山田祥平のRe:config.sys

もうすぐさよならワードパッド

 Windowsに標準添付されているワープロアプリとしてのワードパッドが、今後、更新されなくなり、Windowsの将来のリリースで削除される予定であることをMicrosoftが発表したそうだ。個人的にはそれほど熱烈なファンではないし、なくなっても困りはしない。ただ、これを機会に、標準アプリという存在について考えてみたいと思う。

廃止が発表されたワードパッド

 いつなくなるという時期的なものが明示されたわけではないが、2023年9月1日に廃止が発表されている。今後は、リッチテキストドキュメントにはMicrosoft Wordを、プレーンテキストドキュメントにはメモ帳を推奨するということだ。

 OSに標準で含まれるアプリは、機能的にはWindowsの開発元であるMicrosoft自身や、そのほかのサードパーティから、有償無償を問わず、別途提供されるアプリと比べたとき、ほとんどの場合は機能的に劣る。

 今回、MicrosoftはWordとメモ帳の名を挙げて推奨しているが、今もWindowsの一部として更新が続き、最近ではタブ対応などを果たしたメモ帳と違い、Wordについてはスタンドアロンで使えるアプリがワードパッドの代わりにWindowsといっしょに提供されるわけではない。ただし、WordはMicrosoftのOfficeスイートに含まれるアプリであり、Microsoft 365アプリとして、Web上では無料で使えるようになっている。

 OS標準アプリの何がいいかというと、どんなPCに向かったときにも、管理者などによって意図的に削除されていない限りは、そのアプリが使えることが保証されているという点につきる。数行のテキストファイルを作りたいがエディタがなくて詰むということがない。今さら、

C:\> copy con > file
abcd
^Z

なんてハックは自慢にもならない。

 機能が制限されているから動作が軽くてスイスイ使えるといった点にメリットを見出すユーザーもいるかもしれないが、一般的なPCで、Wordとワードパッドを使ったときに、その軽快度の違いを感じることはほとんどないんじゃないだろうか。

 ワードパッドはwordpad.exe、メモ帳はnotepad.exeというファイル名のアプリだ。ワードパッドはMicrosoft Writeの後継だが、メモ帳はずっとメモ帳だ。

 MS-DOSの時代、テキストドキュメントの編集にはEdlinというアプリが提供されていた。いわゆるラインエディタでスクリーンエディタではなかったため、ほとんど使われない存在ではあったが、1986年、MS-DOS 3.1付属のバージョンに日本語文字列の置換に関するバグが見つかり、報道によってそのリコールが行なわれたことで、一気に知名度をあげた。メモ帳は、そのEdlinの後継ともいえるが、WindowsのGUI時代には、その時代にふさわしいテキストエディタが必要で、メモ帳はその役割を立派に果たし、今なお使われている。

 そういう意味で、ワードパッドは、きわめて中途半端な存在だったのだろうけれど、なくなってしまうのはやっぱり、ちょっともったいない。

プレーンとリッチ

 ワードパッドは、プレーンテキストドキュメントではなく、リッチテキストドキュメントを扱うためのアプリだ。プレーンとリッチの違いは、編集対象のテキストが書式を持つかどうかだ。つまり、任意の文字列に対して任意のフォントを割り当て、文字サイズを指定し、場合によっては色をつけたり、アンダーラインを引いたり、取り消し線や下線を引いたりといったことができる。さらに、画像はもちろん、ほかのアプリのデータなどを埋め込み挿入できる点でもリッチという名にふさわしい。

 今から考えると、ワードパッドに将来的な視点があったのは、印刷をしないなら、その文書におけるページの概念を意識する必要がなかったことではないだろうか。ページの概念がないということは、縦方向の物理的な長さについて気にする必要がないということだ。そうはいっても、行が折り返す横幅がなくては使いにくいので、ウィンドウ幅に合わせて右端での折り返しを指定することができる。メモ帳にも同等の機能があり、両アプリは似ていて非なるが兄弟アプリのような存在だ。

 この時代に、どちらかを残して、どちらかを削除するなら、大は小を兼ねてワードパッドを残すということもできたはずだ。でも、残ったのはメモ帳だった。

 個人的には、ページの概念を持たず、ウィンドウサイズだけに依存してリッチテキストを編集できる標準アプリが欲しいと思ってきた。ワードパッドはそれに近いアプリだったが、1つできないことがあった。文字列にリンクを設定することができなかったのだ。

 インターネットが一般化し、ブラウザがOSの標準アプリとして提供されるようになった結果、ページの概念がないグラフィカルなリッチテキストを表示するという点では本当にラクになった。すべての文書は表示デバイスの中に区切られたウィンドウ幅を持つ1ページなのだ。

 PDFというソリューションも根強い人気を維持しているが、A4縦などの一般的なサイズ感を前提とせず、デバイスの性能やサイズなどに応じて最適化された見かけでドキュメントを参照するには、ページの概念はむしろ邪魔だ。ページの概念さえなければ、名刺サイズのディスプレイでも、A4サイズのディスプレイでも、どちらでもそれなりに読みやすい見かけで文書を表示できる。

 かつてはデバイスインディペンデントが求められたが、今は、思いっきりデバイスに依存した表示が欲しいのだ。

 なのに、ついに、ワードパッドはハイパーリンクをサポートしなかった。ただしURLを書き込めば、そのクリックでリンクは開ける。だからこそ惜しい。ちなみに、Microsoft Wordは当然のようにリンクをサポートしている。

 現行のMicrosoft Wordには、5つの編集画面モードがあり、そのうちの1つである「Webレイアウトモード」を使えば、ページの概念がなくウィンドウの横幅を1行として右端で折り返す編集画面のリッチテキストエディタとして機能する。個人的にワードパッドに目指してほしかったのは、この方向性だ。それがついにかなわなかった以上、このアプリに未練を感じることはない。

 マシンを使った「読み」についてはブラウザが多くの面を解決したが、マシンを使った「書き」については、「紙に印刷したのと同じ体験をマシンでかなえる」ことにこだわり続けたばかりに、ワードプロセッシングの未来が、どこかの時点で見失われてしまったように思う。

読みと書きとパーソナルコンピューティング

 ブラウザは、まるで万能アプリのように、あらゆる作業をサポートする。「読み」専用だからこそのブラウザという呼称だったが、今では、当たり前のように「書き」もサポートする。そして、多くのWebサービスがProgressive Web Appとして機能するので、個別に標準アプリを用意しなくても、一通りのことはできる。そういう意味ではOS標準アプリというのは、もう役割を終えようとしているのかもしれない。

 インターネットにつながっていないPCで、いったい何ができるのか。自分がやりたいことのうち、どのくらいのことができるのかを考えてみるのもいい。飛行機でのフライト中でさえ、インターネットが使える時代に、自分自身のパーソナルコンピューティングを再確認できるかもしれない。