バグは本当に虫だった - パーソナルコンピュータ91の話

第3章 ベーシックパソコンからMS-DOSパソコンへ(3)

2017年2月21日に発売された、おもしろく、楽しいウンチクとエピソードでPCやネットの100年のイノベーションがサックリわかる、水谷哲也氏の書籍『バグは本当に虫だった なぜか勇気が湧いてくるパソコン・ネット「100年の夢」ヒストリー91話』(発行:株式会社ペンコム、発売:株式会社インプレス)。この連載では本書籍に掲載されているエピソードをお読みいただけます!

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日本のインターネットは誰が始めた? 1984年

日本のインターネットの歴史は古く、1984年にはじまったJUNETが母体となります。当時、通信事業は電電公社の独占で、法律の厚い壁に守られていました。同じ会社でも道路一つ隔てているとネットワークを張ることができません。そもそも電話回線を電話以外の目的に使うことができず、本社経由の支店間メッセージ伝送が御法度でした。仕方ないので違法状態からスタートすることになります。

 村井純という名前をご存じですか。この人がいなければ日本のインターネット普及はかなり遅れていたでしょう。

 村井純氏が慶応大学の博士課程を終え、東工大に就職したのはパソコンが登場した頃で、コンピュータと言えば汎用コンピュータがイメージされる時代でした。東工大に就職しましたが、海外の研究仲間からのメールを読む手段がありません。また古巣の慶応大学から研究資料を持ってくるのに膨大な磁気テープが必要でした。物理的に運ぶのは面倒なので東工大と慶応をネットワークでつなぐところから始めます。二十万円弱で300bps(1秒間に300ビット送れる)という現在では信じられない価格と通信速度のモデムを買い、1984年に接続しました。

 当時は電話回線で通信する時代です。通信速度が遅いため長時間つなぐ必要がありました。研究経費に通信費が計上できるような時代ではありませんでしたので大学の内線電話に目をつけ、電話回線をシュートさせてつなぎ放題にする方法を見つけます。つまり無料通信です。

実は法律のグレーゾーンのネットワークだった

 “通信の自由化”が1985年におこなわれ、国内通信を独占していた電信電話公社が民営化されNTTとなりました。これを契機にいろいろな通信会社が登場し競争原理が働くことになります。印象的だったのが、黒電話が消え、色々なメーカーからオシャレな電話機が登場したことです。親機から離れたところで電話がとれる子機付き電話も出ました。同じ頃、国鉄も分割民営化され、JRが誕生しています。

 当時は学術目的であってもコンピュータと電話回線をつなぎメールを出すなどは法律違反のおそれがあると考えられた時期です。もともと、電話は話をするのに使うという前提の法律でコンピュータをつなげることを想定していませんでした。実際、モデムを買うとNTTに送る届出書が入っていた時代がかなり続きました。1985年以前は届出せずモデムを電話線につなぐだけで法律違反になりそうな時代でした。

慶応大学、東工大、東大の三校がつながる

 慶応大学と東工大との接続について、いろいろなところで話していたところ、東京大学の石田晴久教授から「三つ以上の拠点がつながってはじめてネットワークになる」と言われ、東大が接続されました。最高峰の東大とつなげば法律的にグレーゾーンでも黙認になるだろうという考えもありました。

 石田教授も大学間でメールをやりとりしたいと思っていましたので渡りに船でした。こうして東京工業大学、慶応大学、東京大学間を結ぶネットワークが1984年に誕生します。「JUNET」と名づけられ、これが日本のインターネットの元祖になります。ジャパン・ユニバーシティー・ネットワーク等の略といわれましたが、皆、愛情をこめて「(村井)純・ネット」と呼んでおりました。アメリカでインターネットの元祖となるアーパネット(ARPANET)が登場してから十五年後になります。

でもお金がなかった

 当時は国際機関である国際標準化機構(ISO)が定めたOSI(OSI reference model)というネットワークを国として採用していこうという動きがあり、草の根的で異端なJUNETに文部省から研究予等はつきません。そこで人脈を駆使して、大学や企業に拡げるネットワーク作りをすることになります。東京と大阪間に専用線を持っている企業などに使わせてほしいと依頼し、多くの企業では村井先生の依頼であればとJUNETに協力していました。

