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ハッピーバースデー.PDF

 2023年6月15日、アドビのPDFと「Adobe Acrobat」が30周年を迎えた。日本では日本記念日協会の認定のもとに「PDF(Portable Document Format)の日」も制定された。デバイスに依存しない電子の紙を目指してきたPDFだが、30年という歳月を経て、これからどこに向かうのだろう。

 来日した米Adobe, Inc. デジタルメディア事業部 Document Cloud プロダクトマーケティングディレクターの山本晶子氏に話を聞いた。(冒頭の写真は記念日登録証と山本氏、アドビ株式会社マーケティング本部デジタルメディアビジネスマーケティング執行役員 竹嶋拓也氏)。

デバイス依存からの脱却

 かつて文書はネットワークを通じて配布するものではなかった。パソコン通信サービスで、個人にとっては電子メールが当たり前になっていても、企業はそうではなかった。プリントアウトが当たり前で、郵便や国際宅急便でやりとりされていた。だが、1980年代の終わりから1990年代にかけてアドビの共同設立者であるジョン・ワーノック氏が、その改革を推進し1993年にPDFとAcrobatが誕生している。別の面でパーソナルコンピュータを一気に身近なものにしたのが1995年のWindows 95だが、その発売の2年前の出来事だ。

 今、PDFはドキュメントクラウドというアドビのビジネス戦略の中で、AIやオートメーションを取り込むことで、その価値を再び活性化しようとしている。PDFは情報のコンテナであり、さまざまなレイヤーを含む。表示部分ばかりが注目されがちだが、フォームデータやメタデータなど、いろんな宝としてのデータが詰まった封筒であることを忘れてはならない。

 デジタル文書はサステナビリティに貢献するともいう。今、数兆にのぼるPDFがメールやウェブ、クラウド上でやりとりされ、2022年にはアドビアプリの上で4,000億回以上閲覧、または作成されたというPDFだが、アドビの調べでは、Microsoftのコミュニケーションツールでやりとりされる電子メールに添付されるファイルに占めるPDFの割合は4割に達するという。

 インテリジェンスのコンテナであるというPDFの特性を理解し、状況に応じたPDFを作成してもらえるように啓蒙していこうというのが今現在のアドビの考え方だ。

企業は頑固、変わるも変えるのも大変

 山本氏は米Adobeの中でドキュメントクラウドを率いる立場にある。1999年に入社、ビデオ編集ソフトPremiere の開発、アドビストアおよびCRM基幹システムの立ち上げにビジネスアーキテクトとして従事したあと、Acrobatのプロダクトマネージャーとして製品戦略と仕様の決定に携わった。そして、プロダクトマーケティング部門の立ち上げにより現職につき、エンタープライズ向けDocument Cloudのグローバル製品およびマーケティング戦略を統括している。ほぼほぼPDFを牽引してきた立場だといっていいだろう。

 「デジタルリテラシーの高い人は苦も無くコンピューターに移行できます。でも、コンピューターさえ使えない人はたくさんいますよね。だったら慣れ親しんだやり方を抵抗なく電子に移すことで脱却できるんじゃないか。それに、紙の文書は情報漏洩の観点からも危険です。こうした点をうまく解決してデジタルへの移行を促してきました。

 その一方で、ワークフローについては一筋縄ではいきません。人間は変化を嫌うので、北米では、何かを変えるようなときにはチェンジマネージャを雇うくらいです。抵抗なく電子的なワークフローにするためにはどうすればいいかを常に考える必要があります」(山本氏)。

 いわゆる紙の文書、つまり、ある一定の体裁を保った書類はなくなることはないとも山本氏はいう。企業には、常に、データを何らかの証拠として残したいという願望があり、それは紙の書類であってほしく、だからこそ紙の書類はなくならないのだそうだ。もちろん、今さらなぜPDFかという議論もあるが、フォーマルなドキュメントは決してなくならないと山本氏は考える。

 企業が蓄積してきた過去の遺産としての紙の文書は膨大で、大きな企業が何億ページという紙をPDFにしてOCR処理したいと考えているらしい。つまり、PDFを造るだけでは意味がなく、それをどう活かすかが問われていると山本氏は考える。

