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ウォズニアック氏、「エンジニアのあり方、スティーブ・ジョブズ、巨大企業の危険性」を語る

スティーブ・ウォズニアック氏

 セキュリティおよびIT運用サービスの米Splunkは、10月1日~4日までの4日間、米フロリダ州オーランドのウォルトディズニーワールド・スワンアンドドルフィンリゾートおよびESPN Arenaで、年次カンファレンス「.conf18」を開催。その最終日の基調講演に、Appleの共同創業者であるスティーブ・ウォズニアック氏が登壇した。

 約1時間に渡る講演は、米Splunkワールドワイドフィールドオペレーション担当のスーザン・セントレッジャー プレジデントと対談するかたちで行なわれ、テンポよく話しを続けるウォズニアック氏に会場全体が圧倒される状態で進行。ウォズニアック氏は、あまりにもテンションが高まったのか、「質問はなんだっけ?」という場面が何度も起こる始末。話があちこちに脱線しながら、Apple時代や学生時代のエピソードに触れたほか、若いエンジニアたちにエールを送った。

「.conf18」の基調講演に登場したスティーブ・ウォズニアック氏。米Splunk ワールドワイドフィールドオペレーション担当のスーザン・セントレッジャー プレジデントと対談するかたちで行なわれた

エンジニアのあり方

 今年、68歳になったウォズニアック氏は、「私の人生はエンジニアであった。エンジニアになるために生まれてきた」と自らの人生を振り返りながら、「私は発明をすることが好きである。発明というのは、目的の研究を追求した結果、発明に至ることもあるが、そこから、まったく別のことに気がつくこともある。たとえば、エンジンのキャブレターの研究をしているときに、その取り組みとはまったく別のことを発見するということもある。エンジニアには、そうしたインスピレーションが必要である」とし、

 「私はそうした個性を持っていた。他の人の真似をすることもなかったし、多くの人がやる研究の仕方とは、まったく別のやり方をしていた。標準のコードの書き方はあるが、それよりももっと短く書けるやり方はないのか、もっと簡単に表現ができないのかということを模索し続けてきた。エンジニアは、そうした視点を持つことが必要である」とした。

 また、「いまは、1年後の状況が予測できても、2年後は予測できないぐらいに技術が進歩し、環境が変化する。だが、それでも、よい未来とはなにかということを、エンジニアは考え続けてほしい」と呼びかけた。

 スティーブ・ジョブズ氏とともにAppleを創業する以前は、Hewlett-Packard(HP)に在籍していたウォズニアック氏だが、「かつて、コンピュータは、米国に6台しかなかった。しかも、1台あたりが100万ドルもして、誰もが使えるものではなかった。私は、1人1人がコンピュータを持っていたら世界が変わると考えた。多くの人が利用できるコンピュータを作りたいと考えた。

 だが、当時はそんなことは誰も考えなかった。いまのような、コンピュータで映画をみたり、音楽を聞いたりといった時代が訪れることもとても考えられなかった。私は、HP時代に、ここにいて、エンジニアで一生を過ごすだろうと思っていたが、それでも、いまから、5年後、10年後、50年後にはどんな世界にしたいのか。テクノロジーで人の生活を変え、人の生活を豊かにすることを考えてきた。その1つがパーソナルコンピュータだが、この企画は5回も拒否された」などとした。

 HPには、14カ月間連続で稼働するバッテリ技術があり、ウォズニアック氏は、それを使って犬がどこにいるのかを知ることができるといったデバイスも考えたが、これを「成功するとは思ったが、却下された企画」の1つにあげた。そして、「このときには、意味がないようなさまざまなプロジェクトも数多く経験した」と振り返る。

スティーブ・ジョブズ

 だが、こうしたウォズニアック氏の動きに、ずっと着目していたのがスティーブ・ジョブズ氏だ。

 「彼は、古くからの友人であり、彼が16歳のときに、私の家にやってきて、子供たちが遊ぶように一緒にコンピュータで遊んだ。だが、ジョブズは、コンピュータのことはまったく知らなかった。しかし、ジョブズは、学生の頃から、20ドルをかけて作ったPCを40ドルにして売る才能を持っていた。そして、私はコンピュータをいじるのが大好きだった。在籍していたコンピュータクラブでインスピレーションを受けたら、それをかたちにしたいということだけを考えていた。Appleはそこから始まった」