 そんな調子で、いろいろな大学や企業がJUNETに接続されていきますが一筋縄ではいきません。国費で運営されている東大等と民間企業とはつなげられないという雰囲気がある時代でした。産学官共同研究という言葉ができる、はるか以前の話です。そこで苦肉の策が考えられます。

 東大に近い神保町にある岩波書店が当時、電子出版の共同研究を東大とおこなっていました。そこで岩波書店と東大の間を共同研究用として専用線接続します。各企業は岩波書店と専用線を接続しました。つまり岩波書店がハブとなり、日本最初のインターネット接続拠点が出来上がりました。

海外とつなげる

 国内が接続され始めたら次は海外です。当時は、電電公社でも国際電話をかける時は上司の了解が必要な時代です。国際通信を担当していたKDDの若き技術者達がJUNETに賛同して、海外との接続実験ということで接続をおこないます。上司から「我々のサービスをタダで提供するな」と詰問されましたが、技術者は「日本のネットワークの発展のためです。」と一歩もひかずに説得したそうです。

 1985年1月にアメリカのインターネットに接続され、欧米の研究者とメールのやりとりができることになりました。抵抗勢力などが多いなか日本のネットワーク環境を発展させたいと大学や企業の研究者達が熱き思いで作り上げてきたのが日本のインターネットです。

ローマ字か英語か。喧嘩からスタートしたネット文化 1984年

電子メールで日本語が使えずアルファベットと記号だけしか使えなければ、どうしますか。英語が得意な人は英語、不得意な人はローマ字になってしまいます。でも、どちらを使うか決めなければなりません。日本のインターネットはそんな時代からスタートしました。

 日本のインターネットの元祖であるJUNETがスタートした頃、ホームページはまだなく、電子メールとネットニュースが主に使われていました。ネットニュースというのは、電子掲示板で各掲示板にはそれぞれ会議室があり、テーマにそった議論がおこなわれました。記事を投稿すると、意見やコメントが投稿され議論されます。日本語を扱えるパソコンで接続しますが、ネットワークが日本語対応していないためアルファベットしか使えません。

 そこで巻き起こったのが文化論争です。会議室で発言する時には“ローマ字を使うべき派”と“英語を使うべき派”の二手に分かれ、議論していました。私は英語など扱えませんので、もっぱら“ローマ字を使うべき派”でした。

 この頃、ボランティアで作られた便利なツールが登場します。「ローマ字仮名変換」ソフトで、文字通りネットから受信したローマ字文章を仮名文章に変換してくれるツールでした。つまり「AIU」→「あ い う」と変換するソフトです。これだけでもずいぶん助かりました。

インターネットで日本語を使えるのは学生のおかげ

 漢字がないと不便ですが、漢字を扱うには漢字フォントが必要になります。JUNETに参加していた大学で漢字フォントを手分けして作ろうという話もありましたが、当時、東工大の学生だった橘浩志さんが一人で六千字すべてを作ってしまいました。十四ドットの漢字フォントを、一年がかりで作り上げ、ネットワークで配布します。これがK十四漢字フォントで別名“橘フォント”と呼ばれました。会議室でおこなわれていたローマ字と英語の神学論争はあっという間に収束してしまいます。

 インターネットの世界では、こうったボランティアがたくさんいて、皆がギブ&テイクの精神でネットワークを発展させていきました。

日本のドメインは“JP”ではなかった 1984年

インターネットではドメインが必要となります。ドメインは“kantei.go.jp"(首相官邸)のような形で世界に一つしかありません。ドメインの一番右の部分“jp”をトップドメインと呼び、国をあらわします。“jp”は日本、お隣の韓国なら“kr”ですが、日本でインターネットがはじまった頃は“jp”ではありませんでした。

 JUNETに接続するにはドメインが必要でした。JUNETのトップドメインには“junet”を使用していました。アメリカでは“com”(企業)、“org”(非営利団体)などが使われていました。

 当時、アメリカ以外の大規模ネットワークは日本にしかなく日本の管理方法がその後、インターネットのモデルになっていきます。JUNETでは四年ほど“junet”を使っていましたが、これからインターネットが世界に普及していくには国別コード(日本はjp)を使った方が望ましいと考え、1989年からjpドメインの登録が始まります。

