山田祥平のRe:config.sys

サービスサイズシンドローム

 映像や画像はその構図がものをいう。よい写真、よくない写真も構図で決まるというわけだ。ところが、昨今は、その構図がパターン化しつつあることが気になっている。今回は、デジタル社会的風景における構図について考えてみる。

いま、再びのコンポラ写真

 興味をひく事象、記憶、記録にとどめたいシーンに遭遇したとき、現代人の多くはかならずといっていいほど、スマホを取り出してシャッターを切る。デジタル写真における撮影は、レンズを被写体に向けた時点でできあがりがわかるし、その場で確認して気に入らなければ何度でも撮れる。

 フィルムの時代には最初のレリーズで露光し、それを引き伸ばし機にかけて2度目のレリーズを他者に委ねてプリントを手にしてきた。手間も暇もかかったのだ。そして、そのプリントも、いわゆるL版サービスサイズと呼ばれる大きさで、大きくもなく小さくもない手のひらサイズだ。四つ切りなどの大サイズにプリントされる写真は本当にごくわずかであり、写真館などでプロに撮ってもらう記念写真くらいのものだった。

 プリントにおける用紙のサービスサイズは写真を変えたとも思っている。ある程度、低コストで、小さすぎも大きすぎもしない手頃なサイズのプリントが得られるために一般の人でも多めに写真を撮るようになった。当然ながらサイズがサイズなので全体の構図を深く検討するというような余裕はなく、撮りたい対象をしっかりと捉えることが重要だ。つまり、鑑賞というよりも、心情や事実を伝えること、残すことに重きが置かれた。

 いま、写真を取り巻く状況を見ると、どうも先祖返りをしているようにも感じる。日常の中で体験した特別なできごと、たとえばペットのかわいい表情、舌鼓を売った目でも楽しめる料理などなど、いわゆるインスタ映えするような光景を連想させるような社会的風景を主題にした写真の本家は、1966年に米・ジョージ・イーストマンハウスで催された“Contemporary Photographers. ~Toward A Social Landscape”という写真展に端を発しているように思う。

 ここで生まれた写真のブームが「コンポラ写真」と呼ばれるスタイルだ。このことは2004年にこの連載で話題にしている(パソコンへのときめき参照)。 コンポラ写真の定義には諸説あるが、やはり故・大辻清司氏(1946-1999)が「主義の時代は遠ざかって」で定義した

  • 横位置が多く、カメラの機能を最も単純素朴な形で使おうとする態度
  • 写真表現の手練手管を潔癖なまでに否定している
  • 日常ありふれた何気ない事象が多い
  • 誇張したり強調するようなことはしない

というのはわかりやすい。

 付け足すことがあるとすれば、被写体を真ん中に置く「日の丸構図」的な写真をよく見かけることくらいだろうか。そして、これはいま、インスタ映えする写真の特徴に通じるものがあると同時に、もしかしたらインスタ映えを狙うこと自体は、むしろコンポラの定義から外れることかもしれない。だが、権威としての構図主義が終焉を迎えていることは明らかだ。

写真とサイズと検索と

 サービスサイズは1990年前後から2000年頃までもてはやされた。いわゆるミニラボが街のあちこちで写真プリントを請け負うようになった時代だ。

 最初からいまのサイズだったわけではなく、初期はもっと小さかったように記憶している。かつての手焼き写真から、次第に自動写真処理機がミニラボで使われるようになり、その次は家庭用のインクジェット写真プリンタが使われるようになり、そのたびに微妙にサイズは変わっている。それでも手のひらサイズに収束しているというのは、このサイズはよほど人間の視覚と相性がいいのだろう。それを踏襲して、いま、そのあたりで見かけるデジカメプリント機でもL版サービスサイズは健在だ。

 スマホの画面サイズにしたって同様で、iPhoneの4.7型、Androidの5型、5.5型などが現在の主流だが、そのサイズ感で見たときにしっくりくる構図が歓迎されているようだ。

 スマホで撮ってスマホで見たときにはちょうどいい写真も大画面で見たときには印象が変わる。最近のホテルや旅館の部屋に据え置かれたTVは大画面化の傾向がある。先日出張で泊まった安いビジネスホテルでも、机の上には32型のディスプレイがあり、HDMI入力すればPCの画面を大画面で使うことができて重宝した。今回の出張は24型モバイルディスプレイを持参していなかったので助かった。

 手元の環境では一眼レフカメラで写真を撮ると、それがスマホアプリにBluetoothで送信され、さらに、その写真がクラウドにアップロードされる。だから部屋に戻ってしばらくたつと、PCのブラウザでカメラの中の写真が確認できる。すると、同じ写真なのに、スマホの画面で見たときとTVの比較的大きな画面で見たときには印象が異なることに気がつく。

 多くの人はそんなことをしないので、ほとんどの写真はスマホの中で完結する。仮に誰かに写真を送ったり、インスタ映えするはずと確信して投稿しても、その写真を見る相手もスマホだ。だから手のひらサイズの写真が手のひらの中で消費されるのだ。

 でも写真は消費されても消滅するわけではない。それに、われわれ現代人には検索という頼もしいサポーターがいる。ときには10年近く前に自分で撮った写真をスマホの中から見つけてくれる。将来的には画像検索はもっと賢くなるだろう。そうすると、紙焼き写真を貼り付けたアルバムの中からでは探すのが難しかった写真に再び出会う可能性は高い。いや、ゴムバンドでしばった何百枚の写真をめくっていくよりずっとラクチンだ。あるいは自分が投稿した写真が誰かの検索にひっかかることもあるだろう。そういう意味では写真は見られて消費されているように見えて、じつは、そうじゃない。そこがデジタルの強みだ。

 だからこそ時代ごとに写真は変わる。かつてはプリント用紙のサイズに依存していた写真体験も、PCの時代には画面サイズに依存していた。同じ写真が環境ごとにどんなサイズで見られるのかがわからなかったのだ。でも、いまは、ほとんどの場合、スマホで完結する。それがほぼサービスサイズである。スマホで撮ってスマホで見られることを前提にSNSに投稿したり、特定の相手へのメッセージとして送られる。誰もがほぼ確実に写真機(たとえそれがスマホであったとしても)を携帯し、サービスサイズ写真を大量に生産している時代を、半世紀前のコンポラ写真の時代に想像できただろうか。

 それまでの芸術写真の権威をコンポラ写真が変えたように、いま、スマホはかつてのコンポラ写真にあった主義主張を変えようとしているともいえる。もともと主義主張を否定することからはじまったはずのコンポラ写真なのに変な話である。

 これが先祖返りなのか革命なのか、それはあと50年たってみないとわからないだろう。少なくとも今は、歴史上のいつの時代よりも写真がたくさん撮られている時代だといえるのにだ。