福田昭のセミコン業界最前線

ソフトバンクはARMを取り込んでIoTの覇者を目指す

 英国の半導体コア・ベンダーARMは、価値の極めて高い企業として半導体業界では良く知られている。高い価値の源泉は、携帯電話機(スマートフォンとフィーチャーフォン)とメディアタブレットのプロセッサでほぼ独占的に、ARMの開発技術が採用されていることにある。

 ARMの開発技術とは、「ARMコア」と呼ばれる独自開発のCPUコアである。携帯電話機とメディアタブレットのほぼ全てが、ARMコア内蔵のプロセッサを搭載している。

 携帯電話機とメディアタブレットは、新しい世代の高性能品を市場に投入することで世代交代を繰り返してきた。この世代交代も、ARMの技術開発に支えられている。ARMは定期的に新しい世代の高性能CPUコアを発表してきた。プロセッサ開発企業は新しい世代のCPUコアを採用することで、プロセッサの性能を高められる。ARMは、より高い性能のCPUコアを継続的に開発することで、携帯電話機のプロセッサで独占的な地位を確保し続けてきた。

事業規模と株式時価総額の巨大な乖離

 とは言うものの、ARMの事業規模そのものは、それほど大きくはない。2015年12月期の年間売上高は9億6,830万ポンド(約1,790億円)、税引き前利益は4億1,480万ポンド(約770億円)である。市場調査会社が公表している半導体メーカーの売り上げランキングでは、上位20社にも入らない。20位に相当する売上高は約45億ドル(約4,800億円)なので、その3分の1強にしかならない。

 その大きな理由は、ARMの収入が半導体チップの出荷価格の2%~3%程度にすぎないことにある。ARMコア(CPUコア)を採用したプロセッサのメーカーは、プロセッサチップの出荷数に応じてCPUコアの使用料金(ロイヤリティ)をARMに払う。ロイヤリティはCPUコアの種類によって違うものの、例えばCPUコアを2個内蔵したデュアルコアの場合、1個目が2%、2個目が1%となり、合計で3%のロイヤリティがチップメーカーからARMに支払われる。

 このほかに半導体メーカーがCPUコアを新しく採用した時に結ぶライセンス契約があり、ライセンス収入をARMが得る。ライセンス収入もARMにとっては重要な収入源である。ARM全体の収入の半分近くがライセンス収入、おなじく半分近くがロイヤリティ収入、残りの1割近くがそのほか(開発ツールなど)の収入となっている。

 ARMには基本的には半導体メーカーではなく、半導体回路の設計会社である。半導体メーカーと違い、量産設備への投資がない。経費の多くを、人件費が占める。このため金額的に妥当な注文さえあれば、利益率の高い事業構造を築きやすい。そしてARMは極めて高い利益率(2015年の税引き前利益額/売上高は43%に達する)を実際に達成し続けてきた。

 ARMは売上高そのものは比較的少ないものの、長期に渡って高い営業利益率が約束されているように見える。しかもモバイル市場では独占的な地位を確保している。そして最近では、IoT(Internet of Things)市場で着々と地歩を築きつつある。投資ファンドやエレクトロニクス企業などから見ると、企業買収の対象としては非常に魅力的な会社だ。

 しかしARMという美しい薔薇には、大きなトゲがある。株式時価総額が極めて高いことだ。2016年6月時点でのARMの株式時価総額は、2兆2,000億円に達する。2015年の年間売上高と比べると、12.3倍もの開きがある。ARMの発行株式の全てを買い取って完全子会社化するには、過去の株価にプレミア(割り増し)を付けて買い取ることになる。従ってARMの買収に必要な資金は3兆円を超える。これは簡単に払える金額ではない。「企業買収防衛策」の手段の1つとして言われる「株式時価総額を高めること」(買収金額を上げること)をARMは実践している、とも言える。

ARMとIntelの事業規模の比較。いずれも2015年12月期の通年決算資料から抜粋した

ソフトバンクの売上高はパナソニックよりも大きい

 ところが、ついにと言うべきか、ARMを買収しようという企業が現れた。日本のソフトバンクである。異色の経営者として良く知られる孫正義氏が率いるソフトバンクグループは、PC雑誌の出版から始まり、英国の携帯電話事業会社ボーダフォンの日本法人を2006年に買収して携帯電話事業者(キャリア)となり、最近では米国の携帯電話事業者Sprintグループを買収したり、ロボット事業に参入したり、エネルギー事業に参入したりと、話題に事欠かない。

 ソフトバンクの2016年3月期(2015年度)の年間売上高は9兆1,535億円、営業利益は9,995億円である。これがどのくらいの大きさかを、日本を代表するエレクトロニクス企業と比較してみよう。日立製作所の2016年3月期における売上高が10兆343億円、営業利益が6,348億円、パナソニックの同期における売上高が7兆5,537億円、営業利益が4,157億円である。ソフトバンクの売上高はパナソニックを超えており、営業利益は日立製作所を超えている。

 ソフトバンクは既に日本を代表する巨大企業でありながら、モノ(ハードウェア)作りを生業としていない。これはかなり珍しいことだ。そしてARMは半導体チップの量産こそしていないものの、半導体チップの主要な機能を具現化した回路ブロック(コア、マクロ、IPなどと呼ばれる)を設計しており、まぎれもなくモノ(ハードウェア)の開発企業である。ARMのビジネス・モデルはライセンスとロイヤリティなのだが、企業文化は半導体の技術開発会社だと言える。

