“ネットノート”という言葉に込めた東芝の想い



1989年に発売された「東芝 J-3100 SS001」

 今を遡ること20年前となる'89年というのは、日本のパソコン史上とても興味深い製品が登場していた。この年の2月に富士通は32bitプロセッサとCD-ROMドライブを搭載した、初の家庭向けマルチメディアパソコン「FM TOWNS」を発売。光ディスクの大容量と32bitプロセッサによるビジュアルコンピューティングの幕が開こうとしていた。

 同じ年、やはりモバイルコンピューティングの萌芽も見られた。6月に世界初のノート型パソコンと言えるA4サイズ、44mm厚、2.7kgの「J-3100 SS001」が発売。当時の価格は198,000円。基本はIBM PC互換ながら独自の拡張で日本語に対応していたため、パーソナルユースで使えるソフトウェアは限られていたのだが、それでも欲しくて1台、ローンを組んで買った思い出がある。

●モバイルコンピューティング時代に向けた技術の萌芽
ストレージはFDD 1台とRAMディスク

 今から思えば、ノート型と言えるシロモノではないのだが、デスクトップ型に液晶を取り付けたようなパソコンが多い中にあっては、とても薄く、小型軽量に見えたものだ。アタッシュケースにSS001を入れて会社に出勤し、開発したプログラムのドキュメントを自前のノートパソコンにインストールした一太郎Dashで書いていた。当時はドキュメント作成のためのコンピュータも取り合いだったので、自前のパソコンを持って行くことにしたのだ。

 9月になるとi286プロセッサを搭載したエプソンの「PC-286NOTE executive」が発売。こちらは高性能プロセッサ搭載ながら、独自も実装技術と液晶技術を駆使して、薄さ35mm、軽さ2.2kgを実現した夢のようなマシンだった(価格も458,000円と当時の筆者にはとても出せない金額だったが)。

NEC PC-9801n

 そして11月。ボーナス商戦期には真打ち登場とばかりに、当時は絶対的なソフトウェアライブラリを誇ったPC-9801シリーズ初のノート型「PC-9801n(98NOTE)」が発売となる。44mmの本体厚に2.7kgというスペックは、まったくJ-3100 SS001と同じ。価格は5万円ほど高い248,000円だったが、ソフトウェアライブラリの面で有利で、1MBのRAMドライブを搭載することで、当時の98用ソフトに多かった2FDD前提のソフトウェアも動かすことができた。

 当時、すでにデスクトップ機の分野ではi286からi386への移行が進みつつあったが、ノート型にはもっと低速なプロセッサしか搭載できない。J-3100 SS001搭載のプロセッサはi8086のCMOS版で9.54MHz動作。98NOTEはというと10MHzのV30だった。CPUは98NOTEの方が速いのだが、決定的な違いではない。

 98NOTEはSS001の爆発的な売れ行きを見て開発したと言われる製品だが、実際には発売間隔は5カ月しかなく、せいぜいNECが元々開発していたノート型製品の開発を前倒しにしてなんとか年末に間に合わせた……といったところではないだろうか。

 両者ともよく売れた製品だったが、漢字テキストRAMを用いて高速に漢字の表示、スクロールが可能な98NOTEには、SS001ユーザーだった筆者も当時の主力アプリケーションだったワープロ、表計算の使い勝手でとても敵わないと思ったものだ。その後、J-3100SSシリーズも強化はされるが、98NOTEシリーズの勢力を奪い取るほどではなかった。

 ちなみに、同じ年に日本初のカラーラップトップマシン「PC-9801LX5C」が発売されており、さまざまな意味で現在のノートPC、モバイルPCに繋がる礎となる技術や製品が生まれた年と言えるだろう。

 と、また悪いクセで前置きの方が長くなってしまったが、こんな昔話を持ち出したのは、東芝がCULVプロセッサ搭載のノート型コンピュータを「ネットノート」と呼び始めたからだ。

●90年前後のノート&ブック論争
2005年の東芝ノートPC 20周年記念発表会で展示された、アラン・ケイ氏のサインが入ったT1100

 すべては昔話である。

 東芝はJ-3100 SS001に「DynaBook」という名前を与えた(国内向け製品のみ)。持ち歩きもできる小型軽量パーソナルコンピュータという着想を得た、アラン・ケイ氏の著作に登場するDynabookという名前に、東芝はとてもこだわりと誇りを持っていた。ところが、NECは同じ厚み、同じサイズ、同じ重さのコンピュータを「98NOTE」と呼び、ノートのように自由に情報を書き込んで使いこなして欲しいとコメントした。

 なにぶんにも昔のことで、しかも当事者は別の仕事をしていたり、一線からは引退していたりで、論争そのものを引っ張り出しても意味はないだろう。あるいは東芝もプライドを持っていた“ブック”という表現に、最大のライバルが“ノートだ”と応酬した事に過敏に反応したのかもしれない。

