山田祥平のRe:config.sys

日経新聞電子版の大いなる時代錯誤




 3月23日に日経新聞の電子版が公開されてから約2週間が経過した。ちまたでは、同紙が個別記事へのリンクを禁止していることへの批判など、話題になるという点ではある程度の成功を収めているようだ。

●コンセプトはいいだけに惜しい実装

 4月中は無料だというので、創刊当日とりあえず申し込んで、この2週間、毎日、電子版を眺めて1日を始めるようになった。自宅では紙の新聞として朝日新聞を購読しているが、あまり熱心に読むことはない。1面をチラッと眺めるくらいで、そのままストッカー行きになることが多い。でも、そこが大事だ。新聞の1面というのは、プロフェッショナルが判断した前日のエッセンスが凝縮されているからだ。

 とはいえ、毎日たまる古紙の始末には閉口する。場合によっては、新聞と同じくらいのボリュームの折り込みチラシが入るため、丹念に始末しないとやっかいだ。もし、その手間から解放されるのなら、永年愛読した朝日新聞をやめて、日経新聞の電子版だけに絞り込んでもいいとまで思っていた。

 さて、その電子版だが、とりあえずは、よく考えて作ってある。サイトのトップからタブのインターフェイスで「朝刊・夕刊」をクリックすると、1面から最終面までの見出しとその要約がページ縦方向に並ぶ。ページの右上には、そのときスクロール途上にある実際の紙面の縮小版が表示されていて、いつでもそれを拡大することができるし、記事は記事で、見出しを読んで興味をひけば、そのままウェブページで記事を読めるし、縮小版をクリックして当該記事を実際の紙面で読むこともできる。

 ただ、この縮小版のインターフェイスがいただけない。縮小版をクリックすると、新しいウィンドウが開き、フラッシュで1面から順に紙面が表示されるのだが、このウィンドウのサイズが固定なのだ。

 ページ送りは→アイコンのクリックが前ページ、←アイコンのクリックが次ページとなっている。新聞は縦書きなので、右から左へとページは流れていくのだが、左向きの←をクリックすると右にページが送られるというのに違和感を感じる。これは逆でもよかったかもしれない。

 表示されているページのイメージ中で、目を惹く記事があったら、その記事をダブルクリックすることで、その記事部分を中心に拡大し、そこで実際の記事を読むことができる。記事の見出しはクリックすれば記事ツールと呼ばれる小さな子ウィンドウにテキストで表示されるようになっている。また、そのページの見出し一覧がテキストで斜め読み子ウィンドウに表示されるなど、とにかく工夫がされている。だが、これらの子ウィンドウは、縮小版ウィンドウの外には出られない。

 ウィンドウサイズを固定してしまっていることで、いろいろな工夫がすべて台無しになっているのだ。縮小版の拡大比率も自由に変更できるのだが、あくまでも固定されたサイズのウィンドウ内でのことなので、本文を読めるサイズに拡大してしまうとページ全体のイメージがわからなくなるし、スクロールが伴い操作も煩雑になる。

 固定サイズのウィンドウは1,050×956ピクセルだった。早い話が12型程度のXGA(1,024×768ドット)、4:3液晶に最適化されてしまっているインターフェイスだ。たぶん、企業で数多く使われているノートPCでは、それほど不満を感じることはないかもしれない。でも、24型ワイドフルHD液晶で使うと不満が爆発する。ウィンドウサイズを任意にできるようにするだけで画期的に使いやすさが高まることに気がつかないのだろうか。

 個人的には、紙面イメージを電子版で堪能できるのなら、朝日から日経に変えてしまおうというくらいの勢いでいた。工夫も何もいらない。PDFで配布してくれたってかまわない。でも、これでは、たぶん、無料期間終了とともに購読をやめてしまうことになるだろう。Flashによる縮小版ウィンドウのサイズが固定されていることが、これほど使い勝手を損なうことに、どうして気がつかないのかと思う。

 それでも全面広告のインパクトは十分に伝わってくるし、見出しの大小や記事の位置などによる重要度なども紙から受ける印象を損なわない点で評価していい。コンセプトは素晴らしいのに実装がダメダメだというだけだ。でも、これはきっと時間が解決するだろう。

●メディアは媒体、インターネットは追加のメディア

 テレビ、ラジオ、新聞、雑誌などは、ひっくるめてメディアと呼ばれることが多い。メディアとは媒体だ。テレビやラジオなら媒体は電波だし、新聞や雑誌なら媒体は紙だ。こうしたレガシーな媒体にぼくらは慣れ親しんできたし、これからもそうだろう。

 コンテンツプロバイダーとしてのメディアは、媒体としてのメディアに適したコンテンツを作り、それをメディアに載せて加入者に届ける。

 インターネットの浸透により、コンテンツプロバイダーは自分たちの持っていたメディア以外に、もう1つのメディアを手に入れた。IP(Internet Protocol)に載せれば、レガシーな媒体を使わなくても、手持ちのコンテンツを加入者に届けることができるようになったのだ。

 もちろん、IPは紙にはなれない。だから届くのは紙のイメージにすぎない。忘れてはならないのは、メディアにとってインターネットは、あくまでも「追加」のメディアであるという点だ。つまり、彼らが持っているレガシーなメディアはそのまま維持した上で、それに加えてインターネットを手に入れたわけだし、当然そうであることを受け手であるぼくらも期待する。先日試験放送が始まったRadikoなどは、その典型だろう。相性もいい。まさに、電波というメディアと同等のコンテンツをIPに載せて届けられる。だから受けた。

 新聞はあの体裁をひっくるめて新聞だ。だから、それがIPでやってくるのなら、新聞そのものが持つレガシーな長所を欠如させないでほしいと思う。もちろんIPに紙は載らないので完全な再現は無理だが、近づけることは可能だし、それは新聞というコンテンツビルダーの腕の見せ所だ。その上で、IP特有の長所を「追加」してほしいのだ。そうでなくては「やっぱり新聞は紙でなくっちゃ意味ないね」ということになってしまう。せっかくインターネットという追加のメディアを手に入れたのに、それを活かせないわけだ。

●新聞はそこでいったん時間を止める

 世の中の変化はめまぐるしい。ニュースは次々に飛び込んでくる。だから、報道系のサイトは開くたびに内容が違っている。だから半日前のことが、そして前日のことがよくわからない。

 報道機関のコンテンツにはダイナミックなコンテンツの更新を求めたいが、果たして新聞はそこに特化してしまっていいのだろうか。実は、ぼくらが新聞に求めているのは、ある時点での〆切時間で世の中を積分したスタティックな社会の縮図なのではないかと思うのだ。最新のニュースを羅列するだけではなく、彼らが、ある時点で、何を大事と考えたのかという判断もいっしょに手に入れたいと思う。そういう意味では新聞紙面のレイアウトというのは歴史の長さもあいまって素晴らしい。そこに誇りを持って欲しいと思うし、紙に印刷されたの新聞のよさを、できる限り、ディスプレイ上に再現し、さらにそれを電子の力で洗練する工夫を求めたい。

 ぼくらがニュースというコンテンツを買っていることに間違いはないのだが、そのプロフェッショナルなレイアウト仕事あってこその新聞だと思う。それを軽視してはならない。長い歴史の中で培われてきたその素晴らしい魅力を、どうして彼らはないがしろにするのだろう。紙がインターネットにとってかわろうとしているわけではないのにだ。

 紙に全身全霊を傾ける姿勢こそが新聞だ。それは決して時代錯誤ではない。だから、今回の日経新聞の試みは、ちゃんと拍手をしてあげていいのだと思っている。