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偶然が重なり合って生まれ、紆余曲折を経たHHKBの20年
2016年11月24日 06:00
株式会社PFUが開発/製造/販売しているキーボード「Happy Hacking Keyboard」(HHKB)が、2016年12月20日で初号機登場から20周年を迎える。それに先立ち、都内でHHKBユーザーおよびメディア、関係者を一同に集めた祝賀パーティーが開かれた。
パーティーには、製品開発の初期の段階から携わっている開発者や考案者も参加し、淘汰が著しいPC市場で、なぜHHKBが生まれ、そしてなぜ20年間ほぼ同じフォルムを貫けたのかについて熱く語られた。
人とPCを繋げるインターフェイスだからこそ続けられた20年
冒頭では、株式会社PFU代表取締役社長の長谷川清氏が挨拶。1996年12月に第1世代のHHKBをリリースした時は500台しか生産しなかったのだが、20年間で累計40万台を超える数の出荷ができたことを振り返り、これもひとえにユーザーの支持、そして高級キーボードNo.1として認知されているためだとし、謝辞を述べた。
淘汰が著しいPC市場で、HHKBが20年間もの間姿や形を変えずに継続できた理由について、長谷川氏は、HHKBのベースとなったモデルを考案した東京大学の和田英一名誉教授の談話を引用した。
「“アメリカ西部のカウボーイたちは、馬が死ぬと馬をそこに残していくが、どんな砂漠を歩こうとも、鞍は自分で担いで進んだ。馬は消耗品であり、鞍は自分の体に馴染んだインターフェイスだからだ。今やPCも消耗品だが、キーボードは大切な、生涯使えるインターフェイスであることを忘れてはいけない”。この言葉の通り、HHKBはPCとユーザーを繋ぐ大事なインターフェイスであり、PCが例え2年で淘汰されたとしても、キーボードは使い続けられる。我々はこのコンセプトと信念をもとにHHKBの事業を継続させてきた」と語った。
長谷川氏は過去の20年の遍歴についてもかいつまんで紹介したのだが、パーティーの後半で、開発に携わった社員らが自らのより詳細な体験を語ったので、記事の後半でそのあらましを紹介するとし、ここでは割愛する。
偶然が重なり合って生まれたHHKB
挨拶が終わりしばらく会食が続いた後、HHKBの開発の経緯や歴史について語られた。先頭に立ったのは、HHKBのコンセプトの考案者である、東京大学名誉教授 和田英一先生だ。
1970年台はさまざまな種類のPCがあって、各々の規格があり、規格が乱立していた。そんな中、最初にチャンスが訪れたのは1992年だった。当時のPFUの社長であった二宮氏から、PFUが発行している技術情報誌「PFU TECHNICAL REVIEW」で巻頭言を書いて欲しいという依頼が和田氏に舞い込んできたのだ。
本来、同誌の巻頭言は1~2ページ程度で良かったのだが、和田氏はなんと10ページにも渡る“論文”を書いてしまったという。「けん盤配列にも大いなる関心を」と題されたこの論文の内容はもちろん、当時のPCのキーボードについての考察だ。PFU TECHNICAL REVIEWのバックナンバーにはないが、この巻頭言は今でもPFUのサイトで閲覧できる。なぜ当時さまざまなキーボードがあったのか、キーボードはなぜこのような形をしているのか詳しく解説されているので、本誌の読者ならぜひ一読して欲しい。
論文の論点は、PCとユーザーを繋ぐ重要な役目であるインターフェイスは変わるべきではないということだ。当時和田氏はSunのワークステーションを導入していたのだが、これを入れ替えるたびにキーボードの配列が変わってしまい、なかなかタッチタイピングができないという悩みを抱えていた。
ならばということで、論文の中で
1.使う計算機は固定し、他の計算機の場合はネットワーク経由で使う。
2.キーバインディングを自分用に変更する。
3.キーボードのコネクタを規格化し、自分のキーボードを持ち歩く。
4.キーボードの最小共通部分を規格化し、そこだけ使うようにする。
という4つの解決法を提唱した。言うまでもなく、和田氏とPFUがHHKBで目指したのは4番であるほかない。
この論文を発表した後、しばらくは音沙汰がなかった。和田氏自身も、この論文を書いたことすら忘れてしまうぐらいである。転機が訪れたのは1995年だった。東京大学を定年退職した和田氏だったが、富士通研究所に在籍していた。富士通は当時、内部で1年に2回研究に関する成果報告会があり、PFUの専務が成果を見に回りに来る。その時和田氏の担当となった専務が、新海卓夫氏だった。
実は、新海氏は、1970年台に和田氏と一緒になって計算機を作るプロジェクトを共にしており、その時から面識があった。その報告会の帰りにいろいろな相談をしていたのだが、1992年の和田氏の論文を覚えていた新海氏は、「このキーボードを実現するために是非PFUにお寄りください」と声をかけたのだという。
相談を受けた和田氏は、紙を切り貼りして作ったキーボード(の配列)を、当時町田にあるPFUに持っていった。「これなら(提案が)ダメになっても不思議ではない」と思っていたが、PFUの開発者たちは本気で作ろうと思っており、プロジェクトが開始。1996年夏頃にはみるみるうちに製品ができあがっていった。そして1996年の12月に、WIDE研究会に1台持っていったところ大好評となり、500台だけ生産していたものがあっという間に売れてしまったという。
