バグは本当に虫だった - パーソナルコンピュータ91の話

第3章 ベーシックパソコンからMS-DOSパソコンへ(4)

2017年2月21日に発売された、おもしろく、楽しいウンチクとエピソードでPCやネットの100年のイノベーションがサックリわかる、水谷哲也氏の書籍『バグは本当に虫だった なぜか勇気が湧いてくるパソコン・ネット「100年の夢」ヒストリー91話』(発行:株式会社ペンコム、発売:株式会社インプレス)。この連載では本書籍に掲載されているエピソードをお読みいただけます!

書籍(紙・電子)購入特典として、購入者全員プレゼントも実施中です! 詳しくはこちら!

キヤノンがマック市場を切り開いた 1985年

キヤノンが最初に作ったカメラがカンノン(KWANON)。観音から名づけられ、当時の会社のマークには千手観音が描かれていました。世界に向けてブランドを考える時、キヤノン(Canon)になりました。キヤノンの意味は規範、標準です。全体の見た目のバランスを考え、キャノンではなくキヤノンと「ヤ」を大文字にしています。まさにカリグラフィーの考え方で、キヤノンがアップルと日本のパソコン市場を切り開いたのもジョブズに通じる文化があったからかもしれません。

 アップルがDTP(デスクトップ・パブリッシング)市場を作りだしましたが、根幹となったのが、きれいな文字を出力できるプリンタです。キヤノンのレーザ・プリンタ技術を使ってレーザーライターというプリンタを開発し、マッキントッシュと組み合わせた文書作成・印刷システムを作り出しました。この分野はアップルの独断場でしたので、印刷出版業界ではアップルの製品が今もよく使われています。

日本ではキヤノン販売がマックを独占販売

 アップルとキヤノンはプリンタ以外でもいろいろと提携していました。キヤノン販売が新規事業で始めたのがゼロワンショップ。自社だけではなくアイビーエムなど主要メーカーのコンピュータやOA機器などを販売しました。新宿に一号店がオープンしたのが1984年です。東京など全国の主要都市に展開し、当時、マッキントッシュを買うならゼロワンショップでした。大阪では朝日新聞大阪本社横の住友中之島ビル一階にゼロワンショップがありました。先進的なマッキントッシュを見によく住友中之島ビルに行っておりました。

 アップルは日本に販売チャネルがなかったため、キヤノン販売がアップルと独占販売契約の交渉を開始。交渉でもめた相手がスティーブ・ジョブズです。キヤノン販売が呈示した仕入率をアメリカのディーラーにあわすようジョブズはゆずりません。ヨーロッパなどアルファベット圏と事情が違い、日本語を使えない環境では、いろいろと投資して市場を一から作り出さなければなりません。アメリカのディーラーと同じ仕入率では勝負にならないと主張、交渉は暗礁に乗り上げます。ペプシコーラから移籍してきたジョン・スカリー(アメリカの実業家)がスティーブ・ジョブズとキヤノン販売両者の間に入って価格の妥協点を見出し、ゼロワンショップにマッキントッシュが並ぶことになります。

LaserWriter。DTPソフトと優れたプリンタによって印刷業界にとってマッキントッシュはなくてはならないものとなる。

力技で日本語が使えるマックを作る

 日本でマッキントッシュの販売が始まりましたが、アルファベットしか扱えませんのでなかなか売れません。スティーブ・ジョブズがマッキントッシュの日本語化に反対していたことから、日本語化がすすみませんでした。スティーブ・ジョブズは日本でマッキントッシュが売れないのは日本語化の問題でなく、アップルジャパンが仕事をしてないからではないかと疑っていました。禅などを通じ、スティーブ・ジョブズは日本文化は理解していましたが、日本語の必要性を理解していなかったようです。もっともマッキントッシュが売れなかったもう一つの理由は高かったことがあります。本体やプリンタなど一式買うと軽く百万円を超え、車が買えるような価格で、“パソコン界のポルシェ”といわれていました。

