山田祥平のRe:config.sys
書棚の向こう側
2018年5月11日 06:00
もしかしたら、MicrosoftはもうOSには興味がないんじゃないか。そう思われても仕方がないくらいの基調講演だった。
米シアトルで開催された、同社の開発者向けカンファレンス「Build 2018」。残念ながら今年は現地参加できなかったが、ライブストリーミングで観た初日の基調講演は、AIとマシンラーニング(機械学習)に注力するMicrosoftの今を如実に示すものだった。
変わるWindows、変わるMicrosoft
なかったことにしたかったWindows 8以降、Microsoftはコンシューマライゼーションを強く意識し、Windows 10でその環境をほぼ完成させたといっても良い。先週書いたように、RedstoneシリーズはRS4となり、この秋にリリースされるはずのRS5のInsider向けプレビューもすでに進んでいる。基調講演での約束通り、今週は新しいビルドも公開された。
Mirosoftがやろうとしているのは、人々の暮らしを支える環境そのものになるということだ。そこにエコシステムを築き、クラウドサービスをサードパーティに使ってもらうことを目論む。ちょうど、MS-DOSやWindowsが、アプリケーションや周辺機器のエコシステムを追求していたのと同じだが、フェーズがちょっと異なる。
かつて同社は、「すべての家庭、すべての机の上にコンピュータ」をスローガンに事業を進めてきた。また「あなたの指先に情報を」を具現化してきた。その目論見は今、とりあえず実を結んだといっていいだろう。
現在のMicrosoftのビジョンは、「世界中のすべての人々とビジネスの持つ可能性を最大限に引き出すための支援をすること」だ。物理的な環境は整えたから、その環境のなかでの可能性を引き出すことを考えるというわけだ。
そのために使う道具は、もはやWindowsどころか、PCである必要もない。目の前にある手に馴染んだ複数のデバイスを、よりどりみどりで組み合わせ、うまく連携させながら使わせようとしている。
コンピュータとコンシューマ
ただし困ったことに、コンシューマはいつのまにか「PCリテラシーを学び、向上させる」ということを忘れてしまっている。直近にリリースされたInsider向けの新ビルドにしても、複数項目のクリップボード連携や、複数のアプリを同一ウィンドウのタブで表現する「セット」、スマートフォンとの連携機能が実装されはじめているが、これらが完成し、正式リリースされたバージョンが提供されたときに、いったいどれほどのエンドユーザーがその機能に気がついて使い始めるのか。
PCのリセットが、「するもの」ではなく「させられるもの」であるのと同じで、Windowsは自分で変えるものではなく、勝手に変わるものという認識のもと、「ある朝目が覚めたら、昨日までのWindowsとちょっと違っている」という程度の受け入れられ方しかしないのではないか。
コンピュータのオペレーティングシステムは、必要最低限の環境を提供すればそれで良しとする考え方と、標準機能だけであらゆることができるようになっているべきという考え方がある。どちらも正しいと思うが、いまはどちらかというと後者が優勢だ。
というのも、種々雑多な環境がアプリやユーティリティで実現されていると、その組み合わせは幾何級数的に増大し、トラブルシューティングに時間と手間を要する。さらには、ほかの誰かに何かを相談したときに、環境の違いを考慮しなければならなくなる。これは尋ねる人にとっても、尋ねられる人にとっても苦痛だ。
日本ではPC-9800シリーズが国民機として君臨し、ほぼすべての人がワープロソフトの一太郎で文書を作成していた時期があったが、それは誰もがキューハチを使うことが生産性を高めることにつながっていたからだ。標準化というのはそういうことだ。
いま、iPhoneのiOSがそれに近い地位を得ている。とくにシェアの高い日本では、国民機的な存在になっているといって良いだろう。iOSはカスタマイズが難しいので、疑問があっても、ほぼ確実に知りたい答えが返ってくる。これは大きい。
PCやスマートフォンというモノではなく、スマートな暮らしをめざしたときに、使っているデバイスやその環境とは関係なく、誰もがMicrosoftのサービスを役立てられるようになること。その領域を目指すには、Windowsにこだわっていてはかえって損だ。あらゆる方向からのコールを受け入れる懐の深さが求められる。
そういう点では「すべてのデバイスにMicrosoftのサービスを」というのが本音ではないか。
変わるための書棚の断捨離
こうして時代は変わっていく。この連休、ちょっとした思いがあって、書棚を整理することにした。片っ端から蔵書を引っ張りだして断捨離した。書棚の大きなスペースを占有していたMS-DOS、Windowsの各バージョンのパッケージも全部処分した。
コンピュータ関連のリファレンス、MS-DOS、Windows、UNIX、Linuxなどの技術書や、コンピュータ業界黎明期のドキュメンタリーなども、一部を残しただけで、約1,000冊以上を処分した。
残ったのは、老後も楽しめるであろう大判の写真集と、思い立っても閲覧が難しくなりそうなムックや雑誌、そして写真に関する評論などだ。コンピュータの話は古くなる一方だが、写真の話はこれ以上古くなることもなさそうだ。
ガランとした本棚はちょっと寂しい。さすがに自著は残したが、5冊程度は保存していた自著も、1~2冊を残して処分した。それはちょっと切なかった。購入するコンテンツのほとんどすべてが電子化してしまっている今、この空いたスペースが今後、紙の書籍で埋まるのかどうかは怪しいが、こういうこともやってみるべきだと思い立った。
これまでの人生を象徴してきた書棚のなかみだったが、そこをいったん空に近くすることで、これからその書棚を埋めるであろうものが、何になるのかを確認しようと思う。
処分はさすがに業者に頼んだ。この原稿を書いている傍らには、処分することになっている書籍が山積みだ。明日の今頃には広々としたスペースができているはずだ。まさかこの部屋をルンバが掃除できる状態になる日が来るとは思わなかった。
きっと、Microsoftがやろうとしているのも、そういうことなんだろう。だからちょっとマネをしてみた。人生を大きくシフトするにはエネルギーがいる。そのエネルギーがあるうちに、やってみるべきだとMicrosoftが教えてくれているように感じる。