「二宮社長から巻頭言を依頼され、たまたまキーボードについて書いて、新海氏がそれを読んで覚えてくださり、コンセプトを持っていったらプロジェクトが進んで発売になったというのは、まさに偶然に偶然が重なりあって生まれた製品ではないかと思う」。そう和田氏は振り返った。
HHKBは20周年という年を迎えるが、和田氏は、「やはり一生使えるインターフェイスというコンセプトがあったからこそ20年間続けられたのだと思う。PCは2年ぐらいで買い換えるのだが、インターフェイスはプリミティブであったからこそ今まで生きながらえた。今日を迎えられたことを大変嬉しく思う」と語った。
なお、和田氏は今年(2016年)で85歳を迎えられるが、未だIIJ技術研究所で活躍されている。現在の趣味は3Dプリンタで、「今からキーボードを作るなら金型を作る必要はなく、ぜひ3Dプリンタの技術を駆使して作って欲しい」と語る同氏。HHKBが30周年、40周年を迎えるタイミングでも和田氏にパーティーに来て欲しいと思ったPFUのスタッフからは、HHKBを模ったケーキが和田氏に贈られた。
決して順風満帆ではなかったHHKBの20年
HHKBの進化の歴史については、PFU自身が特設サイトを開いており、そこでも参照できるのだが、ここではパーティーの中でだけ触れられた「裏話」を時系列に紹介していこう。
実はHHKBのプロジェクトが始まった当時、PFUの事業推進部門にいた松本秀樹氏(現在PFUでイメージング部門の国内営業統括部長)は「なんでこんなプロジェクトがあるんだ、ウチはPC屋だぞ」と思っていたという。だが当時松本氏の上司が「社内で面白いチャレンジがあるのはいいことじゃないか、品質管理とかサポートとか、そういったことを取っ払ってやってみようじゃないか」と推し、プロジェクトの実現に踏み切ったという。それだけHHKBはPFUの中でも異例のプロジェクトだったのだ。
HHKBの最初の試作機はX端末のキーボードで、それを糸鋸で切り貼りして完成させたという。初代の開発にかかった費用は2,000万円。それを少しでも回収しようと、1台あたり3万円という価格設定にした(500台で1,500万円の売上)。
そしてASCII配列を採用していることも手伝って、米国市場で販売することが決定する。当時AppleやPixarなどからも注文があり、担当者はHHKBが世界にも認められるという手応えを感じつつも、3万円という価格がネックとなり、とにかく数が売れなかった。そこでアメリカ主導で廉価版を作ろうということになり、OEM供給できるところを探した。
最終的に辿り着いたのは台湾のキーボード製造大手のChicony Electronics。当時月間250万台の製造規模を誇るキーボード大手会社が、HHKBのように月間1,000台、良くて2,000台ロット規模のキーボードを製造してくれるとは思わなかったそうだが、日本で売り出したところ意外と好評だったため続けられたという。
それでも米国市場ではなかなか受け入れられなかった。営業は1人で販売、広告作成を任され、キーボードを背負ってキャラバンに持っていくと言ったようなことまで任された。当時インターネットのウイルスやワームが流行った背景もあって、客先に言われたのが「Hackingという名前があまり良い印象ではない」ということだった。そこでHappy Hackingのロゴの代わりに、自分の名前が入れられるネームプレートを用意したところ、飛躍的に売上が伸びていったという。
実は、主に米国市場向けにPalmでキーボードが使えるようになる「Happy Hacking Cradle」なる製品もリリースした。これは当時アメリカの雑誌に「Must have」と評されるほど完成度であったのだが、まったくの鳴かず飛ばずで黒歴史入りされる。パーティーでHappy Hacking Cradleの話を持ち出すと、PFU社員全員が顔を俯けて笑うほどである。
ちなみに日本で「Happy Hacking」という商標を申請する際も、「これはハッカーの育成を助長するものなのか」と言われ、却下されたという苦い思い出もある。そのため、今の刻印は「HHKB」となっているのだ。
その後、米国市場が不調で、ついに閉じられることとなるが、東プレと協業して実現した静電容量無接点方式の採用(金型の減価償却で試行錯誤)、無刻印モデルの投入(これは松本氏の娘がピアニカに“ド・レ・ミ”のシールを貼っていたことからの逆転の発想)、アルミフレームを採用した「HG」と、輪島塗キートップ(これは当時の社長が輪島氏だったため)を採用した超弩級モデル、キーストロークを0.2mm短くし、静粛性を向上させたモデル、そして現在のニーズを鑑み、消費電力的に実現が難しいと言われた静電容量無接点方式で初のBluetoothモデルの投入に至っている。
HHKBの20年は決して順風満帆ではなかった。紆余曲折を経てようやくここにたどり着いたのである。「一生涯使えるインターフェイスを実現しなければならない。そのために続けようと思う気持ちがなければ続かなかった。20年続けられたのは、言うまでもなくHHKBユーザーたちの支持と愛であった。和田先生のコンセプトを貫き通せるよう、30周年、40周年を目指したい」。松本氏はパーティーでこう締めくくった。