iCloudは単なるオンラインストレージか、それとも?



 Appleの開発者向け会議「WWDC 2011」の基調講演が行なわれた。Appleファンにはすでにお馴染みの話だが、WWDCは開発者向けに最新情報を開示するため、技術セッションで得た情報は開示することができない。公開してもいい(記事やブログに書いてもいい)のは基調講演だけだ。

 このためWWDCの基調講演では、ハードウェア、ソフトウェアを問わず、新製品が発表される場になってきた。今年はApple側から、あらかじめ新しいハードウェアの発表がないとの情報が流されていたが、それでも期待して夜遅くまで情報を集めていた方もいるかもしれない。

 基調講演の詳細な内容に関しては、本誌でもレポート記事が掲載されているので、そちらをご覧になって頂きたい。新しいMac OS X(Lion)、新しいiOS(iOS 5)は、共に順調な、しかし技術基盤を入れ替えるほどドラスティックではないアップデートで、既存の製品が持っている強みを活かしさらに強化する方向でバージョンアップが加えられる。

 Mac OS Xに関しては、持ち歩いて使うユーザーにとってはマイナーバージョンアップと感じられるかもしれない。しかし、小型の画面でも使いやすさを損なわないよう配慮していたり、アプリケーションのレジューム機能を設け、フルスクリーンユーザーインターフェイスを一部の標準装備アプリケーションで採用するなど、パーソナルコンピュータよりiPadの方が使いやすいと感じられる要素(の一部)を盛り込んだ。

 iOS 5のアップデートは、簡単に言えばAndroidに盛り込まれている要素が組み込まれただけなのにメジャーアップデートなのか? という声も聞こえてくるが、携帯電話向けのOSはシンプルさも肝要だ。OSの核となる部分のシンプルさは可能な限り維持しながら、機能面での充実を標準装備のアプリケーションで行なうというのは妥当な手法だろう。

 それに大きな変化ではないように見えて、意外にOSのサービスレイヤーは厚くなってきているのではないだろうか。アプリケーション通知を、Androidのドロワーよろしく一覧する機能やTwitter投稿機能のAPI化もあるが、従来は設定や運用のシンプルさを確保するため、徹底してパーソナルコンピュータのコンパニオン機器として位置付けていたiOS搭載機を、パーソナルコンピュータから独立した存在にしようとしているのだから、これは表面上の変化(各種アプリケーションの機能アップやAPI更新)よりも大きな更新であり、十分にメジャーバージョンアップの価値はあると思う。

 iOS(iPhone)的なコンパニオン機器としてのコンセプトを学び、Windows Mobileが持っていた独立したコンピュータとしての要素を捨てることでシンプルさを得たWindows Phone 7とは対象的だ。Android、iOS、それにWindows Phone 7は相互に影響を及ぼし合いながら、それぞれのコンセプトに各種要素を取り入れている。MicrosoftがKIN(SNS利用に特化した携帯電話)やWindows Phone 7で取り組んだSNSのOS統合を、Twitter APIのOSレベルでのサポートという形でiOS 5取り入れたが、こうした相互作用による進歩は、今後しばらく続いていくはずだ。

 と、かなり長い前置きになったが、今回の主題はiCloudについてだ。

●iCloudに対する既視感と新規性
iCloudのホームページより

 iCloudに関する噂は今年(2011年)の初め頃から繰り返し耳にしていた(もちろん、その内容は噂の域を超えるものではなかったが)。単純にiTunesのクラウド化という話だけなら、昨年(2010年)から話題に上っていたと思う。とはいえ、多くは漠然としたもので、ライバルたちが徐々に進めていたクラウドを活用したiOS母艦のバーチャル化なのだろう程度の話である。

 この話に注目していた理由は、手前味噌ながら、筆者の最近著で“iOSの位置付けが変更されるだろう”としていた予測が、どこまで方向として正しいかを確認したいという気持ちが強かったからだった。

 その中でiOS搭載デバイスがより発展するためには

・iOSの使いやすさの源泉であるシンプルさを保ちながら、母艦であるパソコンから独立した存在になること
・シンプルさを維持するため、ネット上のサービスを“母艦”に見立てた枠組みを作ること
・コンピュータの処理能力を間接的に活用できること
・ソニーが提供しているようなデータアップロードを伴わないクラウド型のメディアライブラリ機能に対応すること

などが必要だと書いていた。おそらくAppleはこれらすべてに、もれなく対応することになるだろうとも考えていた。これは予言でも、当て推量でもなく、そうなる必然性があるからだ。すべてユーザーの利益になるだけでなく、Appleの事業にとってプラスになる要素なのでトレンドとして取り入れない理由はない。

 一方、良い意味で予想を裏切るかもしれないという期待も密かに抱いていた。ところが、まったく予想通りとは言わないものの、少なくとも表面的にiCloudに意外性はなかったと言える。これは言ってみれば、特定のミドルウェア機能を組み込んだオンラインストレージサービスだ。