 しかし、ユーザーを巻き込んで論争が起きたのは、当時のパーソナルコンピュータが黎明期にあったからだろう。ソフトウェア技術はまだ稚拙で、ユーザーインターフェイスも成熟していない当時、コンピュータがどのように進化していくべきなのか、という論争は後を絶たなかった。

 ブックなのか、ノートなのか。今のユーザーにとっては、ハッキリ言って、どっちでもいい話だ。しかし、当時はポータブルなコンピュータのあり方、これから先の進化の方向といった面で、イデオロギーのぶつかり合いがあったのである。技術は未熟だったが、未熟であるが故の熱さが、業界全体にみなぎっていた時代である。

荻野孝広氏(左)と杉野文則氏

 東芝が言うところのネットノート「dynabook MX」シリーズの企画にも携わった東芝PC&ネットワークス社(PC社)PCマーケティング部の荻野孝広氏は、SS001の発売当時からDynaBook一筋で営業・マーケティングに携わってきた。

 「確かに当時はブックだ、ノートだという論争はありましたね。よく憶えています。個人的にはNECの、ノートに色々な情報を書き込んで欲しいというメッセージは、なるほどと思いました。当時のパソコンは買ったばかりでは何も入っておらず、ソフトもデータも全部自分の力でパソコンの中に取り込んでこなければならなかった。だから真っ白いノートというのは、確かにイメージとしてはありますね」と振り返る。

 しかし「今回のネットノートというネーミングに関して言えば、まったく、そういった論争を引きずったものではなく、純粋に新しいジャンルのパーソナルコンピュータが持つ特徴を、端的に表すにはどうすればいいのか、という考えから生まれたものです」(荻野氏)。

●“ネットノート”に込めた想い

 ではなぜネットノートなのか。実のところ、個人的にはこの名前が今ひとつしっくりとしない。筆者が以前、CULVプロセッサ搭載ノートPCのネーミングに悩んでいると書いたメーカーのうちの1社は実は東芝だったのだが、なぜこの名前に落ち着いたのだろうか。

 CULVプロセッサは超低電圧で動作するモバイルPC向けプロセッサながら、価格を抑えたものという位置付けで、チップセットは通常のCore 2 Duo機と共用するため、きちんと作れば長時間のバッテリ駆動が可能で、発熱が少ないので小型化・薄型化が容易。処理能力はCore 2 Duoなので、Atom搭載機とは段違いに速いという製品だ。

 使用する部品の共通化をインテル主導のもと、業界を挙げて行なうことでコストを下げ、枯れた技術・素材によるメカ設計を行なうことで、製品トータルの価格を下げようというもの。徹底した軽量化や液晶パネルなどにもこだわった設計は行なえないが、薄型軽量の製品を比較的容易に作れる。

 つまり、ネットブックよりは上位に位置する製品なのだが、それがネットノートだと言われると、“あれ? ノートってブックより上位なの? ”と、少し昔の議論を蒸し返したくなってしまったのだが、東芝自身は全く意識していなかったようだ。

 さて、CULVプロセッサ搭載ノートPC。単純に考えれば、それまで高コストなモバイルPCを買っていたユーザーが、より安価な新カテゴリ機しか買わなくなる……と悲観的な話になるのだが、東芝ではそうは考えていないという。

 「世界的にネットブックという市場が生まれた時、我々を含め日本のメーカーはネットブック市場への参入が遅れました。1つには、それまでのノートPCビジネスを壊したくないという意図がありましたが、実際にdynabook UXシリーズを発売してみると、従来のコンシューマ向けPCユーザー以外が買って頂いていることがわかりました」と、PC社PCマーケティング部の杉野文則氏。

 「UXを発売してみたところ、それまでdynabookを買って頂けなかったユーザーに買って頂き、東芝製PCの良さを体感して頂いていました(杉野氏)」というように、既存ユーザーが安いネットブックに流れるのではなく、それまでPCを個人で購入していなかった人たちがdynabookというブランドを知る良い機会になっていたのだ。

 そんなdynabook UXシリーズのユーザーの中には、たくさんの“自分所有のパソコンは初めて”という人がいる。そうした新しいユーザーが口を揃えるのは、次に買うならもうちょっと解像度が高く大きな画面が欲しい、もっとバッテリ駆動時間が長くならないだろうか? といった不満だったようだ。

 もちろん、そんなことは先刻承知。その上で安いからネットブックを買っているんじゃないのか、と思う方もいるだろうが、実際にはネットブックで自分専用のパソコンにデビューする人(会社や学校、家族所有などでPCにはもちろん触れているが、自分専用のパソコンは初めてという人)もたくさんいる。