ソフトバンクが買収する理由とARMが応じる理由

 ソフトバンクが7月18日に配布したニュースリリースによると、全株式の買い取りでARMと合意しており、ARMの取締役会はARMの株主に本件買収に応じるよう推奨する。友好的な買収である。買収総額は3兆3,000億円に達する。9月30日までに、買収は完了する見込みだとリリースは記述している。

 ソフトバンクが、もっと極端に言えば、孫正義氏が、ARMを買収しようとした理由は、明確ではない。ひょっとしたら、孫氏自身にも、分かっていないのかもしれない。ロンドンで7月18日に開催した記者説明会で孫氏は、5年後~10年後になって買収の意味を理解してもらえると述べていたが、ARMがソフトバンクに与えるメリットについては抽象的な説明にとどまり、具体的な説明には至らなかった。

ソフトバンクによるARM買収の概要。ソフトバンクが7月18日にロンドンで開催した記者説明会の資料から

 逆に、ARMが買収提案に応じた理由は、比較的明確に説明されている。売上高9兆円を超える巨大企業グループが、ARMをバックアップすることによって長期的な展望に基づく研究開発投資がしやすくなり、ARMがやろうとしていることを、より迅速に達成できるようになる、とする。非上場企業になることで、上場企業とは違って短期的な利益の減少を織り込んで長期的な開発案件に取り組めるようになる。選択肢の幅が広がる。

 買収完了後も、ARMの独立性と中立性は担保される。この条件はARMにとって買収提案を受け入れやすい。「ソフトバンクとARMには、事業領域の重複がない。このため買収完了後もARMの戦略は変わらない」とARMのCEOを務めるSimon Segers氏はARMの公式サイトで語っている。経営陣のメンバーは買収後も同じである。極端に言えば、ARMはこれまで通り、ビジネスを進めるだけだ。

 ソフトバンクはARMの英国における雇用を今後5年間で2倍に増やすことを強調する。ただしこの雇用増ペースは、過去のペースと変わらない。ARMは過去10年間、ほぼ5年に2倍のペースで従業員を増やしてきた。従業員の増加ペースもまた、「これまで通り」をソフトバンクが約束したと見える。

ソフトバンクからARMの関係者へのメッセージ。ソフトバンクが7月18日にロンドンで開催した記者説明会の資料から
ARMの従業員数とエンジニア数の推移(2010年~2015年)。いずれも年末時点の人数。ARMのアニュアルレポートからまとめた

3兆3,000億円の投資をARMの利益で回収する日

 それでは、ARMの利益から買収総額3兆3,000億円を回収するには、何年ほどかかるのだろうか。ここではARMの過去15年の業績から、簡単な推計を試みた。あくまで仮定の話なので、そのつもりでお読みいただきたい。

 ARMは2000年~2015年の間、平均すると年率15%で売上高を伸ばしてきた。この成長率が今後も「ずっと」続くと仮定する。そして売上高営業利益率は、35%と仮定した。2014年の売上高営業利益率は39%、2015年の同率は42%と極めて高いものの、過去15年間を見ていくと15%程度に下がった年もある(下がっても利益率が15%というのも凄いことだ)。今回は比較的強めの、あるいは、甘くした数値に設定した。

 この条件で2016年以降の営業利益を計算し、西暦何年になると累積の営業利益額が3兆3,000億円を超えるかを算出した。営業利益そのものが親会社への配当になる訳ではないが、ARMは営業外収支が良好なので概ね、適正だと考えた。

 すると、2025年には累積の営業利益額は1兆1,870億円となり、まだ届かない。ところがその後は利益額がどんどん膨らみ、2030年には累積の営業利益額が2兆8,000億円近くになる。2026年~2030年の5年間で1兆6,000億円の利益を稼ぐ計算だ。そして2031年に、累積の利益額は3兆2,573億円となり、買収金額にほぼ達する。

 単純な計算にも関わらず、結果は重要なことを示唆している。今(2016年)から10年後(2026年)までに投資金額を株主への配当で回収できる見込みはまずないこと。ところが15年後(2031年)になると、回収する見込みが出てくること。等比級数的に金額が増加することの恐ろしさを教えてくれる。

 言い方を変えるとこのようなシナリオになる。20年後(2036年)にIoT(Internet of Things)が人類社会にあまねく普及しており、なおかつ、IoTを支える半導体チップに標準的にARMコアが内蔵されているとしたら。古くは通信事業で独占的地位を謳歌した日本電信電話公社(NTT)やPCの覇者となったMicrosoftとIntel、インターネット検索エンジンの標準となったGoogleと同様に、ソフトバンクとARMはIoTインフラを標準的に支える企業となるのかもしれない。

ARMの将来業績を推計した結果

 ARMは、株式時価総額がこれほど高くなければ、とっくの昔に買収されていたかもしれない企業だ。最も懸念すべき事態は、資本主義が未成熟な国で自社の営利のみを追求する企業、あるいは類似の投資ファンドがARMを買収することだろう。ARMの独占的な地位を持ってすれば、ライセンスとロイヤリティの金額をつりあげることも可能であり、そのような暴挙がまかり通りかねない。もちろん、そのような企業による買収提案に、賢明なARM取締役会が応じる可能性は極めて低いと思われる。それでもソフトバンクという日本の企業が買収することによって、ろくでもない巨大企業集団にARMが買収されるリスクはゼロになったと言える。とりあえずは、そのことを喜ぶべきかもしれない。