 既存のjunetドメインからjpドメインへの切り替えがおこなわれ、あわせて企業ならco.jp、大学ならac.jpという属性をつけました。作業に三カ月ほどかかりましたが、まだ検索エンジンのない時代だからこそ力技でできた切り替えでした。

jpドメインの管理はボランティアからJPRSへ

 jpドメインはボランティアで管理していましたが、インターネットの普及とともに限界に近づきます。1991年12月にJNICという団体が作られます。場所は東京大学大型計算機センター内で机一つからのスタートです。その後、2000年12月に設立された株式会社日本レジストリサービス (JPRS)が管理しています。

電子メールの@(アットマーク)は使えなかった? 1984年

日本でインターネットが始まった頃、現在とは雲泥の差の通信環境でした。電子メールを出すにも@(アットマーク)が使えず苦労した、そんな時代のお話です。ちなみに@は日本では「アットマーク」と呼びますが、イタリア語では「かたつむり」と呼ばれるなど国によってバラバラです。

海外への電子メールには@が使えなかった。

 普段使っている電子メールアドレスですが「ユーザ名@ドメイン名」が基本形になっています。ホームページを見る時なども同様ですが、ドメインがインターネット上のどこにあるのか探す必要があります。インターネットのなかではIPアドレスが使われるためドメイン名をIPアドレスに変換する辞書のようなDNS(Domain Name System)サーバがあります。このIPアドレスを使ってインターネットではやりとりをします。

 JUNETがスタートした当時は国内でのネットワーク実験という位置づけでしたので国内だけをサポートしていました。やがて、KDDを介して海外との接続が可能となりましたが、当初、アメリカのDNSサーバとは接続されていませんでした。本来なら“ユーザ名@ドメイン名”でメールが着くはずですが、アメリカのDNSサーバが使えませんので、ドメイン名を書いても、IPアドレスがわからず住所が特定できないので配達不能になります。

 そこで海外に電子メールを出す場合は、メールが通っていく途中のホストを全て書きました。大阪から葉書を出すのに「東京都文京区湯島」と書くのでなく、「新大阪駅→東京駅→御徒町駅→湯島」と指定するようなものです。

 実際にハワイ大学にいる友人に電子メールを出すのに、「大阪→東京→KDD→アメリカ西海岸の大学→ハワイ大学」とホスト名をつないで出しました。一つでもホスト名を間違うと届かない実に危ない電子メールです。実際はホスト名を「!」でつないで宛先を指定します。

“友人の名前!ハワイ大学!西海岸の大学!KDD!tokyo!osaka”

 友人から返事が返ってきた時はメールの内容よりも、こんなにたくさんのホストをリレーされて、はるかハワイから届いたことに感激しました。

 そうこうするうちに各国のDNSサーバが相互接続され、海外へ出すメールも全て@が使えるようになりました。普段、皆さんがなにげなく使っている@(アットマーク)ですが、こんな時代もあったのです。

一太郎は家庭教師先の子供の名前だった 1985年

かつて、官公庁でのワープロといえばワードではなくジャストシステムの一太郎が一世をふうびしました。民間企業ではワードを使うところが多かったのですが、官公庁から来るメールには決まって、一太郎のファイルが添付されていました。ただ日本語変換ではマイクロソフトの変換精度が低かったので、ジャストシステムのATOKを使っている人が多く、ワード+ATOKの組み合わせが最適でした。

 ジャストシステムの本社は徳島にあります。会社設立は1979年で、浮川和宣社長が奥さんの実家に事務所を構えスタートしました。

 『新・電子立国 時代を変えたパソコンソフト』(日本放送出版協会)によれば当初は日本語が扱えるオフコンの販売代理を浮川社長が、オフコンのシステム開発を奥さんの初子専務が担当しました。やがてパソコンの時代となり、開発を始めたのが日本語入力システムです。日本語入力システムといっても最初は“あ”と入力すると“亜、阿、吾”などの候補が表示され、その候補から選ぶ単純なシステムでした。

 “漢字”と入力したい時は、まず“かん”と入れて“漢”に変換し、次に“じ”と入れて“字”に変換することで、“漢字”と入力することができました。これが後の日本語入力システム「ATOK」に進化していきます。この日本語入力システムをきっかけにワープロソフトの開発をおこない、1983年に「JS-WORD」が発売されます。