 「そんなUXシリーズでPCを使い始めた人が、ちょっとYouTubeでHD動画を見ようと思ってもスムーズじゃなかったり、手持ちのビデオカメラの映像を取り込んでみようと思ってもパフォーマンスに問題を抱えていたりする。そんな中、インテルが低価格の薄型ノートPCを作るためのプロセッサとプラットフォームを構築する話がロードマップに出てきました。その内容を検討して、これならばUXシリーズユーザーが、将来のスーパーモバイルPC、ウチで言えばdynabook SSシリーズへとステップアップしていくための、1つの中継地点、受け皿として良い製品を作れるのではと思ったのです(荻野氏)」と、日本のメーカーとしては真っ先にCULVプロセッサ搭載ノートPCに参入した理由を説明した。

 そのネーミングに込められた意味だが、まずはネットブックが世の中で定着したため“ネット○○”でネットブックの仲間であることを訴えたいということから、ならばネットノートしかないだろうとなったそうだ。この連載で名前を募集した後、筆者のメールアドレスに届いた案はすべて東芝にも転送していたのだが、結局のところネットブックとの関連性を強く示し、ネットブックユーザーにもうワンランク上のコンピュータ体験を提供する製品という意味を込めてネットノートという言葉に落ち着いたようだ。

●他社にも、ぜひ“ネットノート”を使ってほしい
富士通もCULVベースの「LOOX C」を発表し、このジャンルへの国内大手メーカーの参入が続いている

 以前にも紹介したことがあるが、実はインテル自身は低価格のULVプロセッサを用いたプラットフォームについて、“CULVプロセッサ搭載ノートPC”という、目的や使い方ではなく部品のスペックに根ざす名前を止めようとしている。今年前半は“CULV”と連呼していた人でさえ、CULVという言葉は使わなくなった。その代わりにモバイルサブノートPCという言葉を使っている。

 “サブ”とは副次的なものを表すもので、主力のモバイルコンピュータにはならない、という意味合いが強い。だから、モバイルPCではなく、モバイルサブノートPCを、超軽量、薄型、高性能、長時間バッテリ駆動なスーパーモバイル機の下、ネットブックの上に位置付けたのである。

 しかし、日本のユーザーは“サブノート”という言葉にあまりマイナスのイメージは持たない。そもそも、ネットブックユーザーを受け止める上位の製品なのに、スーパーモバイル機の“下”という表現に、いまいちスッキリしないと考えている人は多かったようだ。荻野氏は「他メーカーの方と喋っていても、みんな今ひとつ納得が行っていないようだった」と話す。

 しかし、だからといって自分たちのマーケティングプランを発表前に明かし、みんなで同じカテゴリ名をプッシュしようとは相談できない。このため、ネットノートという言葉は、今のところ東芝だけの呼称なのだが、できれば他社にも使って欲しいと荻野氏と杉野氏は話す。

●まさに高性能・高機能なネットブック

 さて、実際のdynabook MXはというと、実にオーソドックスなモバイルPCである。CULVとされるプロセッサはCeleronブランドだけではなくCore 2 Duoブランドのものもあり、いずれもデュアルコアなので待たされることも少なく、Atomとは段違いの軽快感だ。これでスペック上、10時間もバッテリが使えるというのだから、そりゃぁ、お買い得と言えるのではないだろうか。

dynabook MX(13.3型モデル)同 11.6型モデル

 ただし、細かな造形や筐体に使っている材質の剛性感などは、やはり“安いPC”という印象。ネットブックと同様、UVコーティングが施されたツヤのある外観を持つので、パッと見の見栄えは良いのだが、全体の質感や剛性感は一般的な日本のモバイルPCほどには感じない。軽量部材は高価なので、汎用化されたパーツを優先的に使うから、重さの面でもかなり不利と言える。

 ただ、それは普通のPCとして評価するからであって、ネットブックと比較すると良いところだらけ。その上、価格は実売で7万円を少し超えるぐらいというから、まさに高性能・高機能なネットブックとして、エントリーユーザーの選択肢を拡げてくれるだろう。あるいは一部のネットブックユーザーの移行先として最適と言える。

 これが高価な軽量高性能をうたうスーパーモバイル機ならば、文句もいくつか出てくるというものだが、ここまで安いとネットブックの存在意義はかなり小さくなるのではないだろうか。5万円でネットブックを買うならば、7万円でネットノートを買う方がずっと応用範囲が広くなる。

 快適にとは行かないだろうが、HD撮影のビデオデータを編集したり、トランスコードする処理だって、ネットブックとは大違いだ。今後、多くのメーカーがこの分野に取り組んでくるだろうが、その先鞭を付けたのだから、自分たちがこの分野で生き残る戦術を見つけたのだろうか。

 ところで、荻野氏は「ネットブックとモバイルPCを繋ぐ架け橋となる製品」と、ネットノートというカテゴリの位置付けを説明した。ネットノートの性能が高ければ高いほど、相対的に魅力的な作りを持つ上位のモバイルPCには影響が出てしまう。しかし、荻野氏は「dynabook SSシリーズの新モデルは、もちろんもっと高性能なものになりますから、ネットノートがいくら魅力的でも大丈夫です」と語った。

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(2009年 10月 16日)

[Text by本田 雅一]