若き日の写真も紹介された

 Appleにとって、最初に大きな収益を得た製品は、Apple Ⅱだった。

 「ジョブズは、たまには強引なところもあったが、マーケティングには長けていた。ビジネスの重要さは、エンジニアにはわからないが、そこをジョブズはよくわかっていた。エンジニアは、人々が求めているものを開発したり、いいものを作ったりすることに集中するが、ジョブズは、ビジネスには必ず利益が伴わないといけないことを理解していた。その姿勢はずっと同じで、iPhoneも技術的に優れていることはもちろん、エレガントで美しいデザインをしていたのはその証だ。エンジニアだけでは作れないものを作った。それは、ビジネスとして成功させるためにはなにが必要かということをしっかりと理解していたからだ」とする。

 ウォズニアック氏とジョブズ氏は、同じスティーブという名前でありながらも、やることは対極的だ。

 「私は、人と話すのが怖かった、研究室に籠もって、好きなことをできることがうれしかった。それが、Appleを創業した理由にもなっている。エンジニアとして、人々の生活を向上させることができればいいと考えており、それに集中した。だが、ジョブズは、世界中から注目を集める人になりたかった。これが彼のモチベーションになっていた」とする。

 ウォズニアック氏は、「Appleでは、多くのお金が入ってきたが、私は、金持ちにはなりたくなかった。お金のことはまったく興味がなく、よいものを作りたいということだけを考え続けた。根っからのエンジニアであった」とも語る。

 ウォズニアック氏は、Appleが株式公開をする際に、自らの所有していた株式の一部を社員に譲渡する仕組みを作ったエピソードも披露。これによって、多くの社員が、家を購入することができたり、子供を大学に通わせたりできるようになったという。お金に固執しない性格を物語るエピソードの1つだ。

巨大企業への警笛

 そして、ウォズニアック氏は、こんなことも語る。

 「巨大な企業は富があり、力がある。多くの人をコントロールする可能性もある。道を押しつけることもある。お金がすべてではない。私たちはそれに注意する必要がある」と警鐘を鳴らす。

左手にはApple Watch 3をつけていた。最新のApple Watch 4はこれからのようだ

 ウォズニアック氏は、いくつかの企業の例をあげたが、「Facebookは、いい技術であり、多くの人が使い、私も使っているサービスである」としながら、「コミュニケーションを活発化し、情報を共有できる世界を作っているが、その一方で、人同士を分離させることにつながっている危険性もあるのではないか」などと指摘した。

 その一方で、「いまのシリコンバレーでは、夫婦がストレスを感じながら、家を買うために共働きをしている。生活に余裕がなくなっている」とチクリとひとこと付け加えた。

 .conf18の参加者を対象に事前に質問を募集したが、そのなかで、ウォズニアック氏は、Appleが最も優れた点の1つに、多様性に優れた企業であることをあげ、「多くの女性が働くことができる環境をつくり、女性に対して、給与の格差もしなかった。それは私自身、とても誇りに思っていることである」とした。

 また、「最も大きなミスはなにか」という質問に対しては、「小さな失敗はあるが、大きな失敗はない」とし、「Apple Ⅱでも、いまから考えると、ボードのCPUやメモリのレイアウトなどに改良の余地はあるが、そのときにはそれが最良であり、正しいと思った。違うレイアウトをしたら、もしかしたら世界が変わったかもしれないが、そうしたことは考えたくない。自分は正しいことをしたと思っている。悪いことが起こっても、それを忘れて、次のことに取り組む」などと述べた。

 さらに、自らが教育に熱心に取り組んできたことに触れながら、「子供は、好きなことをやるのが一番いい。そして、学校で学ぶ以外のことも学んでほしい。私は、8歳の子供に、やる気を学ばせてきた。どういう動機づけをすれば、やる気になるのかということを教えている」などと語った。

 6歳のときに、アマチュア無線の免許を取得。自分でアマチュア無線機を組み上げたウォズニアック氏は、12歳のときに、エンジニアになることを決意。同時に、教師の道にも歩みたいと、エンジニアであった父に宣言した。その夢は両方とも叶い、Appleを退いたあとには教員を務めていた時期もあった。ちなみに、講演では、Appleを辞めたあと、カリフォルニア大学バークレー校に、「ロッキー・ラクーン・クラーク」という名前で入学して、電子工学の学位を取得したことにも触れ、会場からは大きな笑いがおきていた。

 最後に、ウォズニアック氏は、会場に参加していたエンジニアに対して、メッセージを送った。

 「自分たちがやりたいと思ったことはやってほしい。また、テクノロジーを使って、世界をよりよくするためにはどうするかと考えてほしい。さらに、なにか改良できることはないかということを常に考えて、それを自らに質問し、自ら回答できるところまでスキルをあげてほしい。世界のために貢献できることを考えてほしい」などと語った。

 「私の人生はエンジニア」と公言するウォズニアック氏だからこそ、エンジニアに対して熱いメッセージを投げかけるところに、最も力が入っていた講演だった。