 当時はカーソル移動キーを使うワープロソフトが多いなか、「JS-WORD」ではマウスを使え、作成した文章の一部をゴミ箱に入れるなど今のワープロソフトにちかいインターフェースを実現していました。文節変換ができ、“かんじでかく”と入力すると、きちんと“漢字で書く”と変換されました。

 1985年、PC-98シリーズ用にjx-WORD太郎が登場します。本当は「太郎」と名づけたかったのですが、当時、東芝から「太郎」という名前の電気掃除機が発売されており、頭にJX-WORDとつけました。JX-WORD太郎は発売と同時にベストセラーになります。

ワープロに太郎と名づけた理由

 『ジャストシステム 「一太郎」を生んだ戦略と文化』(光栄発行)によればソフト名に「太郎」という名前を採用した理由は、横文字のソフト名が多いなか、日本的なインパクトのある名前をつけたいということがありました。もう一つ理由があり、実は浮川社長が学生時代に家庭教師をしていた時の生徒の名前が「太朗」だったそうです。

 ただ体が弱く、浮川社長がジャストシステムを設立した頃に亡くなられました。字は違いますがソフト名には彼の分まで生き続けるソフトと願いがこめられています。

 半年後にJX-WORDをとって代わりに頭に“一”をいれ、“一太郎”という名前となりました。大ヒットしたのが「一太郎バージョン2」です。五万八千円と他のワープロソフトに比べて格段に安く、また機能が充実していました。“ワープロソフトといえば一太郎”という時代を築くことになります。

エクセルはマッキントッシュ版が最初だった 1985年

エクセルはマイクロソフトの表計算ソフトですが、ウィンドウズ版の発売前にマッキントッシュ版が出ていました。マッキントッシュ版が1985年で、ウィンドウズ版は1987年に発売されます。パソコン業界は戦国時代さながらで、昨日の友は今日の敵。アップルとマイクロソフトは犬猿の仲だったり関係を修復したりが日常茶飯事でした。

エクセル開発プロジェクト

 ロータスから出ていたロータス1-2-3が表計算ソフトのデファクト・スタンダードだった時代、ロータスではマッキントシュ向けにジャズ(JAZZ)という統合ソフトを開発中でした。対するマイクロソフトはジャズと勝負するために、同じマッキントッシュ向けにエクセルを開発します。

 スティーブ・ジョブズはジャズと同じようにエクセルに統合ソフトの機能を持たせるようビル・ゲイツに進言しましたが、ゲイツはマルチウィンドウ環境が実現すれば統合ソフトは意味をなくすと反対し、表計算機能に的を絞って開発しました。

 1985年、ジャズと同時期にエクセルが発売されましたが、エクセルの方が使い勝手がよいと評判となり、エクセルを使うためマッキントシュが売れました。

 マッキントッシュ版が好評だったためエクセルはウィンドウズに移植され、1987年にウィンドウズ版がようやく発売されましたが、こちらはウィンドウズ2・0自体が不評で、最初は泣かず飛ばずでした。

 今はオフィスとして売られていますが、ワードとエクセルがセットになったオフィスの発売はけっこう遅く1993年になります。

水谷 哲也

水谷哲也(みずたに てつや) 水谷IT支援事務所 代表 プログラムのバグ出しで使われる“バグ”とは本当に虫のことを指していました。All About「企業のIT活用」ガイドをつとめ、「バグは本当に虫だった」の著者・水谷哲也です。1960年、津市生まれ。京都産業大学卒業後、ITベンダーでSE、プロジェクトマネージャーに従事。その後、専門学校、大学で情報処理教育に従事し2002年に水谷IT支援事務所を設立。現在は大阪府よろず支援拠点、三重県産業支援センターなどで経営、IT、創業を中心に経営相談を行っている。中小企業診断士、情報処理技術者、ITコーディネータ、販売士1級&登録講師。著作:「インターネット情報収集術」(秀和システム)、電子書籍「誰も教えてくれなかった中小企業のメール活用術」(インプレスR&D)など 水谷IT支援事務所http://www.mizutani-its.com/