 単純なストレージ機能を提供しているわけではないが、1990年代終わり頃のXMLによるインターネット上の情報リポジトリ(格納庫)サービスと考え方はほとんど同じだ。XMLによってスキーマを定義し、データに意味を持たせることで、複数のアプリケーションから利用する情報を1つにまとめようとした。

 iCloudのアプローチはもっと単純で、用途やデータタイプをあらかじめ想定する範囲とした上で、シンプルな利用方法で簡単にデータを共有しようという提案だと思う。従来は何か1台の母艦と決めたパーソナルコンピュータ上のデータとiOS機器を同期していたが、iCloudはクラウドの中に用意した仮想的な記憶装置(を備える仮想コンピュータ)が同期の相手だ。

 WWDC基調講演のあと、海外の情報サイトでAppleが“同期”という言葉を使っていないことを指摘するのを見た。日本語のニュースリリースもチェックしてみたが、やはり(おそらく意識して)同期というキーワードを使っていない。推測だが米Appleはプレスの先行オリエンテーション(Appleはメッセージが明確に伝わる事を意図して、各国から選んだごく一部報道関係者に、先行して機能やマーケティングメッセージの情報を渡している)で、同期という言葉を使わない事に関してクギを刺されたのではないだろうか。

 しかし、iOSデバイスとiCloudの間のプロセスを俯瞰して見るれば、やっていることは同期に他ならない。同期ではないというのは、従来とは異なる手法であることを強調するためだろう。iCloudのコンセプトは、一般的なオンラインストレージが持つ多様な機能やサービスを一カ所に集めたような構成だ。それ故、機能だけを追っていると既視感が強く、新味に乏しいという印象しか残らない。

 しかし、技術やコンセプトの話をいったん置いておき、ユーザーの視点、使い勝手から見ると、iCloudのそれは同期とは一味違うものになっていると思う。Appleが、“今日までに提供されてきたあらゆるサービスを超える無料のクラウドサービス”と自画自賛するほどの違いが出るかどうかは、実際の実装やWindowsでの振る舞い、iCloud Storage APIに対応したアプリケーションの開発動向などを見なければ判断できない。

 だが、そのシンプルな実態とは裏腹に、ユーザーが抱えてきた問題を解決する糸口になるかもしれない。

●従来の同期の問題点を解決(できそう)

 厳密にデータ矛盾を引き起こさず、複数の場所に分散したデータベースを同期させようとするなら、本来は運用方法や手順までを含め、キッチリとシステムの設計を行なわなければならない。

 もっとも単純な方法は、元本となるデータベースのみ更新可能とし、複製先のデータベースは参照のみに設定することだが、それでは運用の幅は狭すぎる。ユーザーはもっとコンピュータを自由に使いたい。そもそも使い方を覚えなければならない、という時点で、使ってもらえない。

 このため、“複製”などという言葉もなくしてしまい、コンピュータ同士が1対1でデータベースの中身を(場合によっては条件付きで)マージすることで、複製と同期を一度にやってしまおうという流れがPalm OS機などが流行したPDAブーム期に定着した。

 同期タイミングと更新方法によってはデータ矛盾も起こるが、大人数でデータベースを更新しないのなら、矛盾時の処理はユーザー自身で判断できる程度の軽い問題で収まってくれる。ならば、難しいことを考えず、シンプルにデータベースの中身の同一化だけでいいや、というわけだ。

 だが、同期という考え方が拡がり、さまざまなアプリケーションやサービスが同期機能を持つようになり、また同期すべき機器の台数も種類も増えてくると、それまでの“ゆるやかな”同期ルールでは、うまく回らないケースが出てくる。

 かつては、PDA(今で言えばスマートフォンがその役割を担う)内のデータベースを、すべての情報のオリジナルとして、さまざまなサービスやコンピュータと同期させるという、綱渡り的なデータ運用をしている人もみかけたが、こうしたゆるやかなルールでの同期では、いったいどれがオリジナルのデータなのか、すべてのオリジナルとなる“マスター”が曖昧になりやすい。

 自分ルールでマスターを決めていても、ちょっとした運用のミスや新しいデバイス、新しい同期ツールの影響で、マスターデータにダメージを受けるということもある。実際、筆者もかつてはかなり苦労したものだ。

 そのようなわけで、クラウドという言葉が生まれるずっと前から、インターネット上に唯一無二のリポジトリを持ち、それをマスターとしようという考え方はあった。しかし、そのための共通の枠組みがなかったのだ。異なる機器やソフトウェアをまたいで、同じ意味の情報を1つにまとめて同期させるには、標準的なデータ構造と意味解釈を決めなければならない。

