記憶というのは、きわめて曖昧なものだ。過剰に美しくもあり、すさまじく悲惨な場合もある。時間がたつにつれて、記憶は一人歩きを始め、本人の都合のよいように塗りかえられてしまう。 写真がまだなかったころは、記録のために記憶を使うしかなかった。さらに、記録のために画家がどんなに細密に現実を写し取ろうとも、人間の手には限界がある。しかも、見ようとしていても見えなかった事物もあれば、たとえ見えていたとしても、それを主観が取り除いてしまった事物もあったはずだ。 写真の発明は、この状況を一変させた。現実に起こったことを純然たる記録として残すことができるようになったからだ。 ●主義の時代に振り回されないために 記録という役割を奪われた絵画と同様に、写真もまた、新しいメディアの登場や新しい価値観の誕生、そしてその多様化によって、何度も右往左往してきた経験を持つ。 1966年12月、米・ジョージ・イーストマンハウスで、“Toward A Social Landscape”という写真展が開催されている。企画したのはNathan Lyons。この人は、それ以前には、ニューヨーク近代美術館(MOMA)において、John Szarkowskiと並び称される立場にいたスターキュレーターだったそうだ。この写真展には、Bruce Davidson、Lee Friedlander、Garry Winogrand、Danny Lyon、Duane Michalsの作品が取り上げられ、当時、大きなムーブメントを起こしたらしい。いわゆる、コンポラ写真のブームだ。 彼らの写真は、今も、ちょっと検索すれば、すぐに見ることができるので、ぜひ、眺めてみてほしい。ぼくは、この時代の写真が好きで、彼らの写真集もたくさん手元にある。また、最近は、彼らが残した有名な写真集の復刊が相次いでいるのもうれしい。 写真家の故・大辻清司氏(1946-1999)は、雑誌「カメラ毎日」が、1968年6月号の誌面で展開した『シンポジウム・現代の写真「日常の情景」について』に、『主義の時代は遠ざかって』という文章を寄稿、コンポラ写真について次のような定義を紹介している。 ・横位置が多く、カメラの機能を最も単純素朴な形で使おうとする態度 大辻氏は、 「表現を仕事とする人たちには、うつり変わる事態にもはや論理をうちたてる暇がないし、ぐらついた価値観の上にどんな論理も立てようがない」 と指摘し、確立された○×主義の右に倣え時代の終焉を宣言する。 写真が通り過ぎたこの時代を、コンピュータの歴史に重ねて考えると、それこそが、パソコンの登場に合致するのではないかと思う。もちろん、年表空間的に同じというのではなく、変化の兆しという意味で、1980年前後の時期に相当する。 それまでは、空調のきいた大部屋に鎮座していたマシン様を、使わせていただくという態度が当たり前だったコンピュータだが、みるみるうちに、机の上で使えるサイズになり、個人でも手が届く価格になった。そして、パーソナルコンピュータに夢を見い出した連中が、寝食を忘れて没頭したエネルギーが、大きなうねりとなって、今の時代の礎を築く。 ●シルバー世代の執着心 大きな枠組みからちょっとはずれてみて、自由な発想で物事を見つめ直してみると、そこには、思いっきりパーソナルな新しい世界が発見できる。 あれもできる、これもできるというバリエーションに富んだお仕着せのソリューション選択肢の中から自分が求めているものを選んだら、たまたまそれはパソコンだったというケースは多いだろう。でも、好奇心による衝動で買ってしまったパソコンを前に、さて、こいつを何に使ってやろうかと考えるケースはそれほど多くはない。人々にとって、パソコンそのものはもはや目的ではなくなってしまった。 だが、最近、ちょっと事情が変わりつつあるようだ。というのも、シルバー世代と呼ばれる人々のパソコンへの執着ぶりに、異変の兆しを感じるのだ。 今、街のパソコン教室は、この世代の人たちでにぎわっている。書店の店頭には、老眼に苦しむこの世代の人たちのために、大きな活字で組んだ入門書が並んでいる。そして、彼らはMicrosoft ExcelやMicrosoft Wordを学びたがる。 考えてもみてほしい。ごく一般の市民にとって、Excelを使って計算しなければならない対象がどのくらいあるのだろうか。Wordを使って美しくページレイアウトしなければならない文書をどれくらい書かなければならないのか。 携帯電話さえ使うのを拒む世代の人々が、今、懸命にパソコンに取り組んでいる。彼らにとっては、パソコンがもたらす結果が目的ではない、パソコンそのものが、Excelが、Wordが目的になっている。 若い世代にとって、機械は思い通りに動いて当たり前の存在だが、シルバー世代にとっては難解複雑な代物だ。それが思い通りになったときの達成感は何物にも代え難いはずだ。だからこそ、彼らは、ひたすら、その境地を目指す。 仕事にパソコンを使い、使わされるのではなく、純粋な興味と好奇心でパソコンを使う、その気持ち。もしかしたら、彼らこそが、黎明期のパソコンに没頭してきた連中が感じたであろう、あの気持ちをもっとも理解できる層なのかもしれない。 ●Toward Digital Landscape 冒頭の図版は、先に紹介した写真展の図録として出版されたものだが、「Toward A Social Landscape」は、日本語では「社会的風景に向かって」と訳されている。大自然ばかりが人を感動させる風景なのではなく、普段の何気ない生活の中にも、個人が感動したり、興味を惹く風景はたくさんある。それが、等身大の風景として、人の心を打つ。こうした風景が、感性を刺激し、人生を豊かにしてくれるように感じることもある。 この写真展で紹介された写真家たちは、そんなの写真じゃないというような誹り嘲りをものともせずに、パーソナルな世界を写真にした。大辻氏のいうように、何かを伝えようとしているようにも見えない。 一方、今、ぼくらは、そんなのパソコンじゃないといわれるくらいに従来の枠組みから離脱したパソコンの使い方を提案できるだろうか。けれども、パソコンにときめきつつ、それができなければ、パソコンのもたらすであろう新しい世界は見いだせない。自戒もこめて、今、ぼくらが、もっとも考えなければならないことなんじゃないかと思う。考えることをやめたら、それでゲームオーバーだ。 バックナンバー
(2004年8月27日)
[Reported by 山田祥平]
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