山田祥平のRe:config.sys
おしゃべりな生成AI
2024年7月13日 06:13
人間は饒舌であることをよしとするようだ。だから文章なら数秒で分かることを数分間の動画で見たりもする。でもそれらを、要約したり、箇条書きにしたりして、数分の動画を数秒で理解しようともする。いったい何がやりたいのだか。
最小の知的生産で最大の成果を
100年越しの恋の物語があったとして、それが長大な手記や小説だったり、ドラマやアニメ、映画といった映像作品になっていたとして、その内容が数秒で分かるように要約されていたりしたら元も子もない。紫式部の源氏物語だって、約100万文字(Wikiによる)で、70年あまりの出来事が描かれているからこその物語だ。そうは言っても文字データにしたら2MBにすぎないのだが……。
もっとも世の中にあるのは、こうしたストーリーテリングな表現ばかりではない。饒舌な表現がしてあっても、実際には、数行の箇条書きで内容が要約でき、2分もあれば大筋を理解できる類いのトピックスもある。
生成AIは、箇条書きでまとめられた表現に枝葉をつけ、饒舌な表現の文章に仕立て上げたり、あるいはその逆に、長々と丁寧にまとめられた文章を短いシノプシスや箇条書き表現、要約などにまとめたりもしてくれる。会議の議事録なら、会議の音声付き映像からアジェンダ、レジメ、議事録などをまとめたりもしてくれる。
だったら、最初から、人間が起こすのは箇条書きだけにすればいいのにとも思う。
1990年代の初めに、Windows 3.1を使うようになって、海外製アプリが普通に日本語Windowsでも使えるようになった。米国のPC雑誌を定期購読し、そこで紹介されるアプリをFAXで注文しては取り寄せ、いろいろ試している中でプレゼンテーションアプリであるPowerPoint、いわゆるパワポに初めて触れたときには感動した。Microsoftが創業後、最初の企業買収で得たソフトウェアだという。
コトのあらましを箇条書きしてプリントすれば、それで立派なスライドになるのだから、プレゼンに専用のアプリが必要かどうかというのは微妙だったが、PowerPointを初めて体験したときは、スライドショーの視覚的な効果の饒舌さもあり、使ってみて理屈抜きに大いに興奮したのを思い出す。
そう言えばアウトラインプロセッサといったジャンルのアプリもあった。これも箇条書きからスタートして饒舌な長文に仕立て上げることができる。今で言うところの構造化文書、マークダウンの走りと言ってもいい。まあ、HTMLがそうか。
あのころは大学で教えていたりもしたので授業でもパワポを駆使した。なにせ板書しなくていいのでラクチンだ。企画を出版社などに持ち込むときにも重宝した。その前史はOHPや光学スライド映写機だったりして、自分で使った古都はないが、それらを使って披露されるプレゼン現場にも立ち会った経験はあるが、いつの間にか世の中から姿を消してしまった。
プレゼンテーションとAI
プレゼンスライドは、言いたいことの要旨を箇条書きにしていけばできあがる。それを作りながら自分の言いたいことがまとまってしまうという利点もある。そして、スライドはその要約だけにして、発表用のノートに自分のプレゼン内容を台本として作っておき、マルチモニターで発表者用画面で確認しながら話をすることもできる。スライドを上映しながらその台本を読み進めればプレゼンできるというわけだ。
よくよく考えてみると、これはまさに、今の生成AIがやっていることであり、そういうことを30年以上前に人力でやっていたというのは本当にすごいことだと思う。自分の頭の中にある壮大な企画を、プレゼンテーションスライドに収まるように要約し、多少の誇張が入り交じった表現で饒舌に説明するというところまで、全部人間がやっていた。今は、それをAIが手伝ってくれるようになったということでもある。
箇条書き要約とそれを饒舌化した文章の行ったり来たりは、これからどうなっていくのだろう。本当はその往来のための中間言語的なものもあるように思うのだが、それはどうでもいい。箇条書きを用意すればAIが文章をしたためてくれるし、文章をしたためれば、箇条書きはすぐに生成できる。AIが息をするようにウソをつくことにさえ気をつけて、自分での最終確認を怠らないようにすれば、その生産性は著しく高まるに違いない。
なにしろ、長文の企画案を書いてメールで送っても、相手は、それをAIにまとめさせて要約だけを見て判断したりするし、実際、その長文の企画案はAIが箇条書きから生成したものかもしれない。このあたりのことで、コミュニケーションの成立が根本から変わっていく時代に、われわれは立ち尽くしている。
間違い探しも大変だから皆まで言うな
生成AIはいわゆる「物知り」の概念もくつがえす。なんでもかんでも知っていればいいというわけではない場合もあるということだ。インターネットには有象無象の知識があふれている。そこにある知識の中から、必要なものを的確に取り出す能力があればAIはいらないと思うかもしれない。いや、そもそも、インターネットでの情報あさりこそ、AIに任せればいいという判断もある。
今のところは、自分で検索して情報をたぐり寄せるのとAIが探してきた情報を比べてみると、どうにもAIより自分の見つけた結果のほうが確からしさが上のような印象もある。
もっともらしい誤情報を弾き出すハルシネーションを見つけて排除するにも、インターネットでの検索が必要だ。もしかしたら別のAIをハルシネーション発見用に使うというのもいいかもしれない。いずれにしても、人間はAIの出力を、常に疑ってかからなければならない。そのうち疑心暗鬼になってしまいそうだ。間違いを指摘すると謝罪するAIにもでくわすのだが、あやまるくらいなら最初からちゃんと調べろよとも思う。
だからこそ、特定の知識だけを学習させ、それだけを論拠に結論を導き出すAIも必要だ。人によっては、それだけをAIに依存したいと考えるかもしれない。どっちにしても、人間の立派な部下や秘書がいれば、彼/彼女らに情報集めやそのまとめを任せればいいわけで、その彼/彼女らも言われたことをAIに委ねているかもしれず、世の中でやり取りされるコミュニケーションは、いったい誰が生成したのか分からなくなっていく。
先日、某AIに日本国憲法前文を読み込ませて、いろんな質問をしてみた。米国憲法との違いを尋ねても、その情報は含まれていないから質問に答えられないという。ほしかったのはこういう対処だったりもする。