電子の紙を再定義したい

 個人的には30年間を経たPDFは、今こそ、「紙」という概念を再定義するべき時にきているのではないかと思っている。デバイスを問わずに同じ見かけの文書等を提供する電子の紙という考え方は、もはや古き良き時代のものとなりつつある。誤解を怖れずにいえば、紙から逃れられないことが足かせにもなっている。今は、表示デバイスのサイズや読み手の視力等に応じて、文書の構造はそのままに、見かけを変えてデバイス上に表示することが望まれているはずなのだが、多くのエンドユーザーは、そのことに気がついていない。

 2020年、アドビは、PDFの閲覧体験を向上するために「Liquid Mode」を発表、Adobe Senseiが見出し、段落、画像、一覧、表などのPDFの要素を把握して特定し、オリジナルと同一の体裁であることを捨て、ダイナミックなカスタマイズ表示を可能する計画が明らかにされている。画期的だと思った。届いたメールに添付されたPDFをモバイルデバイスで開くたびに、その可読性の低さにがっかりする日々を経験していたからだ。

 だが、すでに3年もたつのに頓挫したような状態が続いている。Creative Cloud関連のアプリがAIの力を借りて著しいアップデートが続いているのとは対照的だ。

 そのあたりも山本氏にきいてみた。

 「Liquid Modeは日本語化が遅れています。生成AIなどに注力する中で、リソースのアロケーションが難しく、さらには日本人の特性として、極めて高いクオリティを求めるために、チェックポイントのハードルがとても高いものになります。でも、挫折したわけではありません。今はまだ申し上げることはできませんが、着々と作業は進んでいます」。

 企業顧客が多いアドビにとっての文書管理は、企業が何を求めているのかに強く依存すると山本氏はいう。アドビのミッションは顧客が困っていることを提供していくことであり、お馴染みのCreative Cloudアプリは誰もがクリエータに、コミュニケータになれるようなソリューションを提供する。どちらかといえば、アドビがこうしなさいというよりも、ニーズによりそうような方向性だ。

 でも、アドビはイノベーションカンパニーでもあるのでユーザーを牽引することはある。それが、Microsoftの生成AI活用シーンでも注目されているコパイロットという考え方だ。いわゆる副操縦士であって、決してメインにはならない。

 「いろんな顧客と話すのですが、国によって本当に考え方が異なるのです。企業の大きさや、担当者のリテラシーなどでもちがってきます。バリエーションは無限です。

 今は、AIとマニュアルプロセスがどこまで残るか。セキュリティについてもどこまでやるのかを、各国、そして業界のコンプライアンスに基づいて考えています。そして、今後、どこまでAPIを公開するべきなのかなど、積極的に機能を使ってもらえるようなビジョンをもんでいることです。少なくとも、もうデスクトップパソコンだけの時代ではないことは確かです。そういう意味ではコンシューマによりそうことは簡単です。立ちはだかるのは企業です」(山本氏)。

 どんどん昔のシステムが動かなくなってきている。だから北米の企業はDXについての投資をゆるめない。全部捨ててやりなおしのフェーズに入っていると山本氏。もう増築改築を繰り返したつぎはぎだらけのシステムがなくなるのは時間の問題だ。ただ、米国はそんな国なのに訴訟大国でもあって紙が残り続ける。何かあった時のために。さまざまなログまでPDFで残すのだそうだ。だからこそ、PDFが編集できることに困ると言われた思い出を山本氏は振り返る。

 30歳になったPDFとAcrobatを前に、この先の30年間を思うのは、紙の再定義だ。紙の横幅は無限であり、ページ数は常に1であるとすれば、多くの変化が起こる。それができなければ、人類のDXの足を引っ張る。コンピュータによって、アナログをデジタルに置き換えようとしてきた数十年間は、ぼくらの仕事や遊び、そして暮らしにいろいろな変化をもたらしてきた。その中でPDFの果たした功績はきわめて大きい。だからこそ、次の一歩に踏み出してほしい。

 デバイスに依存せずに、紙を再現するのではなく、思いっきりデバイスに依存し、そのサイズのバリエーションやエンドユーザーの視力、好みにあわせた体裁で情報を提供する新しい紙。生成AIが箇条書きを流ちょうな文章にリライトするように、要点のメモを美しくレイアウトして分かりやすいイラストを添えてエディトリアルデザインとして生成するような時代はすぐそこにきているんじゃないか。その提案とサポートをアドビには求めたい。でもアドビはオーサリングツールを作らない会社だと山本氏。そこが悩みの種ではある。さて、次の30年間を経てPDFが還暦を迎えるとき、どのような姿になっているのだろうか。