 スティーブ・ジョブズがジョン・スカリーによってアップルから追い出され、風向きがかわってきます。キヤノン販売がアップルジャパンに提案し、マッキントッシュの基盤に独自の漢字ROMを搭載、日本語化ツールと共にセット販売します。これでようやくマッキントッシュで日本語が扱えるようになります。

 箱に入ったマッキントッシュを開けて、メイン基板を取り外します。漢字ROMをハンダ付けし、本体のマッキントッシュというネームの下に「ダイナマック」という金属プレートを付けました。マッキントッシュの箱に戻して、その箱をさらにひとまわり大きな「ダイナマック」の箱に入れました。「ダイナマック」を買うと箱を二回開かないと、取りだせません。ダイナマックの価格はマッキントッシュの定価よりも八万円高い八十九万八千円。アップルがマッキントッシュ内部に加工することを認めた唯一のモデルとなりました。

 やがてアップルも重い腰をあげ開発したのが漢字トークという日本語OS。マッキントッシュ・プラスに搭載されました。これで「ダイナマック」は短期間で消滅します。

 漢字トークの漢字フォントの元は札幌の会社から購入し、アップルの開発技術者が二カ月間ほど札幌に滞在していたことから日本語フォントはSAPPOROと命名され、日本でもフォント名は地名となりました。漢字フォントのできは、ジョブズの美意識では絶対に許されないレベルでしたが、とにかく日本語が使えるようになりました。実用レベルになったのが漢字トーク2・0から。OSAKAというゴシック体とKYOTOという明朝体フォントが使えるようになりました。キヤノンによるマッキントッシュ独占販売は、しばらく続きましたが、やがてアップルが方針転換し、大手家電量販店に販路を拡大、蜜月時代の終わりをつげます。

“ウィンテル時代”はなかった可能性がある 1985年

マイクロソフトのウィンドウズとインテルのマイクロプロセッサという組み合わせで世界のパソコン市場を席巻。“ウィンテル時代”と呼ばれました。歴史にモシはつきものですが、アップルがあの時、ビル・ゲイツの提案を断らなければ“ウィンテル時代”はなかったかもしれません。

 マイクロソフトが発売したMS-DOSはコマンドを使って操作するOSでした。ファイルを消そうと思えば、今ならファイルをゴミ箱にドラッグするだけですが、MS-DOSでは「DELETE ファイル名」とコマンドを入力する必要がありました。ファイル名やコマンドを一字間違うとエラーとなるユーザ泣かせのOSです。ただしマウスを使って操作できるパソコンが既に登場していました。それがアップルのマッキントッシュです。

 ビル・ゲイツも新しいOS開発を始めており、ウィンドウズと名づけていました。1983年にウィンドウズのコンセプトを発表しましたが、なかなか製品が出ず、「ベイパーウェア」と呼ばれます。ベイパーとは蒸気のことで、構想だけで実体がなく、つまり本当にできるのかという意味です。その間にアップルがいちはやくマッキントッシュを登場させます。マッキントッシュは開発中のウィンドウズに比べ完成度が高く、ここでビル・ゲイツは方針を転換。マイクロソフトはマッキントッシュに社運をかけ、マッキントッシュのアプリケーション開発で会社を成長させることとしました。実際にマッキントッシュ版エクセルを1985年に発売しています。

 ビル・ゲイツはアップルに覚書を送ります。アップルは独自路線ではなく、マッキントッシュを有力メーカーにライセンスしてマッキントッシュ互換機が生まれる市場を作るべきだという内容です。マイクロソフトはいろいろなメーカーと親しく、またOSを通じたOEM供給経験が長いためアップルを支援できるとも書いてあります。MS-DOSやベーシックプログラムのライセンスビジネスと同じビジネスモデルをアップルも採用するように提案しました。

アップルがマイクロソフトの提案を断る

 この時、アップルがビル・ゲイツの提案にのり、マッキントッシュのライセンスビジネスを始めていたら、この業界はだいぶ変わっていたことでしょう。「ウィンドウズ+インテル」の“ウィンテル時代”という言葉は生まれず、「マッキントッシュ+モトローラ」の“マックローラ時代”が到来していたかもしれません。
※マッキントッシュはインテルではなくモトローラのマイクロプロセッサを使っていました。

