsがWindowsであることの存在意義が希薄になってしまうからだ。Windows 8の新しいUIをメジャーなものにするには、優れたアプリが必要だが、アプリが揃ってしまうと、他の環境との差別化がしにくくなってしまう可能性もある。マルチディスプレイのサポートがないのも、そのあたりのことが考えられているからかもしれない。

 そうすると、強固なセキュリティと企業などにおける大量のPCをいかにうまく管理していけるかだけが、Windowsのメリットになってしまう。企業にとっては重要なことだが、多くのコンシューマユーザーにとっては、そうしたことの優先順位は低い。そういう意味ではWindows 8は諸刃の剣であるともいえそうだ。

●見えないビジョン

 Andoroidにしても、iOSにしても、当初問題視されたのはマルチタスクについてだった。バックグラウンドでアプリが動いている様子が今ひとつわかりにくいこと、そして、タスクスイッチがやりにくいことは、WindowsやMac OSなど、リッチなOSに慣れ親しんだユーザーにとっては致命的な欠陥でもあったといえる。でも、それもずいぶん解決されてきた。Windowsのメリットがあるとすれば、操作中のアクティブなタスクの脇に、バックグラウンドで動くアプリの様子が、しっかりと見えることくらいだろうか。だから、複数のウィンドウを開くのだし、マルチモニタで広大な作業空間が欲しくなる。それができないんだったらWindowsの意味がないとさえ思う。

 さらに、四半世紀近い歴史と、使い、そして開発し続けてきた膨大な数のユーザーは、かゆいところに手が届くようなアプリやユーティリティを揃えた。ぼく自身にとっても、常用な大規模アプリというものは種類が少ないが、こうした小さなユーティリティはPCを手足のように使い、頭脳の延長として使うために欠かせない。なければ困るものがいくつかある。

 ただ、そうした自由度が他の環境でも確保されるのなら、もはやWindowsにこだわり続けることはなくなってしまうかもしれない。

 個人的には、移動中にPCを使う時間は日に日に少なくなってきている。だから、Windows 8は悩み、Ultrabookも悩んでいるのだ。それがどういうことなのか。PCがPCであることの意義をビジョンとして提供することを求めるだけではなく、ぼくら自身も真剣に考えなければならない時期に来ているようだ。