 技術的な障害はなにもないので、すぐに解決しそうだが、これまで解決していないのには理由がある。従来はパーソナルコンピュータを基準にサービス設計を行なっていたが、パーソナルコンピュータのようにフリーハンドに多様なアプリケーション、データタイプを扱う機器では、標準の枠組みを作ることができず、たとえ標準的なデータ形式を決めても、みんな無視してしまう。

 話がやや横道に逸れたが、iCloudはiPhone(iOS)を基準にデータの同期を行なう。iPhoneに限らずスマートデバイスは、標準的なデータの形式をシンプルに扱うため、システム内での情報の扱いを統一しているのでリポジトリという考え方を盛り込みやすい。扱うデータタイプは、カレンダー、連絡先、To-Do、メモ、iWorkのファイルなどだ。

 マスターがクラウドに置かれる利点は、どんな機器からでも、オンラインになれば時と場所を選ばず、マスターにアクセスできることだ。Appleが“同期”という言葉を使わない理由もここにある。同期をユーザーに意識させなくとも、オンラインになれば常に“マスターデータ”に手が届くのだから、システム側で都合の良いタイミングで、なるべく早く同期を済ませてしまえばいい。

 ではGoogleとの違いは? という質問も出てくるだろう。本質的には同じと言える。しかし、GoogleはMac、Windowsともにパーソナルコンピュータに対するサービスが不十分だ。Googleはパーソナルコンピュータに対しては、ブラウザという窓を通してオン/オフともにアプリケーションを使わせようとしている。対するAppleは、利用する道具をフラットに並べる構成を今回から採るようになった。iCloudの利点はなにより、ユーザーに同期を意識させないことになるだろう。この部分を解決できているコンシューマ向けソリューションは他に知らない。

 もちろん、iCloudにはフォトストリームやiTunes Matchなど、機能面でも興味深いものが組み込まれている。Windowsに対しても提供されるストレージアクセスのためのAPI(iCloud Storage APIを見てWindowsのブリーフケースAPIを思い出したのは筆者だけだろうか。あれも拡張可能な同期スキームだった)などもあるが、これらはもうしばらく評価してから話をしたい。

●少しだけ気になること

 ところで、製品やサービスの機能、質などの面とは関係ないのだが、全体を通して心のどこかに引っかかることがあった。それは従来はパートナー関係を築いてきたデベロッパーが生み出してきた価値の中から、特に一般的な要素をiOSの標準機能(正確にはiOSに標準で組み込まれているアプリケーション)に積極的に組み込んでいることである。

 例えばカメラやSafari、写真(アルバム機能)などにTwitterへの発信機能が付けられているのはご存知の通り。写真に関して言えば、iCloudのフォトストリームと組み合わせることで、人気の写真系フォト共有サービスと同様のことがより簡単に、標準アプリケーションだけで可能になる。TwitterのサポートはOSのAPIとして実装されているので、どんなアプリケーションでも気軽にTwitterの活用が可能となるが、既存サービスは変革を求められる。

 ほかにも事例はあるが、何かのアイディアが広く使われるようになり、OS側でサポートした方が全体の利益になると判断する機能なら、多少の歪みが出たとしてもシステムに取り込むべきだとは思う。しかし、iOSの付加価値を高めてきたのは、既存の人気サービスと人気アプリケーションであることは言うまでもない。視点を変えると、iPhoneやiPadを魅力的に見せる役割は、パートナーであるデベロッパーも担ってきた。

 OSという基盤技術に、アプリケーションレベルの機能を取り込む際には、これまでも色々な問題が起きてきた。Windowsもシステムに各種機能を取り込む過程でさまざまな軋轢を生んできたのは確かだが、デベロッパーに対する配慮はMicrosoftの方があったように思う。少なくとも、突然はしごを外すようなやり方はせず、ケンカをしながらも着地点を捜していた。

 1990年代のコンピュータと今のスマートフォンのビジネス概況は異なるとはいえ、Appleはこのところ、アプリケーション内課金のルール変更やApp Storeへの登録ポリシーの予告なき変更などでも批判に曝されている。

 iOSの機能強化はユーザー視点では良い面の方が多いのだが、長期的に見るとデベロッパーの離脱へとつながらないかとやや気になり始めている。今のiOSデバイスの稼働数を考えれば、そう簡単には衰退はしないだろう。しかし、こうした思いは年々、つもりゆくものでもある。

 これまで常に少数派の立場から革新を促してきたAppleも、今やクラウドやスマートデバイスの存在感が増してきた昨今のデジタルワールドにおいての支配者となった。支配者になると、なかなか従来の枠組みは捨てられない。既存の枠組みに対して、不足する要素を付け足さざるを得なくなる。

 支配者としての立場が長期に及んだとき、Appleはどうたち振る舞うのだろうか。

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(2011年 6月 9日)

[Text by本田 雅一]