山田祥平のRe:config.sys

誰が書いて誰が読む

 どうせ読むのが機械なら、わざわざ人間が読んで理解しやすい言語生成AIを使う必要はないんじゃないか。対話の相手は誰なのか。そこに将来のヒトの生き方、暮らし方、働き方を支えるコミュニケーションのポイントがあるらしい。人間不在のコミュニケーション時代の幕開けなんだろうか。

イルカのカイルはどこに消えた

 Microsoftがオンラインイベント「The Future of Work with AI」で、AI機能を統合したオフィススイート「Microsoft 365 Copilot」を発表した。

 Officeアプリのユーザーアシストといえば、イルカのカイルを思い出す。これはすでに四半世紀前の話だが、その次元を遙かに超える(はず)の構想が今回のCopilotだ。Copilotは、副操縦士を示す。パイロットの指示に従い、手に入るあらゆる情報を元に、新たな表現を生成する。このときもちろんCopilotは人間、ということになっている。

 ここで考えてしまうのは、生成される言語表現が誰のためのものなのかということだ。仮に、近い将来、コミュニケーションが機械同士で行なわれることが新しい当たり前となった時、表現するのは機械であり、その表現を解釈するのも機械ということになる。そこに人間が介在せず、人間は機械が解釈した結果だけを受け取るだけになるのなら、機械と機械の間でかわされる情報のストリームを、わざわざ人間が慣れ親しんでいる自然言語にする必要はないのではないだろうか。となると、自然言語生成AIという存在自体が無意味なものにも思えてくる。

 メールが届き、そこに書かれた内容を解釈したAIが、あらゆる場所のストレージを検索して、必要な情報をピックアップし、それをまとめて返事として相手に送りつける。それを受け取った相手のAIは、饒舌な表現の情報から贅肉をそぎ落とし、ポイントだけを人間に見せる。あるいは、図示するなど、別の表現を生成して披露する。でも、結局、そういうふうに人間に見せても、それを見て反応するのは機械なので、人間が理解する必要はない……、なんてことを繰り返し考えていたら、ちょっと怖くなってしまった。

自動変速車と自動運転車

 Microsoftがやろうとしているのは、人間が人間にしかできないことに専念できるように、機械にもできることを人間がしなくていいようにするということだ。それはそれで素晴らしい取り組みだ。ただ、その反作用として、人間にしかできないことって何だろうという疑問につきまとわれることになる。

 かつてぼくが自動車の運転免許を取ったとき、オートマ車はすでにあったが、免許そのものはマニュアルミッションで取得した。そして、最初に買ったクルマはマニュアルミッションで、助手席に乗せた知り合いから、そんなに頻繁に変速するならオートマにした方がいいと言われた。その次のクルマはオートマを選んだが、同じ知り合いを乗せた時に、そんなに変速するなら、マニュアルミッションにすればいいのにと言われた。

 今になって、そんなことを懐かしく思い出すのだが、結局、2台目以降のクルマはすべてオートマ車を選んできた。たぶん、これから運転免許を取得する層は、自動運転車の洗礼を受けることになるのだろう。万が一のときに備えてマニュアル運転車(マニュアルミッションではなく)を運転できる資格を取ることになるかもしれない。

 ほとんどの場合、人間がギアチェンジするよりも、ずっと上手にギアを切り替えるオートマ車と同様に、人間が運転するよりずっと上手で安全にドライブができるはずの自動運転車は、この先、普通のクルマとなって社会に溶け込んでいくことになる。

 そのあたりの未来は、なんとなく創造できるのだが、AIが人間の知的労働を代わってやってくれるという社会の到来が、どうにもうまく創造できないでいる。

ヒトと生成AIの共存

 それは怖れでもある。機械が全部やってくれるという世界観に対して感じるのは、これからはラクになるという安堵よりも、これから自分は何をすればいいのかという恐怖であったりするわけだ。機械が、と言うからオブラートに包まれるが、コンピュータがというと、ちょっと身構える。

 例えば、こうして書いているコラムの存在意義などなくなってしまう可能性もある。機械が要約すれば数十字で収まるかもしれないことを、何千字も使って書いているのだ。書く方も時間の無駄なら、読む方も時間の無駄だ。百歩譲って、有益なことを書いているのだとしたら、その内容は数十文字でやりとりすればいい。

 もう、小説も無駄ならドラマも映画も無駄、コミックなんて言語道断という世界がやってきたらどうなるのか。そうはならないと言い切れるのだろうか。

 もしかしたら、これから人間が努力して身につけなければならないスキルは、役に立たない情報を生成する能力だけになるかもしれない。役に立たない情報だけが役にたつとう禅問答のような世界観、いわゆる喜怒哀楽にストレートに直結する情報の生成だ。それ以外のことは機械にまかせたほうが、ほとんどの場合うまくいく、かもしれない。

 どうにも「かもしれない」が多い文章で、自分でもいやになってくるのだが、実際問題として、本当に近い将来のことは分からない。かつてOfficeを支えたOfficeアシスタントは、かわいいイルカのカイルがいろいろなことをアシストしてくれたのだが、それが邪魔という声が高まり、消えてしまった。あれは人格的なものをキャラクターに持たせてしまったことが失敗だったようにも思う。もっと無機質なものなら結果は違っていたかもしれない。

 生成AIも同様で、人間が生理的に拒絶する可能性はあるが、手を変え品を変えて無力な人間の前に繰り返し現れて定着していくのだろう。カイルや冴子先生のように、簡単に消えるわけにはいかないというムードさえ感じる。

 検索結果に広告を並べて表示するというビジネスモデルが崩壊しかねない状況に、今、そうはさせまいと懸命に次の一手を考えている人たちもいるはずだ。かと思えば、フィッシングにひっかかる生成AIも出てくる可能性がある。メールを人間の代わりに受け取ったAIが、フィッシングサイトに誘導され、個人情報を伝えたりしたら目も当てられない。人間が見たらウソだとひと目でわかる表現が、機械には理解できないという、それこそ理解不能なことがこれからはどんどん起こることになるだろう。

 それでも機械との共存を目指し、機械の力を借りながらも人間は明日を創る。それは人間だからだ。当たり前のことだ。