 ところがアップルはビル・ゲイツがマッキントッシュからアイデアを奪って、ウィンドウズに組み込むのではないかと考え、オープン化せずアップルだけでおこなうことにしました。マッキントッシュのアプリケーション開発でビジネスをしようと考えていたビル・ゲイツはまたまた方針転換、ウィンドウズの開発を続け、ウィンドウズは1985年にリリースされます。ビル・ゲイツは1955年生まれですので二十歳の時にマイクロソフトを創業し、三十歳の時にウィンドウズが誕生しました。

 ビル・ゲイツの提案を断ったアップルはその後、迷走をしはじめ、製品は売れず一時は会社を身売りする話も出ます。そこへ舞い戻ったのが創業者のスティーブ・ジョブズ。みごとにアップルを復活させました。

日本ではウィンドウズ3・1からメジャーに

 日本で本格的にウィンドウズが普及するのは1993年に登場したウィンドウズ3・1日本語版からです。それまではパソコンを買うとMS-DOSが標準でインストールされていました。ウィンドウズを使いたい場合は、パソコンショップでウィンドウズを買ってきて自分でインストールする必要がありました。ウィンドウズ3・1がパソコンにあらかじめ入った形で売られるようになり、ユーザはインストールのわずらわしさから解放されます。

 当時、マイクロソフトは「レディ トウ ラン(ready To Run)」というキャンペーンを展開しており、パソコンを買い、開けて電源を入れたらウィンドウズが使えるよう宣伝していました。

 今では当たり前ですが、当時のユーザにとってはけっこう画期的な出来事で、ウィンドウズの普及が進みます。

最初のウイルスはパキスタン生まれ 1986年

最近、多いのがランサムウェア。ウイルスがファイルなどを暗号化し、もとに戻してほしければ金をよこせと要求する身代金型ウイルスです。ネットバンキングによる不正送金もあいかわらず多く、最近は法人が狙われています。銀行は保険に入っており補填はしてくれますが、個人や企業がやるべきセキュリティ対策をおこなっているというのが条件です。しっかりウイルス対策をしましょう。

 2000年ぐらいまでは、ウイルス感染と言えば、電子メール等に添付されたウイルス付きファイルを誤って開くことで感染していました。ところが2003年夏に猛威をふるったブラスター(Blaster)ウイルスはパソコンをインターネットにつなぐだけで感染。OSのセキュリティ・ホールを攻撃し、対策できていないパソコンが次々とやられました。

 対策が必須の悩ましいウイルスですが、最初のウイルスは意外なことにアメリカで誕生したものではなく、1986年にパキスタンで生まれています。
※最初のウイルスについては諸説あります。

最初のコンピュータウイルス ブレイン(Brain)

 二人のパキスタン人兄弟が作成したのがブレイン(Brain)という名前のウイルス。1986年、アメリカの多くのパソコンにブレインコンピュータという社名や住所、電話番号などのメッセージが出て、画面がフラッシュしました。

 メッセージの内容はブレインコンピュータの宣伝でした。効果は絶大で、パキスタンに住んでいた兄弟は、一夜にして有名になります。

 このブレインというウイルスはパソコンに挿入したフロッピーディスクを通じて感染するタイプでした。

 ウイルス作成の動機は自分達が作ったソフトが不正コピーされている状況に我慢できなかったことにありました。ブレインは不正コピー警告プログラムで、アメリカで十万枚ものフロッピーディスクが感染することになり、つまり十万回の違法コピーがおこなわれていたことになります。

 ブレインはコンピュータウイルスの見本となり、新手のウイルスが続々と登場することになります。

ウイルスの名前は誰がつける?

 新しいウイルスを発見した専門家は、慣習としてウイルスに名前をつける名誉を与えられます。ただし規則がありシマンテックはホームページでウイルス名の命名規則を紹介しています。たとえば「コードレッド(Code Red)」というウイルスがありますが、専門家が解析作業をおこなっていた時にコードレッドを飲んでいたことから命名されました。

AからZまで揃ったウイルス

 ウイルスの新種が現れると、少しずつ異なった亜種が作られ、ばら撒かれます。亜種にはウイルス名の後ろにアルファベットがつけられます。Netskyという送信者詐欺(なりすまし)をおこなうウイルスがあります。最初の亜種であるNetsky.Aが2004年2月に登場してから約二カ月で二十六種類出てしまいました。つまりNetsky.AからNetsky.Zまで全アルファベットが揃ったことになります。

 一回りした後はNetsky.AAからアルファベットを続けます。

国産初のウイルスはクリスマスに発病

 日本初の国産コンピュータウイルスは、クリスマスに発病するウイルスでした。ウイルスが誕生したのは昭和が終わり、平成が始まった1989年。三%の消費税が導入された年で、テレビでは「二十四時間たたかえますか」というコマーシャルが流れていました。パソコンにはマウスはなく、コンピュータを動かすには、コマンド入力しないといけないMS-DOSの時代でした。

 パソコンがウイルスに感染すると12月25日、英語で「あなたへメリークリスマス!」というメッセージが表示されました。これが日本初の国産コンピュータウイルスです。

 メッセージを表示するだけの牧歌的なウイルスでしたが、新鮮だったこともあり、けっこう話題になりました。

イカタコウイルス

 ウイルスを作成した大学院生が逮捕される事件になったのがイカタコウイルス。ウイルスに感染すると動画、画像、ドキュメントなどがタコやイカのイラスト画像に切り替わり、パソコン自体が使えなくなるタチが悪いウイルスでした。画像はタコとイカが中心でしたが、他にもウニ、クラゲ、サザエ、アンコウ、ナマコなど、いろいろな魚介類が登場。このイラストがかわいく、話題になりました。

 極道型タコなるものもありました。

山田ウイルス

 「友人の山田という人物から送られたファイルで感染した」という掲示板の書き込みから山田ウイルスと名づけられたトロイの木馬型ウイルスです。その後、原田ウイルスが登場します。原田ウイルスに感染すると原田と名乗る男性が画面に登場し、ファイルを消したり勝手にメールを送ったり、はた迷惑なことをします。原田という人物がウイルス作成者ではなく、イカタコウイルスの作者が同じウイルス作成者だったことが後に判明します。

“コンピュータウイルス”は英語ではない 1989年

英語だと思って海外で使ってみたら全然、通じないような言葉を和製英語と呼んでいます。パソコンと海外で言っても通じませんし、サラリーマンも和製英語で英語ではワーカーとなります。パソコンはコンピュータと言えば通じます。

ウイルスはラテン語よみ

 英語圏でウイルスと発音しても通じません。ウイルスの英語は【virus】で、発音は【ウイルス】ではなく、【ヴァイラス】です。私たちが使っている【ウイルス】という呼びかたはラテン語よみです。また同じ言葉を医療現場では【ビールス】といいますが、これはドイツ語よみです。

 コンピュータはもともとアメリカ生まれですのでコンピュータ用語は英語だと思ってしまいがちですが、いわゆる和製英語がたくさんあります。バージョンアップも和製英語で、英語ではアップグレード、またはアップデートといいます。

 コンピュータ用語ではありませんがプラモデルも和製英語です。東京にあるマルサン商店という玩具店が商標登録した名称で、いまは日本プラモデル工業協同組合が商標管理しています。

ホームページは英語だが意味が違う

 ホームページは英語にはまちがいありませんが意味がちがいます。日本でいうホームページは英語ではウェブサイトといいます。ホームページとはブラウザーが最初に表示するページで、表紙にあたるページです。つまりウェブサイトにホームページは一ページしか存在しません。他の「最新情報」などのページはホームページと呼びません。

 日本ではウェブサイトに自由にリンクを貼ってほしい場合、リンクフリーと記載しますが、欧米ではリンクを貼ってほしくなかったら、そもそもウェブサイトを立ちあげるなという文化ですので、リンクフリーというと「リンク先がない」という全然違う意味になります。

メールマガジンもノートパソコンも和製英語

 メルマガがよく届くと思いますが、このメールマガジン(メルマガ)も和製英語です。英語はイーメールニュースレターと言います。またUSBメモリも通じません。英語ではUSBフラッシュドライブです。

 キーボードを見ずに打つブラインドタッチの英語はタッチタイピング、キーボードについているテンキーはニューメリック・キーパッドです。ノートパソコンも和製英語で、英語ではラップトップコンピュータと呼んでいます。デルのパソコン注文で有名なオーダーメイドはカスタムメイド、アフターサービスはカスタマーサービスやユーザーサポートです。

 こうあげていくときりがありません。海外の人にコンピュータ用語をしゃべる時はご注意ください。

羽の生えたトースタが画面の中を飛ぶ 1989年

村上春樹の『アフターダーク』。23時56分から6時52分の間、深夜のデニーズやスカイラークに出現する異界の話。なかなかシュールな小説ですが、同じようにシュールだったのが画面の中を飛び回ったアフターダークです。

スクリーンセーバで画面の焼きつきを防ぐ

 今のデスクトップ画面ではあまり使われていませんが、以前はスクリーンセーバが必須でした。画面がブラウン管だった時代、同じ画面をずっと表示していると焼きつき、画面の跡が残ってしまいました。防止するために登場したのがスクリーンセーバで、焼きつきが起きないよう画面を常時動かしました。よく使われていたのがアフターダークというスクリーンセーバです。

 1990年代初頭、マッキントッシュ用のスクリーンセーバといえば花火のようなシンプルなものが中心でしたが、そこに登場したのがアフターダークです。アフターダークには複数のスクリーンセーバが入っていましたが、その中の一つが羽の生えたトースタ(フライング・トースタ)です。

羽の生えたトースタが画面の中を飛ぶ

 コンピュータを使わずにしばらく放置しておくとスクリーンセーバが起動され、やがてトースタと焼けたパンがマッキントッシュの画面いっぱいに飛びはじめます。なかなかシュールな画面でした。このシュールさが話題となりアフターダークはよく売れ、後にウィンドウズ版も登場します。アフターダークはモジュールと呼ばれるファイルを入れ替えることでスクリーンセーバを切り替えることができました。

 アフターダークには猫のボリスが蝶々を追い掛け、闇夜に夜行性の動物の目が次々と画面に浮かぶスクリーンセーバがありました。深夜、残業している時に休憩しているとアフターダークが動き始め、画面からは狼の遠吠えや虫の音が聞こえ、まるでジャングルで仕事をしているような印象でした。

 その後、ジョーク的なモジュールが次々と開発され、羽の生えたトイレや懐かしいみかん星人もありました。現在は液晶モニターがあたりまえとなり、スクリーンセーバの用途もさまがわり。インテリア、癒しといった用途で使われています。

水谷 哲也

水谷哲也(みずたに てつや) 水谷IT支援事務所 代表 プログラムのバグ出しで使われる“バグ”とは本当に虫のことを指していました。All About「企業のIT活用」ガイドをつとめ、「バグは本当に虫だった」の著者・水谷哲也です。1960年、津市生まれ。京都産業大学卒業後、ITベンダーでSE、プロジェクトマネージャーに従事。その後、専門学校、大学で情報処理教育に従事し2002年に水谷IT支援事務所を設立。現在は大阪府よろず支援拠点、三重県産業支援センターなどで経営、IT、創業を中心に経営相談を行っている。中小企業診断士、情報処理技術者、ITコーディネータ、販売士1級&登録講師。著作:「インターネット情報収集術」(秀和システム)、電子書籍「誰も教えてくれなかった中小企業のメール活用術」(インプレスR&D)など 水谷IT支援事務所http://www.mizutani-its.com/